酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

175 初代・市川猿翁句碑(浅草神社)

「翁の文字まだ身にそはず 衣がえ」 猿翁


建碑 昭和四十二年五月十七日
選文 市川猿翁


孫団子に三代目猿之助を譲り、自らは猿翁を襲名。


昭和三十八年五月、歌舞伎座に於いて襲名興行。(浅草寺の襲名お練り行列は四月十六日」
『猿翁』(昭和三十九年六月東京書房刊)には、「翁の文字まだ身にそはず衣がへ 猿翁 昭和三十七年五月・猿翁襲名のとき」とある。


明治二十一年五月十日、浅草千束町二丁目に生まる。


父、喜熨斗亀次郎(初代・市川猿之助 段四郎)、母、古登の長男(弟妹は十人)兵役を終えたのち明治四十三年十月(二十二才)で二代目・市川猿之助を襲名。


昭和三十八年六月、聖路加病院(心不全)にて死去。 享年七十五才。


昭和三十六年三月二十八日 浅草三丁目三十九番地に生家に因みて「猿之助横丁碑」を建てる。


● 初代・市川猿翁
初代 市川 猿翁(しょだい いちかわ えんおう、1888年明治21年)5月10日 - 1963年昭和38年)6月12日)は、明治から戦後昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。屋号澤瀉屋定紋澤瀉、替紋は三ツ猿俳名に笑猿(しょうえん)がある。本名は喜熨斗 政泰(きのし まさやす)。


「猿翁」は舞台で使われることが一度もなかった隠居名の名跡で、しかも改名直後に本人が死去したため実績もまったくない。逆に「猿之助」の方は53年間にわたって名乗り続けた名跡で、これが今日でも彼が二代目 市川 猿之助(にだいめ いちかわ えんのすけ)として語られることが多い所以である。


当代の二代目市川猿翁(三代目市川猿之助)四代目市川段四郎の兄弟は孫にあたる。


来歴・人物
初代市川猿之助(二代目市川段四郎)の長男。九代目市川團十郎に入門。1892年(明治25年)10月、歌舞伎座『関原誉凱歌』(せきがはら ほまれの かちどき)の千代松で初代市川團子を名乗り初舞台。今後は歌舞伎役者も豊富な教養が必要という父の意向で私立京華中学に進学・卒業するが、これは当時の歌舞伎界では異例なことだった。


1909年(明治42年)、二代目市川左團次の主宰する自由劇場に参加。翌1910年(明治43年)、二代目市川猿之助を襲名、以後実に53年間にわたってこれを名乗り続ける。


その後欧米に留学して最新の舞台芸術を学ぶ。このとき見たディアギレフのロシア舞踊が『黒塚』『小鍛冶』『悪太郎』などの新作舞踊の立体的な演出に生かされるなど、猿之助にとって貴重な体験となった。1920年(大正9年)には春秋座を主宰し、新作や翻訳物に取り組む。一時松竹を離脱、復帰後は二代目左團次一座に入り、真山青果の新作歌舞伎で共演して名舞台を生んだ。その後も埋もれていた古典の復活上演、新作喜劇『小栗栖の長兵衛』『研辰の討たれ』『膝栗毛』の初演、映画『阿片戦争』の主演などで話題を集める。


戦後も活動の勢いは衰えることなく、ソ連・中国公演、古典ものの本格的上演、井上正夫初代水谷八重子新派との共演など幅広い活躍を続ける。1957年(昭和32年)、日本俳優協会の初代会長に就任。長年の功績が認められ日本芸術院賞受賞(1952年[1])、日本芸術院会員となる。


1963年(昭和38年)、ある夜みた夢から自らの死を予感した猿之助は、そろそろ潮時と、自分は新たに「市川猿翁」を名乗ることにし、「猿之助」の名跡は長孫に譲り、その弟(後の四代目段四郎)には四代目市川團子を襲名させることにした。ところが予感が的中、5月の歌舞伎座における「初代市川猿翁・三代目市川猿之助、四代目市川團子 襲名披露興行」を目前に控えて4月20日心臓病で倒れる。披露興行では生涯の当たり役である『黒塚』の老女を舞って孫の晴れ舞台に花を添えるつもりでいたが、病院で絶対安静を余儀なくされてしまった。そこで急遽三代目猿之助が代役でこれを務めたが、孫がこの舞を踊る1時間15分間のあいだ、猿翁はベッドの上に正座・合掌してその無事を祈った。せめて千穐楽の口上だけでも自ら務めたいという願いが叶い、やはり前年から病臥していた息子の三代目段四郎と共に病躯に鞭打って、3日間だけ、数分間だけではあるが歌舞伎座の舞台に上った。これが猿翁としての唯一の舞台、そして彼の生涯で最後の舞台となった。この時の口上は、猿翁・三代目段四郎ともに切れ切れな調子であったため、観客の涙を誘い、『涙の口上』と現在も語り継がれている。


