酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6790 壮士墓(静岡市清水区築地町)

● 壮士墓 ( そうしのはか )
新政府の討伐隊は 10間 ( 18メートル ) の至近距離から各艦 5~ 6発うった。


咸臨丸は府中藩の説得を「承伏」しており、戦うつもりはなく、降伏のしるしに旗を降ろした。


そして砲撃は中止され、武蔵丸は近づき、飛竜丸は「乗り付け」士官が指揮して乗り移って来た。そこで不幸な斬りあいが始まってしまった。


あっけなく勝負がついたのだが、斬りあいが終っても艦内にいる乗員を見つけ出しては手あたりしだいに斬り殺したり、泳いで逃げる者を小銃隊は射撃したりした。


討伐隊の艦長に無益な殺傷を禁じられ、やっと静まったと言われている。
 
討伐隊が去って数日。港は死臭でたえられなくなった。討伐隊は死体を内海に投げすてていったのである。


賊兵の死体を埋めることは慰霊したことになり、賊の片われとみなされる。だから誰もおそれて手をくださない。


清水次郎長は、港内各所に流れついた死体を夜集め、こっそり無縁墓地に埋めた。


現在の壮士墓の場所である。死体収容にあたり、次郎長は「人の世に処る賊となり敵となる悪む所唯其生前の事のみ若し其れ一たび死せば復た罪するに足らんや」と言ったと言う。のち、山岡鉄舟がその志に感じ「壮士墓」と書いて与えた。



今も人々は
次郎長の処理した死体は 7体であった。その筋の取調べが終り、年の内に梅蔭寺で戒名をつけてもらった。


死体収容の真の動機は何にか、もうわからない。海からの使者は、生前の身分に関係なく、平等に供養する海のしきたりに従って、次郎長は咸臨丸の戦死者をほうむった。住民の生活を守るため処罰覚悟で死体をかたずけた。


ただ、その事実がいつも人々の心をさわやかにしてくれる。
 
山岡鉄舟の筆になる石塔が建ったのは 3回忌の頃と思われる。


将来の清水港の発展を考えて、記念碑だけは他の景勝の地を選んだ。清水市興津清見寺境内にある咸臨丸殉難の碑である。


昭和 25年 ( 1950 ) 壮士墓のある築地町に住む山梨浅吉ら有志が墓のかたわらにお堂を建てた。
 
9月 18日の祥月命日には地元築地町の人々によって毎年供養がおこなわれている。


● 咸臨丸 ( かんりんまる ) とは
咸臨丸は徳川幕府が開国による近代的海軍の必要から、オランダに注文して造らせた第 1号蒸気軍艦である。船体はクリッパー型、推進器は現在のようなスクリューである等、新技術で建造された。大砲は 12門。


船尾から船首第 2傾檣先端まで約 50メートル。排水量 630トンの武装商船スタイルであった。


万延元年 ( 1860 ) 日本修好通商条約がワシントンで調印された際、その使節団の副使を日本船で派遣し、あわせて乗員の太平洋横断訓練をおこなった。


日本で初めて、太平洋を横断し、米国に行ってきた船こそ、軍艦、咸臨丸で、艦長は勝海舟であった。乗組士官の半数近くが静岡県となんらかの関係をもつ。そ多くが、韮山代官所の配下で、ジョン万次郎も、咸臨丸で渡ったその 1人であった。


● 清水港咸臨丸事件
咸臨丸のエンジンは、はじめから調子が悪く、小笠原調査後、2~ 3年でエンジンをおろし、純帆船として明治維新の戦争をむかえたのである。
 
品川沖に集結した幕府艦隊は脱走。


慶応 4年 8月 19日 ( 1868年 10月 4日 ) の深夜から翌 20日未明にかけての出来事である。


東京湾を出きらないうちに咸臨丸は岩礁にふれ、なんとか岩礁をはなれることができたが 22日、台風にあう。


船首の三角帆 2枚を破損し方向を保つことがむずかしくなり、損傷はげしい咸臨丸は脱走不可能と判断され 9月 2日、清水港へ入った。


咸臨丸は器材を陸あげして港内に停泊した。


乗員は三保の民家などに宿泊したので地元住民は大変迷惑した。


咸臨丸が清水港に逃げこんで来たのは徳川本家の存続が府中藩として公表されてから 4ヵ月、藩主が駿府に到着してから 17日目。


藩の命令を無視して品川を脱走した者達がやって来たのである。


府中藩の迷惑も想像できる。勝海舟の投降も説得も聞き入れられず、新政府への工作も失敗。


9月 14日討伐隊は品川を進発した。富士山・飛竜丸・武蔵丸の 3隻の討伐隊は 9月 18日の昼まえ、清水港に入港。無益な殺傷事件が起ったのである。


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/120.html
117 山岡鉄舟墓(台東区谷中・全生庵)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/434.html

424 咸臨丸図面発見の地碑(神奈川県藤沢市江の島1-4-3・児玉神社)


https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/7788.html

6779 清水次郎長墓(静岡市清水区南岡町3-8・梅蔭禅寺)


https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/7804.html
6800 咸臨丸乗組員殉難碑(清水区興津清見寺町418-1・清見寺)


⇧⇩ 山岡鉄舟の筆になる石塔。


 山本長五郎 ( 次郎長 ) 建立。