酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

酔いどれJohnnyで御座います

小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

7000 西野前知墓(神奈川県横須賀市東浦賀二丁目・顕正寺)

西野前知(にしの - さきとも)


浦賀が生んだ明治の歌人


江戸時代の後期から明治にかけて、浦賀を中心に三浦半島の歌壇をリードしたのが西野前知です。
 
彼の代表する和歌は、
 
北の海に とるやひろめのいやひろく
    国もさかゆる きみが御代かな


で、前知が明治23年(1890)の御歌会始に詠進して、預選の栄に浴したときものです。


家は代々回船問屋
前知は、文政5年(1822)2月に生まれました。
 
若いころの名を豊治郎といい、後に市郎左衛門。また、通称は佐六で、名を前知と言いました。
 
家は代々市郎左衛門を名乗る回船問屋でした。
 
前知は、ペリーが来航する直前の嘉永6年(1853)5月、前年亡くなった父の後を継ぎ、8代目の市郎左衛門として、浦賀奉行に認可されました。


ここでいう回船問屋とは、浦賀奉行所の足軽役として、江戸へ出入りする


すべての船の乗組員と荷物の検査をする「船改め」の業務を担当していた人々です。
 
西野家は下田奉行所時代からこの仕事をし、奉行所の移転に伴って下田から浦賀へ移住してきました。
 
このような人々を総称して「下田問屋」といい63軒ありました。


門下は女性や商人など前知は、文久3年(1863)、40代になったばかりで下田問屋の年寄り役となり、さらに三方問屋(下田、東西浦賀の回船問屋105軒)の行司(事務を担当し世話をする役職)にもなりました。
 
明治維新後は、請われて新政府の浦賀役所に出仕し、ここでも官と民の太いパイプ役として活躍しました。


このように前知は、実生活でも大きな業績を残していますが、隠居した明治10年代からは、本格的な歌詠み三昧の毎日となります。
 
そして、浦賀を中心として女性や商人、知識階層の人々に和歌を浸透させていきました。
 
自らも進んで東都の歌人たちと交流を持ち、視野を広めていったのです。


前知と栄えた浦賀歌壇
明治23年には、友人であった中島三郎助の23回忌追悼文を著しました。
 
これを機に、西浦賀の愛宕山に三郎助の招魂碑が建立されることになり、その趣意の文章が石碑として残されています。


前知は、同27年10月に、72才でその生涯を閉じ東浦賀の顕正寺で静かに眠りについています。


その墓石には、自らの手で書かれた「西野前知」と並んで、「田中勝子」と夫婦を別姓で表す当時の風潮を取り入れるなど、新しい考えの持ち主でもありました。


浦賀歌壇は、前知の出現で栄え、彼の死とともに消滅していったと言っても過言ではありません。
(山本 詔一)


横須賀人物往来 改訂版
平成11年(1999)8月23日発行
編集・発行 (財)横須賀市生涯学習財団


より転載させて頂きました