酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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6463 瀧川政次郎墓(世田谷区若林4-35-1・松陰神社)

瀧川 政次郎(たきかわ まさじろう、1897年5月26日 - 1992年1月29日)は、日本の法学者。専門は法制史。大阪府大阪市西区出身。法律学の立場から法制史の体系化に尽力する。学位は法学博士。國學院大學名誉教授。


人物
大阪市西区に米穀商を営む瀧川与之吉・シナの二男として生れる。母方の祖父が有職故実の研究家だった影響で制度史・法制史に関心を持つ。


地元の大阪市立東江尋常小学校附属幼稚園、同小学校を卒業後、いったん奉公に出て、夜は私立関西商工学校の夜学に通った。しかし向学の念が強く、桃山中学(現・桃山学院高等学校)に編入、1914年に卒業した。神戸高等商業学校進学を希望していたが、実業家芝川栄助の勧めで第一高等学校への進学を決意する。1919年第一高等学校丙類(独法)卒、1922年に東京帝国大学法学部(独法)卒業。


大学卒業後、南満州鉄道に4ヶ月勤務の後、希望する調査部に配属されない不満から退社、中央大学・法政大学・日本大学で講師として法制史を講義。1925年九州帝国大学法文学部助教授(美濃部達吉の推薦によるという。実際には2年間、内地留学で東京在住)、2年後には教授となるが、1927年、九大事件で休職となり、1929年免官。


だが、法制史に関する社会的関心が高まる中で慶應義塾大学・東京商科大学などからの招聘が相次ぎ法制史講座設置に尽力、また社会経済史学会の設立にも関わった。1930年には中央大学法学部教授となり、1934年には「律令の研究」により東京帝国大学より法学博士の学位を授与されるが、この年に発表した大化の改新を巡る論文(「大化改新管見」)で軍部や右翼の攻撃を受けて再び大学を追われる。日本国内で教壇に立てなくなった瀧川は、1934年より3年間満州国司法部法学校において司法官の養成に従事し、次いで北京にて新民学院の設立に関わり、同学院教授となって2年間中華民国臨時政府の幹部職員養成に尽力、さらに1940年からは建国大学教授に就任し、そこで日本の律令法に深く関わりのある中国法制史にも関心を広げた。


新京で終戦を迎え、ソ連軍の捕虜となる。戦後、日本に帰国した。かつて軍部の弾圧を受けて大学を追われた経緯があったにも関わらず、極東国際軍事裁判の弁護人(嶋田繁太郎担当)となって裁判の問題点を追及した。


弁護士生活(加藤隆久と共同開業)の後、1947年に鵜沢総明の依頼で大東文化学院の大学昇格に尽力したことが縁で明治大学講師となり、その明治大学で野間繁に要請され1949年より國學院大學政経学部(のち法学部)教授に就任、1968年の定年まで務める(1968年客員教授、1972年名誉教授)。1952年7月、瀧川の結婚にあたり、それまで関係を続けてきた一未亡人が「女心を踏みにじられた」と自殺未遂の末、慰謝料請求調停を求める。瀧川は「独身の私が月5000円で契約した"通勤の娼婦"と手を切ったまで」と反論した[1]。


1953年からは近畿大学兼任教授。教壇生活の一方で、地方史研究所を設立して国家や学会主流の史観に捉われない地方史の必要性を訴えた。また、後南朝や遊女の歴史など、戦前であればタブーであった研究にも積極的に取り組んだ。その研究意欲は晩年まで衰えず90歳を過ぎても論文を発表し続けた。しかし、基本的な知識(五家荘を人吉市にあると記述しさらに地元でもあまり知られていない工芸品を名産品と紹介するなど)が歴史家と比べて欠如してるのでは?と批判された事もあった[要出典]。川西政明によれば高橋和巳の長編小説『悲の器』の主人公・正木典膳のモデルとされる[2]。


94歳で死去、墓は東京の松陰神社内にある。長男は東京高裁統括部判事の滝川叡一(1923-2009年10月27日)。


著書
・『法制史上より観たる日本農民の生活. 律令時代』(同人社書店、1926-1927年)(のち『律令時代の農民生活』と改題・再刊 名著普及会、1988年)
・『日本法制史』(有斐閣、1928年 講談社学術文庫上下、1985年)
・『日本社会史』(刀江書院、1929年)
・『日本奴隷経済史』(刀江書院、1930年のち名著普及会、1985年)
・『律令の研究』(刀江書院、1931年のち名著普及会、1988年)
・『歴史と社会組織』(共立社、1931年)
・『法律史話』(巌松堂、1932年)
・『法史瑣談』(時潮社、1934年)
・『日本社会経済史論考』(日光書院、1939年)
・『満支史説史話』(日光書院、1939年)
・『支那法制史研究』(有斐閣、1940年)(のち『中国法制史研究』と改題・再刊)
・『法律から見た支那国民性』(大同書院、1941年)
・『日本法制史研究』(有斐閣、1941年)
・『法史零篇』(五星書林、1943年)
・『遼律之研究』島田正郎と共著(大阪屋号書店、1944年)
・『法曹話の泉』(穂高書房、1947年)
・『日本法制史の特色』(野村書店、1948年)
・『売笑制度の研究』(穂高書房、1948年)
・『中古の政治と法制』(研進社、1949年)
・『日本歴史解禁』(創元社、1950年)
・『法史閑話』(創元社、1951年)
・『裁判史話』(乾元社、1951年のち燃焼社、1997年)
・『東京裁判を裁く』(東和社、1952-1953年のち創拓社,1978年 慧文社,2006年)
・『人物新日本史 〔第1〕上代編』(明治書院、1953年)
・『日本人の歴史』(新潮社、1955年 のち『東洋史上より見た日本人の歴史』赤坂書院、1983年)
・『別嬪と美人』(住吉書店、1956年)
・『池塘春草』(青蛙房、1958年)
・『日本行刑史』(青蛙房、1961年)
・『倩笑至味』(青蛙房、1963年)
・『非理法権天--法諺の研究』(青蛙選書 青蛙房、1964年)
・『遊女の歴史』(日本歴史新書 至文堂、1965年、1978年)
・『遊行女婦・遊女・傀儡女』のち『江口・神崎の遊里』(日本歴史新書 至文堂、1965年)
・『法制史論叢』全4冊(角川書店、1967年 のち名著普及会、1986年) (1)律令格式の研究
(2)京制並に都城制の研究
(3)律令賤民制の研究
(4)律令制及び令外の官の研究


・『吉原の四季』(青蛙選書,青蛙房、1971年)
・『万葉律令考』(東京堂出版、1974年)
・『元号考証』(永田書房、1974年、1988年)
・『長谷川平蔵』(朝日新聞社、1975年 のち中公文庫、1994年)
・『公事師・公事宿の研究』(赤坂書院、1984年)
・『日本法律史話』 (講談社学術文庫、1986年) 
・『律令と大嘗祭』(国書刊行会、1988年)


記念論集
・『滝川博士還暦記念論文集』 滝川博士還暦記念論文集刊行委員会(中沢印刷、1957年)
・『律令制の諸問題』 滝川博士米寿記念会(汲古書院、1984年)
・『神道史論叢』 滝川政次郎先生米寿記念論文集刊行会(国書刊行会、1984年)


脚注
1. 『三木鶏郎回想録2 冗談音楽スケルツォ』p.416
2. 『評伝高橋和巳』


関連項目
・稲八金天神社
(wikiより)


 瀧川政次郎