酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

酔いどれJohnnyで御座います

小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

23 山谷掘公園(台東区東浅草)

山谷堀(さんやぼり)は、かつてあった東京の水路。正確な築年数は不明だが、江戸初期に荒川の氾濫を防ぐため[1]、箕輪(三ノ輪)から大川(隅田川)への出入口である今戸まで造られた。現在は埋め立てられ、日本堤から隅田川入口までの約700mが台東区立の「山谷堀公園」として整備されている。


『 広重『名所江戸百景』より「真乳山山谷堀夜景」。画面奥から手前の隅田川に注ぎ込む水路が山谷堀。今戸橋(現・今戸橋交差点付近)の橋脚が見え、左右には当時の著名な船宿であった竹屋と有明楼の窓が灯っている。背後の森は待乳山聖天である。』



江戸時代には、新吉原遊郭への水上路として、隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟が遊客を乗せて行き来し、吉原通いを「山谷通い」とも言った。船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋とされた。界隈には船宿や料理屋などが建ち並び、「堀」と言えば、山谷堀を指すくらいに有名な場所だったが、明治時代に遊興の場が吉原から新橋などの花街に移るにつれて次第に寂れ、昭和には肥料船の溜まり場と化し[2]永井荷風の記述によると、昭和初期にはすでに吉原は衰退しており、山谷堀も埋め立てが始まっていた[3]。戦後の売春防止法による吉原閉鎖後、1975年までにすべて埋め立てられた[4]


江戸の名所として
かつては「よろず吉原、山谷堀」と歌にも歌われ、江戸名所のひとつに挙げられる風情ある場所で、船の出入りが多くなる夏の夕方などは絵のように美しかったという[2]。河口岸には有明楼などの料亭があり、芸者遊びなどもできた。江戸三座があった猿若町(現在の浅草6丁目辺り)に近いため、山谷堀芸妓(堀の芸者)は「櫓下」とも呼ばれた[2]


水路と橋
水源は石神井用水(音無川)である。水流は根岸から三ノ輪を通って、隅田川まで続いていた。埋め立てられる前の山谷堀には、今戸橋・聖天橋・吉野橋・正法寺橋・山谷堀橋・紙洗橋・地方新橋・地方橋・日本堤橋の九つの橋があった。


『 今戸橋付近 (明治時代中期)』


紙洗橋付近には、浅草紙の生産所があり、原料である紙屑を紙舟に入れて山谷堀の流れにさらしておく2時間程度の間、職人たちは時間つぶしに吉原遊郭の軒先を見てまわった。見るだけで登楼しないことから、紙をさらしておく工程の「冷やかす」という言葉が、買う気のない客を表す言葉として使われるようになった[5]


著名な住人
弾左衛門
十返舎一九
田崎草雲
池波正太郎 - 待乳山聖天の南側(旧浅草聖天町)で生まれた。


舞台となった作品

・落語『夢金』『あくび指南

・映画『山谷堀』(島津保次郎監督、1922年)

・浮世絵「東京名所四十八景・三谷堀今戸はし夕立


脚注
1. 『江戸から東京へ. 第2編』矢田插雲著 大正10
2. abc 『田崎草雲先生の生涯』小室翠雲著 1930年
3. 『里の今昔』永井荷風青空文庫
4. 昭和毎日:池田信『1960年代の東京』
5. 「遊女と紙の文化史(山谷堀~吉原遊廓)」みちくさ学会


関連項目

山谷

八百善


外部リンク
山谷堀の絵図 - 浅草絵図
江戸名所図会ー山谷堀
山谷堀周辺の町割
浮世絵に描かれた山谷堀界隈1
浮世絵に描かれた山谷堀界隈2
浅草山谷堀 - 日下部金兵衛による撮影。
明治時代の山谷堀界隈の写真
「山谷堀から向島を望む」台東・今昔物語
「江戸から現代へ 今戸・山谷堀〜吉原」
(wikiより)


本題から反れるが、この川「死んだ遊女」が投げ捨てられていたという話しもある


そのせいか小生の友人勤めていた会社に「出る」という


その社屋脇は、川が埋め立てられるまで「川に降りられる」ようになっていたそうで昭和初期 (以前から)「土左衛門(どざえもん)」を上げていた場所なのだそうだ。









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22 平賀源内墓(台東区橋場2-22-2)

