酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6443 松下村塾(世田谷区若林4-35-1・松陰神社)

松陰先生の教育道場であった松下村塾 ( しょうかそんじゅく ) は、伯父の玉木文之進が短報 13年 ( 1842 ) 寺子屋を開いて、松下村塾の看板をかけたのが村塾 ( そんじゅく ) の名の起こりです。


塾長は玉木氏が公務多忙の間、久保五郎左衛門が安政 4年 ( 1857 ) まで引き継ぎました。


その後、松陰先生が再び投獄されるまで引き継ぎ、さらに玉木氏、兄の杉梅太郎らによって明治 25年頃まで続きました。


松陰先生は嘉永 5年 ( 1852 ) 23歳の時は半年ほど、安政 2年 ( 1855 ) 26歳の冬 出獄 ( 米艦に乗船を企てて投獄されていた ) してから安政 4年 ( 1857 ) 11月迄、杉家 ( 松陰の実家 ) で子弟を教育していました。


この月の 5日にはじめて八畳一間の塾舎が完成することとなり、松陰先生はこの時から熟に起居し塾生に対し子弟同行の実際教育を指導しました。


塾生が増加して手狭になったので安政 5年 ( 1858 ) 3月、十畳半の増築がおこなわれました。


松陰先生が名実共に公に認められたのは、安政 5年 7月 20日、先生 29歳の時、藩主より家学 ( 山鹿流兵学 ) 教授を許可され、これから同年 12月安政の大獄に連座し投獄されるまでの 5ヶ月の間のことで有りました。


実際に先生が塾生に教育を施した年月は安政 3年 8月の頃より安政 5年末に投獄されるまでの通算 2年程であったようです。


松下村塾で薫陶をうけた塾生はおよそ 90名前後といわれており、久坂玄瑞、高杉晋作、木戸孝允、山形有朋、品川弥二郎、伊藤博文など明治維新を通し近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出させたことは特に有名です。


本神社にある松下村塾は山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模したものです。
(案内板より)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/121.html
118 吉田松蔭の陰墓(南千住・小塚原回向院)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4821.html
4384 松下村塾(山口県萩市椿東1537)

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/5028.html
4562 松下村塾発祥之地(萩市椿東1584-1)