二週間後の6月12日午後12時28分、入院先の聖路加病院において心不全のため死去、75歳だった。


芸風
明るく男性的な芸風で口跡に優れていた。当たり役は『仮名手本忠臣蔵』「九段目」の本蔵、『傾城反魂香』の又平、『近頃河原の建引』(ちかごろ かわらの たてびき)の与次郎、『平家女護島』「俊寛」の俊寛などの古典。『将軍江戸を去る』の山岡鉄太郎、『元禄忠臣蔵』「最後の大評定」の井関徳兵衛、『元禄忠臣蔵』「御浜御殿豊綱卿」の富森助右衛門、『研辰の討たれ』の辰次、『新宿夜話』の大八などの新作。『雨の五郎』『草摺引』の曽我五郎などの舞踊などがある。


特に猿翁自身が得意とした舞踊は、三代目猿之助により1964年(昭和39年)6月に「猿翁十種」として、1975年 (昭和50年)11月には「澤瀉十種」として、それぞれまとめられた。


脚注
1. 『朝日新聞』1952年3月26日(東京本社発行)夕刊、2頁。
(wikiより)


 初代・市川猿翁








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174 暫像(浅草・浅草寺)

大正八年、江戸歌舞伎ゆかりの地 浅草の浅草寺境内に「劇聖」と謳われた明治の名優・九代目市川團十郎の歌舞伎十八番「暫」の銅像が作られました。


この銅像は近代彫塑の先駆者・新海竹太郎の傑作であり 歌舞伎の象徴として全国の人々から親しまれておりました。


ところが 第二次世界大戦中の昭和十九年十一月三十日 金属類回収のため この「暫」の銅像も供出の命を受け 四十余年を経てまいりました。


この度 十二代市川團十郎襲名を機に 復元の機運が高まり 浅草寺の御理解のもと 多くの方々に御尽力を賜り ここに「暫」の銅像が再現されました。


十一代目並びに十二代市川團十郎父子 地元浅草及び松竹株式会社三者の永年の願いが叶えられたことになります。


この のちも 歌舞伎の隆盛とともに この「暫」の銅像が歌舞伎の象徴として 日本国民はもとより世界の人々からも幾久しく愛されますことを願ってやみません。


昭和六十一年十一月三日     宇野信夫選書
九代目市川團十郎「暫」銅像 復元建設委員会 十二代 市川團十郎
                      浅草観光連盟
                      松竹株式会社
(案内板より)


● 九代目・市川團十郎
九代目 市川 團十郞(くだいめ いちかわ だんじゅうろう、新字体:団十郎天保9年10月13日1838年11月29日) - 1903年明治36年)9月13日)は明治時代に活躍した歌舞伎役者。屋号成田屋定紋三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。俳号に紫扇(しせん)・團州(だんしゅう)・壽海(じゅかい)・三升(さんしょう)、雅号には夜雨庵(ようあん)。本名は堀越 秀(ほりこし ひでし)。


五代目 尾上菊五郎初代 市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」を築いた。写実的な演出や史実に則した時代考証などで歌舞伎の近代化を図る一方、伝統的な江戸歌舞伎の荒事を整理して今日にまで伝わる多くの形を決定、歌舞伎を下世話な町人の娯楽から日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めることに尽力した。


その数多い功績から「劇聖」(げきせい)と謳われた。また歌舞伎の世界で単に「九代目」(くだいめ)というと、通常はこの九代目 市川團十郎のことをさす。


修業時代

七代目 市川團十郎の五男で、生後まもなく河原崎座の座元・六代目 河原崎権之助の養子になり三代目河原崎長十郎を襲名する。義父母とも長十郎の将来のためにと、幼い時より踊りや三味線、さらに書道や絵画なども学ばせた。