平賀 源内(ひらが げんない、享保13年(1728年)- 安永8年12月18日1780年1月24日))は、江戸時代中頃に活躍した本草学者地質学者蘭学者医者殖産事業家戯作者浄瑠璃作者俳人蘭画家発明家


源内は通称で、元内とも書いた。国倫(くにとも)[1]子彝(しい)。数多くの号を使い分けたことでも知られ、画号鳩渓(きゅうけい)、俳号李山(りざん)をはじめ、戯作者としては風来山人(ふうらいさん じん)[1]、浄瑠璃作者としては福内鬼外[1](ふくうち きがい)の筆名を用い、殖産事業家としては天竺浪人(てんじくろうにん)、生活に窮して細工物を作り売りした頃には貧家銭内(ひんか ぜにない)[2]などといった別名でも知られていた。


父は白石茂左衛門[3](良房)、母は山下氏の娘。兄弟多数。


経歴
讃岐国寒川郡志度浦[3](現在の香川県さぬき市志度)に生まれる。平賀氏は讃岐高松藩足軽身分の家で、元々は信濃国佐久郡の豪族(信濃源氏大井氏流平賀氏)だったが、『甲陽軍鑑』によれば戦国時代の天文5年(1536年)11月に平賀玄信の代に甲斐武田信虎による侵攻を受け、佐久郡海ノ口城において滅ぼされる。なお、この合戦は信虎の嫡男・晴信(信玄)の初陣としても知られる。後に平賀氏は奥州白石に移り伊達氏に仕え、白石姓に改めた。のちに伊予宇和島藩主家に従い四国へ下り、讃岐で帰農したという。


幼少の頃には掛け軸に細工をして、「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。寛延元年(1748年)に父の死により後役として藩の蔵番となる[4]宝暦2年(1752年)頃に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語医学油絵などを学ぶ。留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄する。


大阪京都で学び、さらに宝暦6年(1756年)には江戸に出て本草学者田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。宝暦11年(1761年)には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。物産博覧会をたびたび開催し、この頃には幕府老中田沼意次にも知られるようになる。宝暦9年(1759年)には高松藩の家臣として再登用されるが、宝暦11年(1761年)に江戸に戻るため再び辞職する[4]


このとき「仕官お構い」(奉公構)となり[5]、以後、幕臣への登用を含め他家への仕官が不可能となる。宝暦12年(1762年)には物産会として第5回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。江戸においては知名度も上がり、杉田玄白中川淳庵らと交友する。


宝暦13年(1763年)には『物類品隲』(ぶつるいひんしつ)を刊行[1]。オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念するが、源内は語学の知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。明和年間には産業起業的な活動も行った。明和3年(1766年)から武蔵川越藩秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発を行い、石綿などを発見した(現在のニッチツ秩父鉱山)。秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う。現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「源内居」として残っている。安永2年(1773年)には出羽秋田藩佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝える。


安永5年(1776年)には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。


安永8年(1779年)夏には橋本町の邸へ移る。大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死した。獄死した遺体を引き取ったのは狂歌師の平秩東作ともされている。享年52。杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。ただし晩年については諸説あり、上記の通り大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年に逃げ延びて書類としては死亡したままで、田沼意次ないしは故郷高松藩(旧主である高松松平家)の庇護下に置かれて天寿を全うしたとも伝えられるが、いずれもいまだにはっきりとはしていない。


墓所

戒名は智見霊雄。

墓所は総泉寺の移転前の台東区橋場の敷地にあり、総泉寺自体が浅草から板橋に移転した後もそのまま橋場の地に残されている。また、その後ろには源内に仕えた従僕である福助の墓がある。友人として源内の葬儀を執り行った杉田玄白は、故人の過日を偲んで源内の墓の隣に彼を称える碑を建てた。この墓の敷地は1931年(昭和6年)に松平頼寿の手により築地塀が整備され、1943年(昭和18年)に国指定史跡とされた。


平賀源内 碑銘(杉田玄白 撰文)

嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常
読)ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや
意)ああ、何と変わった人よ、好みも行いも常識を超えていた。どうして死に様まで非常だったのか

また故郷である、さぬき市志度の自性院(平賀氏菩提寺)にも源内の義弟(末妹の婿)として平賀家を継承した平賀権太夫が、義兄である源内を一族や故郷の旧知の人々の手で弔うために建てたと伝えられる墓が存在する。


