酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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6432 足利家時 他一族墓(神奈川県鎌倉市浄明寺2丁目7−4・報国寺)

報国寺の竹林奥に、足利家時他一族の墓 ( やぐら ) があります。


● やぐら
やぐらは鎌倉の周辺にある鎌倉時代中期以降から室町時代前半にかけて作られ、または使用された横穴式の納骨窟または供養堂である。 現在では風化で苔むした洞穴にしか見えないが、建立当時の内装は豪華である。


概要
「やぐら」とは横穴を掘りやすい鎌倉石という砂岩の自然条件の中で、鎌倉時代の中期頃から室町時代の中頃にかけて、巌堂、岩殿寺のような岩窟寺院をヒントに作られた中世の横穴式墳墓である。 平地の少ない鎌倉が人口数万から十万人とも推定されるほどに都市が膨れあがったことや、墓所への思い入れの変化、奈良・京都の石工を含む職能集団の進出を背景に山頂や斜面に作られた納骨を兼ねた供養堂である。 従って鎌倉周辺にしかなく、また鎌倉周辺であっても人口が密集した鎌倉の外にでると急激にその数を減らす。 そして鎌倉が都市でなくなるとともに作られなくなり、その役割は人の記憶から消えていった[2]。


「やぐら」の名称
文献上「やぐら」という語が出てくるのは『新編鎌倉志』の十二所ごぼう谷の項に「寺の南西に山あり、切り抜きの洞二十余りありて・・・俗にくらがりやぐらと云ふ。総じて鎌倉の俚語(俗語、方言)に巌窟をやぐらというなり」とあるのが最も古い[3][4]。 『鎌倉攬勝考』はわめき十王窟、梵字窟、五輪窟(画像10)、団子窟(画像11)、法王窟(画像27)などの名をあげて「山上、または山腹等にあり。思うに皆古の塋域 にして[注 1]、 鶴が岡大別当等の墳なるべし」と記し、墳墓とみなしている。 鎌倉時代には岩穴を「巌(いわや)」と呼んだことが『吾妻鏡』に出てくる[5][6]。 これは現在も残る巌堂であり、逗子の岩殿寺と同様の宗教施設、岩窟の仏殿、観音堂である。 室町時代の古文書には「石蔵」とか[7]、 「岩蔵」という言葉もでてくるが[8]、 墳墓としての岩窟の当時の呼び名は不明である。 漢字で「矢倉」と表記されることもあるが音からの当て字であり、ひらがなで「やぐら」と表記するのが通例である[9][10]。 作られる場所は『鎌倉攬勝考』にあるように山上または山腹、寺院の奥、最上流の武家屋敷の奥などにある[注 2]。


構造と内部
構造と内装
だいたいはひとつのやぐらを中心にした3~6窟の小やぐら群であり、場所によってはその小やぐら群が集まった大やぐら群を構成する。 一般的形態は矩形平面をもつ平天井のもので、玄室前面に出入口としての短い羨道をもつ(画像6)。 羨道とは云うが、やぐらでは羨門ぐらいの短いもので、道というより奥行数十cmから1mぐらいの入口の壁のようなものが多い。 中には前室をもつものもある。 広いものでは8m平方のものもあるが通常は2m平方かそれより若干大きいぐらいのものが多い。


羡道がついている鎌倉時代のものには玄室の入口脇天井に横木のほぞ穴(画像8)や縦柱の穴があり、入口を扉で塞いでいたと思われる。 室町時代になると羡道がなくなり、玄室がそのまま前方の開けた形に、つまり四角い横穴となる。 明月院のように崖崩れで発見される場合や、土木工事で発見される場合もあるが、そのようなときには入口に石を積んで覆っていた痕跡が見つかることがあり、通常は開口せずに閉じていたとも思われている[11]。


現在はただの岩穴にしか見えないものがほとんどだが、内部は削りっぱなしではなく、今も白い漆喰が残るものもが多数あり(画像7)、平らに白塗りされている[12]。 さらにその上に漆で唐草などの絵が描かれているものもある。 実朝の墓との伝承のある寿福寺の唐草やぐらはその漆の部分だけが風化せずに浮彫のようになって残っている[13]。 西御門谷奥の「朱垂木やぐら」には、羨道部分の天井に漆喰の上にベンガラを用いた朱色で50本の屋根の垂木を模したものが描かれており、かつそれは庇のように傾斜している(画像8)[14]。