朝早くから夕方まで休みなしで稽古をつけられ、夜は早いうちに寝るという手厳しいもので[1]、後に九代目自身がこの当時のことを、「体が自分のものになるのは便所に入っている時くらいのものだった」と語っている。丈夫な体が自慢だった実父の七代目 團十郎もさすがにこれを心配して意見したが、義母は平然と「他の子は砂糖漬けだが、うちは同じ砂糖漬けでも唐辛子が入ってあるよ」と答えたという。弘化2年正月(1845年2月)、8歳のとき河原崎座『魁源氏曾我手始』の小奴升平実ハ源太丸で初舞台を踏む。


雌伏の時代
嘉永5年9月(1852年10月)将軍家に男子が生まれ長吉郎と名付けられたので、「長」の字をはばかり初代河原崎権十郎を襲名する。その2年後、兄の八代目 市川團十郎が大坂で自殺、この頃から次弟の権十郎がゆくゆくは「市川團十郎」を襲名することが期待されるようになる。そのため養父母の教育はさらに厳しいものになり、ある日ひどい頭痛で舞台を休もうとしていたところ、養父が「貴様は何だ、役者ではないか。役者が舞台へ出るのは、武士が戦場へ行くのと同じことだ。舞台へ行って死んでこい」と叱責されて無理矢理舞台に出されたこともあった[2]


その後、父の高弟だった四代目 市川小團次が後見人となる。しかし『三人吉三廓初買』のお坊吉三や、『八幡祭小望月賑』(縮屋新助)の穂積新三郎などの大役を与えられても、立ち振る舞いが堅く科白廻しにも工夫がないので「大根」だの「お茶壺権ちゃん」だのと酷評された。当時将軍家に献上される茶壺を護衛する役人の空威張りは巷では笑いの種だったが、権十郎はその役人よりもなお空威張りに見えたことを皮肉ったものである。兄の当たり役『与話情浮名横櫛』(源氏店)の与三郎を勤めれば、外見は兄に似ていたが科白が重々しくて不評。『勧進帳』の弁慶を勤めれば、芝居が未熟だと小團次にこっぴどく叱られる。散々の酷評に次ぐ酷評で、本人も嫌気して芸が伸び悩んだ。
明治元年(1868年)秋には浪人の押し入り強盗によって養父が自宅で刺し殺され、自身も納戸に隠れて九死に一生を得るという惨事に遭遇。そのときに聞いた養父の呻き声は終世忘れる事ができなかったという。そんな不幸の中で相続した河原崎座の座元という重責をこなし、翌年三月に七代目河原崎権之助を襲名する。


しかし4年後には妻の甥にあたる河原崎蝠次郎に八代目を譲り、自らは河原崎三升を名乗る。翌 1874年(明治7年)には非業の死を遂げた養父の遺志を継いで、安政2年(1855年)の失火全焼以後20年来絶えていた河原崎座を芝新堀町に再興。これを養家への置き土産に実家の市川宗家に戻り、同年七月、37歳のとき、九代目 市川團十郎を襲名した。


飛躍の時代

市川宗家に戻って九代目團十郎を襲名した後も、團十郎はしばらくの間は河原崎座との縁が切れなかった。河原崎座はその名を改め新堀座となっていたが、義理の甥の八代目権之助に座元の任は重く、すぐに経営難に陥って團十郎に泣きついたのである。團十郎は結局新堀座の座元を兼ねて借財を背負わなければならなかった。だが、1876年(明治9年)に十二代目 守田勘彌に招かれて新富座に出勤した頃からようやく芸が伸び始める。


文明開化の時代にあって、従来の荒唐無稽な歌舞伎への反省から歌舞伎の革新を志し、明治10年代(1877年 - 1886年)には学術関係者や文化人と組んで時代考証を重視した演劇に取り組んだ。これがやがて「活歴」と呼ばれるようになる一連の演目を世に出すことになる演劇改良運動となった。しかし観客の支持は得られず、興行的には散々で、負債[3]の埋め合わせために地方回りをすることもたびたびあった。それ以降は古典作品の型の整備に取り組んだ。


1887年(明治20年)には明治天皇の御前で初の天覧歌舞伎を催すという栄誉に浴し、『勧進帳』の弁慶などを勤めた。この天覧歌舞伎は外務大臣井上馨邸で開催されたが、九代目は井上のほかにも伊藤博文松方正義などの元老とも交流を持ち、歌舞伎俳優の社会的地位の向上につとめた。