一般には橋場の墓が葬墓で志度の墓が参墓(いわゆる両墓制)と言われているが、上記経歴にて前述したように源内の最期や遺体の処され方については諸説ある。(上述した高松松平家庇護説に則った場合は葬墓と参墓の関係が逆転する。)


人物と業績

・天才、または異才の人と称される。鎖国を行っていた当時の日本で、蘭学者として油絵や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。文学者としても戯作の開祖とされ、人形浄瑠璃などに多くの作品を残した。また源内焼などの焼き物を作成したりするなど、多彩な分野で活躍した。


男色家であったため、生涯にわたって妻帯せず、歌舞伎役者らを贔屓にして愛したという。わけても、2代目瀬川菊之丞(瀬川路考)との仲は有名である。


・『解体新書』を翻訳した杉田玄白をはじめ、当時の蘭学者の間に源内の盛名は広く知られていた。玄白の回想録である『蘭学事始』は、源内との対話に一章を割いている。源内の墓碑を記したのも玄白で、「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや〔貴方は常識とは違う人で、常識とは違うものを好み、常識とは違うことをする、しかし、死ぬときぐらいは畳の上で普通に死んで欲しかった。〕)とあり、源内の才能に玄白が驚嘆しその死を惜しんだことが伺われる。


・発明家としての業績には、オランダ製の静電気発生装置エレキテルの紹介、火浣布[1]の開発がある。一説には竹とんぼの発明者とも言われ、これを史上初のプロペラとする人もいる(実際には竹とんぼはそれ以前から存在する。該当項目参照)。気球や電気の研究なども実用化寸前までこぎ着けていたと言われる。ただし、結局これらは実用的研究には一切結びついておらず、後世の評価を二分する一因となっている。


・エレキテルの修復にあっては、その原理について源内自身はよく知らなかったにもかかわらず、修復に成功したという[6]


・「夏バテ防止のために土用の丑の日ウナギを食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した「本日土用丑の日」という広告キャッチコピーが元との説がある。また、明和6年(1769年)にはCMソングとされる、歯磨き粉『漱石膏』の作詞作曲を手がけ、安永4年(1775年)には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けており、これらをもって日本におけるコピーライターのはしりとも評される。


浄瑠璃作家としては福内鬼外の筆名で執筆[1]時代物を多く手がけ、作品の多くは五段形式や多段形式で、世話物の要素が加わっていると評価される。江戸に狂歌が流行するきっかけとなった大田南畝の『寝惚先生文集』に序文を寄せている他、風来山人の筆名で[1]、後世に傑作として名高い『長枕褥合戦』や『萎陰隠逸伝』などの春本まで残している。衆道関連の著作として、水虎山人名義により 1764年明和元年)に『菊の園』、安永4年(1775年)に『男色細見』の陰間茶屋案内書を著わした。


鈴木春信と共に絵暦交換会を催し、浮世絵の隆盛に一役買った他、博覧会の開催を提案、江戸湯島で日本初の博覧会「東都薬品会」が開催された。


・文章の「起承転結」を説明する際によく使われる、「京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す 」の作者との説がある。


詳しい事は『平賀源内ウィキペディア』を御覧下さいませ。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E6%BA%90%E5%86%85

(wikiより)


関連情報

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/316.html
303 田沼意次墓(豊島区駒込5・染井霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/323.html
310  笠森おせん・鈴木春信の碑(台東区谷中・大円寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/609.html
578 長崎屋跡(中央区・日本橋室町)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/672.html
632 司馬江漢墓(豊島区巣鴨5・寺眼寺)


 

 平賀源内


右が、平賀源内墓 左が、家来・福助墓


 平賀源内墓

 家来・福助墓

 

 明治通りに有る石柱









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21 二代目・高尾太夫の墓(台東区東浅草2-14-1・春慶院)

高尾太夫墓
江戸市外の整備と治安風致政策をたてた幕府は、明暦三年(1657)この年の正月にあった「明暦の大火」ののちに、日本橋の吉原遊郭を浅草日本堤下に移転させた。 いわゆる新吉原の誕生である。


太平の世相に伴い、新吉原は繁昌した。 高尾太夫は吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は十一人いたともいわれるが、いずれも三浦屋四郎左衛門方の抱え遊女であった。