内部の納骨
納骨用の造作としては、玄室中央に大きな穴を掘り(画像11)、そこに火葬した骨を次々に入れる場合。 火葬せずに遺体を納める場合[15][注 3]。 床面に小さな穴を次々に掘り、そこに火葬した骨を納める場合(画像23)。 また壁に四角や丸い穴(龕)を開けてそこに火葬した骨を納める場合や[注 4]、 三面壁の天井下に長押(なげし)状の納骨用彫り込みをもつやぐらなどがある(画像13)。 ほとんどは火葬した骨である[16]。


それらの穴(龕)には蓋をされていた形跡が残るものもある[17]。 長押(なげし)は柱同士の上部などを水平方向につなぎ、柱の外側から打ち付けられるもので、現在の住宅にもあるが、古代中世の寺院建築においては構造的な意味合いが強く、部材も厚かった。 古代・中世の古建築の解体修理などをすると、この長押上に納骨されているのが見つかることがある[18][19][注 5]。


ただし納骨用の造作をもたず、仏華瓶や香炉などに遺骨を納めて石塔の脇におく例や、五輪塔や宝篋印塔の中に納骨されている場合もある。 つまり人一人分の骨としてはえらく少ない。 ほぼ分骨ぐらいの量である[20]。 後世にそれが持ち去られてしまえば納骨の痕跡はそこに残らない。


当時の火葬では遺骨は炭や灰に混じり全てが回収できるわけではない。 火葬場の発掘では焼土や炭に混じって骨の破片がある。 中にはかなりの部分を残していたり、稀には焼いたままその場で焼き穴を埋めてしまったものも見つかっている[21]。 つまり全ての骨の回収はそもそも無理なので、拾えるだけの骨を拾い、布などに包んでやぐら中央の大きな穴に納めるということもあれば、供養のためのお骨だけを拾い、香炉などに入れてやぐらに納め、そこで十王信仰や十三仏信仰に基づく追善供養を営むというようなことが考えられる。 つまりやぐらは現在の墓の感覚、納骨場所とは異なり、供養(法事)をする場所、供養する対象として納骨する場所という性格が強いということになる[22]。


供養のためのもの
多くの場合五輪塔が置かれる。 五輪塔には墓塔としてのものもあるが、多くは追善供養のために法事のたびに追加されたものと思われている。 あるやぐらでは多数置かれた五輪塔が銘を見るとみな同じ人を供養するためのものであったりする[23]。 つまり法事のたびに置かれる五輪塔でやぐらが埋まることがある(画像17)。 宝篋印塔や板碑が置かれる場合もある。


大型のやぐらには壁面に仏像(画像21)、五輪塔(画像7、画像10)、板碑(画像4)、位牌(画像8)、の彫刻を施したものもあり、月輪[注 6] の中に仏や菩薩をあらわす一文字の梵字(種子:しゅじ)が彫られていたりする。 または仏像がやぐらの本尊として置かれているものもある。 それらはその場で彫られたものもあれば(画像5、画像21)、他で作られて置かれたものもある(画像24)。 また置かれた五輪塔や宝篋印塔の下に穴があり、納骨用の大甕が埋めてある例がある[24]。 朱垂木やぐらでは立像の仏像が置かれていたのか本尊の背後を舟形光背が彫刻してある[25]。 この舟形光背には白い漆喰の上に日月と雲が描かれていたらしく、漆が黒い線となって残っている。 元はこの漆の線の上に金箔の截金(さいきん:切金とも)が施され、金色に輝いていたものと思われている[26]。


なお五輪塔も現在目にするものは鎌倉石のものは風化が激しく、安山岩のものでも地が剥きだしになり稀に梵字が刻まれている程度で多くは無地である。 しかし埋蔵されたまま発見されたやぐらでは五輪塔に年紀と法名が墨書されていたり、漆喰の上から浅く彫って金を入れたものもあり、金が剥がれ落ちれば文字が読めなくなってしまうものも発見されている。 それらのことから元の姿の多くは漆喰で白塗りされ年紀と法名が記されていたであろうと思われている。 実際、多宝寺跡やぐら群では鎌倉石(凝灰質砂岩)の五輪塔の火輪に厚さ1mmにもおよぶ漆喰が残っていたし、極楽寺わき出土のものには梵字が墨書されていたものもある[27][28][29]。 急傾斜地崩壊対策工事で見つかった「松葉ヶ谷奥やぐら群」は鎌倉時代末から南北朝時代と推定されるが、2号やぐらでは五輪塔に金泥による梵字が確認され、またその地輪内部に火葬骨が納骨されていた。 3号やぐらも五輪塔には金泥で文字を装飾したものが多かった。