1889年(明治22年)、歌舞伎座が開場。この頃から九代目は五代目 尾上菊五郎初代 市川左團次らとともに東京の劇界を盛り上げ、「團菊左」と呼ばれる明治歌舞伎の黄金時代を築いた。またこの時期に作者・河竹黙阿弥を得て『北条九代名家功』(高時)、『極付幡随長兵衛』(湯殿の長兵衛)、『天衣紛上野初花』(河内山)、『船弁慶』、『大森彦七』などを完成し、また福地桜痴と組んで『春興鏡獅子』『侠客春雨傘』などを創り上げるなど、数多くの名作を残した。また父・七代目の撰した「歌舞伎十八番」18種を補足するかたちで、自らの得意芸を多く盛り込んだ「新歌舞伎十八番」32〜40種も撰している。


晩年は『娘道成寺』の白拍子花子をオルガンやバイオリンの伴奏で勤めたりして、最後まで新しい歌舞伎を追求していた。後進の指導にもあたり、十五代目 市村羽左衛門五代目 中村歌右衛門初代 中村鴈治郎七代目 松本幸四郎六代目 尾上菊五郎初代 中村吉右衛門などの有望な若手を育てた。


詳しい事は『九代目・市川團十郎ウィキペディア』を御覧下さいませ。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%B7%9D%E5%9C%98%E5%8D%81%E9%83%8E_(9%E4%BB%A3%E7%9B%AE)

(wikiより)


関連情報

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/430.html
416 九代目・市川團十郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2693.html

2441 十一代目・市川團十郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


 

 九代目・市川團十郎









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173 樋口一葉終焉の地(文京区西片1-17-8・紳士服コナカ前)

一葉の本名は奈津 なつ、夏子とも称した。


明治5年(1872)東京都内幸町(現・千代田区内幸町)に生まれ、明治29年(1896)この地で、24年の短い生涯を閉じた。


文京区在住は十余年をかぞえる。


明治9年(1876)4歳からの5年間は、東京大学赤門前(法真寺隣)の家で恵まれた幼児期を過ごした。


一葉はこの家を懐かしみ"桜木の宿"と呼んだ。


父の死後戸主となった一葉は、明治23年(1890)9月本郷菊坂町(現・本郷4丁目31・32)に母と妹の3人で移り住んだ。


作家・平井 桃水(とうすい)に師事し「文学界」同人と交流のあった時期であり、菊坂の家は一葉文学発祥の地といえる。


終焉の地ここ丸山福山町に居を移したのは、明治27年(1894)5月のことである。


守喜(もりき)という鰻屋の離れで、家は六畳二間と四畳半一間、庭には三坪ほどの池があった。


この時期「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「ゆく雲」など珠玉の名作を一気に書き上げ、"奇跡の二年"と呼ばれている。


「水の上日記」「水の上」等の日記から丸山福山町での生活を偲ぶことができる。


一葉樋口夏子の碑
花ははやく咲て散がた はやかりけり あやにくに雨風のみつヾきたるに かぢ町の方上都合ならず からくして十五円持 参いよいよ転居の事定まる 家は本郷の丸山福山町とて阿倍邸の山にそひてさゝやかなる池の上にたてたるが有けり守喜といひしうなぎやのはなれ座敷成しとて


さのみふるくもあらず 家賃は月三円也たかけれどもこゝとさだむ 店をうりて引移るほどのくだくだ敷おもひ出すも わづらハしく心うき事多ければ得かゝぬ也 五月一日 小雨成しかど転宅 手伝は伊三郎を呼ぶ


上一葉女史の明治廿七年四月廿八日五月一日の日記より筆跡を写して記念とす


この文学碑は、昭和二十七年九月七日に建てられた。


日記以外の表面の文字と裏面の文字は、平塚らいてうの書。


裏面には、岡田八千代の撰文による一葉の業績の概要と、興陽社社長・笹田誠一氏の篤志によってこの碑が建てられたことが記されている。


昭和二十七年八月上旬、世話人、岡田八千代、平塚らいてう、幸田文、野田宇太郎(日記文選定)、井形卓三(文京区長)とある。
(案内板より)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/134.html
131 樋口一葉宅跡(文京区本郷4-32付近)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/232.html
228 斎藤緑雨居住の地跡(文京区本郷6-4付近)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/247.html
243 樋口一葉ゆかりの桜木の宿(文京区本郷5)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/671.html
631 中島歌子墓(台東区・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/865.html
796 一葉ゆかりの伊勢屋質店(文京区本郷5-9-4)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3074.html
2887 樋口一葉玉梓乃碑(台東区千束3-18-7・鷲神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3083.html
2896 樋口一葉文学碑(台東区千束3-18-7・鷲神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6458.html

5611 入沢常子墓(台東区・谷中霊園)


 

 樋口一葉









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