この墓は、世に万治高尾、あるいは仙台高尾と謳われ、幾多の伝説巷談を生んだ二代目高尾太夫の墓という。


細部にまで意匠を凝らした笠石塔婆で、戦災で亀裂が入り、一隅が欠けている。 右面に遺詠、
    
「寒風にもろくもくつる紅葉かな」と刻む。


巷説に、仙台の大名、のちに伊達騒動の悲劇の主人公になった伊達綱宗とのロマンスがあり、高尾の綱宗に宛てた手紙の一節「忘れねばこそ、おもい出さず候」、「君はいま駒方あたりほととぎす」の句が伝えられている。


この墓は仙台候の内命によって建てられたといわれている。
(案内板より)


● 高尾太夫
高尾太夫(たかおだゆう)は、吉原太夫の筆頭ともいえる源氏名。高尾太夫は、吉原で最も有名な遊女で、その名にふさわしい女性が現れると代々襲名された名前で、吉野太夫夕霧太夫と共に三名妓寛永三名妓)と呼ばれる。三浦屋に伝わる大名跡であった。何代目まで続いたかは、諸説があって判然としておらず、6代説・7代説・9代説・11代説の4説がある。


歴代
高尾考

燕石十種』本「高尾考」を基本に、諸伝を合わせていくと、歴代は次のようになる。


・初代 - 後にとなって妙心と号し日本堤西方寺に庵を結んで念仏三昧に過ごしていたが、万治3年正月25日1660年3月6日)、「寒風にもろくも落つる紅葉かな」の一句を残して没したという。後述の2代目と混同されている。


・2代目 - 万治高尾。仙台高尾・道哲高尾とも。11代のうち最も有名で多くの挿話があるが、その真偽は不明である。陸奥仙台藩主・伊達綱宗の意に従わなかったために、三叉の船中で惨殺されたというのはその一つである。(伊達騒動参照)万治3年(1660年)没。墓所は東京都豊島区巣鴨の西方寺(元は新吉原近くの浅草日本堤にあったが、昭和初期に移転。)。[1]


・3代目 - 水谷高尾。水戸家の為替御用達・水谷六兵衛に落籍されてから、六兵衛の下人の平右衛門(68歳)と不義をして出奔し、後に浄瑠璃語りの半太夫の妻となったが、再び家を出て牧野駿河守の側女となっているうち、中小姓の河野平馬と通じてまたまた出奔し、その後、深川の髪結いの女房となり、さらに役者の袖岡政之助に嫁し、最後に神田三崎町の元結売の妻となったが、この家も不縁に終わったとみえ、ある年、大音寺前の茶屋の鎌倉屋の前で倒死していたとつたえられる。


・4代目 - 浅野高尾。3万石の浅野壱岐守により落籍[2]


・5代目 - 紺屋高尾。駄染(だぞめ)高尾とも。神田お玉が池の紺屋九郎兵衛に嫁した。駄染めと呼ばれる量産染色で手拭を製造し、手拭は当時の遊び人の間で流行したと伝わる。のち3人の子を産み、80歳余まで生きたとされる。


・6代目 - 榊原高尾。越後高尾とも。寛保元年(1741年)、播磨姫路藩15万石の当主・榊原式部大夫(榊原政岑)に落籍され[3][4][5]、国元へ従って行った[6]。政岑は高尾を姫路城内西御屋敷に住まわせた。しかし、折しも徳川吉宗による倹約令で質素倹約が進められている中、政岑の贅沢な振る舞いは吉宗の怒りを買い、要地の姫路から、僻地であり懲罰転封先として知られる越後高田への転封を命じられる。高尾太夫は高田への転封に同行し、越後高田城に住んだ。高田転封後数年で政岑は死亡。その後は側室のお岑の方に呼ばれて江戸に戻り、上野池の端の榊原家下屋敷に住んだ。剃髪して連昌院と号し、菩提を弔いつつ過ごし、天明9年(1789年)1月19日、30余歳(79歳説有)で病死した[7]、とされている。墓所は東京都豊島区南池袋の本立寺。


・7代目 - 徳川譜代の名門榊原家の播磨国姫路藩主・榊原政岑に身請けされるも、豪遊などを咎められ将軍・徳川吉宗の政策に反するとして隠居(三浦屋四郎左衛門抱高尾七代相続の次第 七代榊原高尾 延享寛延のころという)。上述の6代目と被るため混同されている可能性がある。


