酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6827 二代目・市川段四郎墓(台東区・寛永寺墓地)

二代目 市川段四郎(にだいめ いちかわ だんしろう、1855年9月2日(安政2年7月21日) - 1922年(大正11年)2月6日)は明治・大正時代の歌舞伎役者。


初代市川猿之助として知られる。屋号は澤瀉屋。紋は、猿之助としては、定紋が澤瀉、替紋が三ツ猿。段四郎としては、定紋が三升に段の字、替紋が八重澤瀉。


本名は喜熨斗 亀次郎(きのし かめじろう)。俳名に笑樂・壽猿がある。


来歴
江戸浅草に立師の坂東三太郎の子として生まれる。1859年(安政6年)十三代目市村羽左衛門の門人で市村長松となり子供芝居に出演。1862年(文久2年)9月に江戸市村座に出る。五代目坂東彦三郎の門で坂東羽太作と改名。1870年(明治3年)には河原崎権十郎(のち九代目市川團十郎)の門下に入るが、門人との軋轢から小芝居に出演し、その際、師に無断で『勧進帳』の弁慶を演じたことが勘気にふれ破門となる。この後は山崎猿之助、松尾猿之助と改名を繰り返し、旅興行から大阪の舞台に立つなど辛酸をなめながら芸を磨く。その甲斐あって1890年(明治23年)には師から破門を解かれ、初代市川猿之助となる。翌1891年(明治24年)東京歌舞伎座『出世景清』の梶原平次・千葉之助で名題に昇進、九代目の高弟として活躍した。


九代目の死後、1905年(明治38年)9月の歌舞伎座での追善興行では一門を代表して口上を述べた。1910年(明治43年)10月歌舞伎座で『鎌鬚』の六十六部快山実ハ将軍太郎良門・『桐一葉』の大野道軒で二代目市川段四郎を襲名。以後東京歌舞伎の長老として重きを成した。


芸風
男性的な芸風で表現力に優れた。『仮名手本忠臣蔵』の高師直、『伊賀越道中双六』「沼津」の平作、『平家女護島』「俊寛」の俊寛など、義太夫狂言の老役が当たり役。市川宗家のお家芸では、『勧進帳』の弁慶や『鎌鬚』の六部。特に歌舞伎十八番の一つでありながらその大略までが不明になっていた『鎌鬚』を復活上演させてからは、事実上これが成田屋のお家芸から澤瀉屋のお家芸に替わった。このほか『積恋雪関扉』(関の扉)、『奴道成寺』、『独楽』などの所作事にも長じた。


門人から歌舞伎界の中核にまで出世した二代目段四郎は、反骨精神と新取の気概に富み、坪内逍遥の新歌舞伎に挑戦したり、当時の最新の演劇であった新派に客演するなど歌舞伎の革新化を推進した。
(wikiより)


関連情報
https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/7857.html

6825 高杉早苗墓(台東区・寛永寺霊園)


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6826 二代目・市川猿之助墓(台東区・寛永寺墓地) 


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6828 三代目・市川段四郎墓(台東区・寛永寺墓地)


 二代目・市川段四郎