酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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75 寺坂吉右衛門信行墓

寺坂 信行(てらさか のぶゆき、寛文5年(1665年) - 延享4年10月6日1747年11月8日))は、江戸時代前期の人物。赤穂浪士四十七士の一人。通称は吉右衛門(きちえもん)。のち麻布山内家の家臣。


生涯
寛文5年(1665年)、赤穂藩浅野家家臣で船方役人・寺坂吉左衛門の子として赤穂若狭野に生まれた。母は川端与右衛門女。


寛文12年(1672年)、8歳の時に吉田兼亮の家で奉公のうえ世話になるようになった。元禄4年(1691年)、兼亮が加東郡郡代となった際に赤穂藩の足軽浅野長矩直臣)とされた。赤穂藩内では兼亮の組下で3両2分2人扶持を支給された。またこの年に浅野家小役人下村長次郎の娘と結婚している。また、元禄7年(1694年)には吉田兼亮の娘が伊藤治興姫路藩士)に嫁ぎ、翌年には2人は長男伊藤治行を儲けたが、この介抱を寺坂夫婦が任されている。


元禄14年3月14日(1701年4月21日)、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及んで切腹し、赤穂藩は改易となったが、この際に寺坂は兼亮とともに加東郡におり、ともに赤穂城へ駆け付けた。赤穂城明け渡しを前に家老大石良雄が同志と血判の義盟を交わしたが、この義盟に足軽の身分の寺坂は加わっていない。その後、上司の吉田兼亮が播州三木(現:兵庫県三木市)へ退くとこれに従う。寺坂は同志に加えて貰えるよう強く願い、大石良雄は最初は寺坂の身分を考えて躊躇したが、その熱意にほだされて義盟に加えた。寺坂は吉田兼亮に付き従い、足軽の身分ながら同志との会合にも出席している。


元禄15年12月14日(1703年1月30日)の吉良邸討ち入りでは裏門隊に属していた。しかし、討ち入り後に赤穂浪士一行が泉岳寺へ引き上げたときには寺坂の姿はなかった。討ち入り直前に逃亡したという説、討ち入り後に大石良雄から密命を受けて一行から離れたという説、足軽の身分の者が討ち入りに加わっていることを大石が公儀に憚りがあるとして逃したという説があるが、真相は不明である。『忠臣蔵』の物語では討ち入りの様子について、浅野家のゆかりの者へ伝えるよう大石から命を受けて瑤泉院広島に蟄居していた浅野長広の元へ行ったように描かれ、吉田兼亮が寺坂を「不届き者」呼ばわりしたのは、公儀に追手を出されない為の配慮であったなどという描写も見られる。


討ち入り後の寺坂には、大目付仙石久尚の決定により一切の追手はかからなかった。そのまま吉田兼亮の娘婿の伊藤治興に奉公している。伊豆大島に遠島に処された兼亮の遺児吉田兼直にも忠義を尽くしている。遠島の際の見送り、赦免後の出迎え、伊藤家までの護送、すべて寺坂が行っている。その後、仙石久尚の元に出頭したと言われるが、久尚は一切罪を問わず、逆に金子を与えて送り出した。


しかしその後伊藤家を離れたようで享保8年(1723年)3月頃には江戸麻布の曹渓寺で寺男をつとめている。さらに同年6月頃には曹渓寺の口利きで、土佐藩主山内家の分家麻布山内家の第3代山内豊清(主膳)に仕えて士籍を得た[1]。このときに今日にまで残る寺坂の「親類書」が提出されたという。


延享4年(1747年)に病死。曹渓寺に葬られる。戒名は節岩了貞信士。享年83。後年、慶応年間に入ってから泉岳寺の義士墓所に供養墓が建てられており、ここでの戒名は、遂道退身信士となっている。


映画・ドラマなどフィクションでは大石良雄の従者として描かれる事が多い。また、柴田錬三郎小説『裏返し忠臣蔵』など、寺坂を忍びの者として描いている作品も存在する。


四十七士か四十六士か

寺坂信行は士分ではなく足軽身分である。また寺坂は討ち入り後、泉岳寺に行くまでに姿を消している。そのため、彼を赤穂浪士の一人として加えるべきかどうかが、事件当時から論争の火種になってきた。


後に上司の吉田兼亮も「吉右衛門は不届き者である。二度とその名を聞きたくない」と語り、大石良雄は「軽輩者であり、構う必要はない」と書き残している。一方、伊藤家の資料から四十六士が四家にお預かりになった後、寺坂が浅野長広がいる広島へ行っていることが確認できる。堀部言真の書簡からも討ち入り後、寺坂が寺井玄渓(赤穂藩医)のもとへ行っていることが確認されている。


なお、寺坂が討ち入りに加わりながら幕府の追手に掛らなかったのはすべて仙石久尚の意向による。浅野長矩の親戚である仙石は、大石が出頭した大目付であり、評定所では浅野びいきの判決を出した人物である。


寺坂吉右衛門の墓

・東京都港区 曹渓寺
・東京都港区 泉岳寺
・宮城県仙台市泉区 実相寺
・静岡県加茂郡西伊豆町 慈眼寺
・福岡県八女市 一念寺
・長崎県五島市 恵剣寺
・島根県益田市
・鹿児島県出水市美原町


子孫
寺坂静子(前田静子)


補注
1. 『土佐史壇』青木義正著、第2号(大正7年)による。


関連項目

大石神社
最後の忠臣蔵 - 池宮彰一郎が著した寺坂を主人公とする歴史小説。2004年にNHKで連続ドラマ化、2010年に映画版も公開された。
山内豊清 - 晩年、寺坂が仕えた主君。
日本最後の一覧


(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/15.html
12 大石良雄外十六人忠烈の跡(港区高輪1・高輪1丁目アパート)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/28.html
25 赤穂浪士ゆかりの寺(台東区谷中5-8・観音寺)



 

 寺坂吉右衛門信行









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