・8代目、9代目は伝わるところが少なく詳細不明。


・10代目 - ある大身の大名に落籍され、その領地である播磨の姫路に従っていったが、84歳の高齢で安らかな往生を遂げたという(「高尾考」では、この10代目と6代目の榊原高尾とが混同されているという)。


・11代目 - 寛保元年(1741年)、ある貴顕に落籍され廓を出る時、大門で盛り塩をする他にも目に余る沙汰があったので物議を醸し、吉原ではそれ以来、この名を憚って用いなかったと伝える。


この他にも、上記の2代目と3代目の間に「西條高尾(幕府御用蒔絵師の西条吉兵衛が見請け)」が入るとする、西條高尾ではなく「最上(さいじょう)高尾[8]」であるなどの話があり、他にも石井高尾[9]、六指高尾[10]、子持ち高尾[11]、小袖高尾、采女が原高尾[12]などの名が伝わり、代々を数えるには諸説ある。全体で6代説、7代説、9代説、11代説、などがあるが、他にも13代説や16代説もある。これらで語られる高尾太夫の中には「史実では実在せず、創作で語られたもの」を実在として数えている可能性がある。


なお、現存する錦絵や文芸、映像などのフィクションの世界では、伊達兵庫や島田髷、多数のかんざしを差した文化文政期(江戸後期)の遊女装束の高尾が登場するが、実際は宝暦年間(江戸中期)には三浦屋は廃業しており、同時期に吉原では太夫も消滅している。よってフィクションでの高尾太夫の表現は時代的にそぐわないものである。

また花魁という呼称は宝暦以降の高級遊女に対してものであり、太夫を花魁と表現するのは誤りである。


洞房語園
洞房語園』では、三浦屋の高尾は7代ありとして、初代を妙心高尾、2代目を仙台高尾、3代目を御蒔絵師西条吉兵衛に落籍された西条高尾、4代目を水谷庄左衛門に落籍された水谷高尾、5代目を浅野因幡守に落籍された浅野高尾、6代目をだぞめ高尾、7代目を榊原高尾としている。


『洞房語園』には、妙心高尾は生みの児を乳母に抱かせて廓内を道中したので、子持高尾と呼ばれたとある。


高尾年代記
堀野書廛(1783-1842)の『高尾年代記[13]では、三浦屋の高尾は10代としている。


関連項目
紺屋高尾落語の演目)


脚注
1. また、埼玉県坂戸市永源寺墨田区押上春慶寺にも、墓所とされる墓がある。


2. 浅野壱岐守には播州赤穂藩浅野家の分家で幕府寄合旗本で山田奉行・堺奉行などを歴任した3000石浅野長恒、その曽孫に当たる浅野長致がいるが「3万石の浅野壱岐守」は存在しない。


3. 幕府を憚ってか、一応の建前上、大商人の名を借りて身請けがされている。


4. 政岑はこれ以前にも二人、遊女出身の側室を持っている。


5. 総費用は6000両、平成時代の通貨に換算して5億ぐらいとされている。身請け当日は吉原の遊女2000人ほどを貸し切って宴会が行われた。


6. 政岑五回目のお国入りとなるこの道中は、通常の倍近い日数の一か月をかけ、有馬温泉などにも立ち寄り、その際湯女を3人身請けして連れ帰っている。


7. 榊原政岑は寛保3年(1743年)31歳で死去、なので30余歳死亡説では年代が合わない。


8. 紀州藩士の最上吉右衛門(禄高5百石)が身請けし紀州に連れ帰った。


9. 近江彦根藩士・石井吉兵衛に由来。


10. 六本高尾。右足の指が6本あったと伝わる。その為、通常は素足であった太夫であるが、この高尾太夫だけは足袋を履いていたと伝わる。


11. 子供を産んでもなお高尾太夫であり続け、花魁道中を乳母に抱えさせた子連れでこなしたとされる。


12. 身請け後、采女が原(現在の東京都中央区木挽町)の水茶屋の女房になった。紺屋高尾が身請け後は紺屋を辞め、水茶屋を始めたとする説がある。


13. http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wo06/wo06_01554/index.html
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/41.html
38 若紫供養碑(三ノ輪・浄閑寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/135.html
132 西方寺・万治高尾墓(豊島区巣鴨4-8-42・西方寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1399.html
1298 薄雲太夫墓(品川区南品川1-1-1・妙蓮寺)










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