分布
鎌倉が中心であり、山を越えた北鎌倉、六浦(横浜市金沢区)、藤沢(村岡地区)、三浦半島や東京湾をはさんだ安房国にもあるが数は少なく、圧倒的に鎌倉が多い。 鎌倉の鶴岡八幡宮を中心とした山に囲まれた範囲では中心線より東側に多い。 その多くは南向きの斜面に作られ、次ぎに東向きが多い。 西向きはそれより少なく、北向きはあるにはあるが極めて稀である[30][31][32]。


また1977年時点で知られるやぐらを所在地別に分類すると以下のようになり、寺院に伴うものが圧倒的に多い[33][注 7]。 その寺院を宗派別に分類すると律宗系が650窟で71%を占める[34][注 8]。

寺院、または寺院跡に伴うもの 920窟(77%)
武家居館跡に伴うもの 110窟(10%)
切通し周辺にあるもの 161窟(13%)


古代横穴納骨窟とやぐら
古代納骨窟
横穴式の納骨窟は奈良時代の鎌倉にも存在した。 鎌倉だけでなく、駿河国、伊豆国、相模国、武蔵国、安房国、上総国、下総国と広範囲にみられる。 ただしそれは奈良時代に終わっており、鎌倉時代のやぐらの習俗との繋がりはない[35]。 ただし奈良時代の横穴式の納骨窟に納骨穴を掘り、火葬骨を納めて五輪塔で供養している例が見つかっており、鎌倉時代初期には奈良時代の横穴式の納骨窟を利用したやぐらはあったと思われている[36][37][注 9]。 なお、巌窟の宗教施設なら全国にみられる。 鎌倉・逗子においては巌堂や岩殿寺などがそれにあたり、ふたつとも平安時代からのものである。


やぐらの年代
鎌倉石は砂岩であるので脆く風化しやすい。内部の五輪塔などには当初は紀年銘があったであろうが、ほとんどは風化して判らなくなっている。 鎌倉のヤグラから出土したという宝治二年(1248年)銘の籾塔形式宝篋印塔(個人蔵)もあるが購入時にそう聞いたという範囲の話で検証できるものではない[38][39][注 10]。 実際にやぐらで確認された紀年銘の最も古いものは朝比奈峠下やぐら内の板碑にあった文永年間つまり1270年前後のものである[注 11]。


年代を示すもので多いのは鎌倉時代後期、1300年代に入ってのものである。 浄光明寺のやぐらにある石造地蔵菩薩坐像(通称網引地蔵)には正和2年(1313年)の銘があり、多宝寺のやぐらにも嘉暦2年(1327年)の年号と僧名が残る[40]。 これらは鎌倉の人口が最大となった時期にも該当するが、もうひとつの理由は職人層を実質支配していた忍性ら律宗教団が奈良京都から石工を連れてきて、伊豆から運んだ安山岩などの堅い石で石仏や五輪塔などを作り始めたことにもよる[41][注 12]。 また、納められている五輪塔などの様式からほとんどは鎌倉時代、一部は室町時代と判明する。


やぐらの埋葬者
判明している埋葬者
先に述べたようにやぐらの中には雲形位牌が浮彫にされているものもあり、当初は上を覆う漆喰の上に、墨か、あるいは漆を塗ってその上に金泥かで戒名が書かれていたと思われる。しかし数百年の間の風化ではげ落ち、読めるものはほとんどない。 五輪塔も初期には鎌倉石であるために風化が激しい。 そうした中で、鎌倉時代後期から鎌倉でも見られるようになった安山岩製の仏像、五輪塔などに僅かに名前の知れたものがある。
神武寺の弥勒やぐらに安山岩製の弥勒菩薩座像があるが、その背面に「大唐高麗舞師 本朝神楽博士 従五位上行 左近将監 中原朝臣光氏(行年七十三)」とある。この中原光氏は『吾妻鏡』などにも登場する楽人で、鶴岡八幡宮の木造弁才天坐像(裸形着装像、重要文化財)の寄進者である[42]。

覚園寺の裏山にあたる百八やぐらに「掘出地蔵やぐら」とよばれるものがあるが、その中の二基の五輪塔の地輪に「正祐□□」と読めるものと「祐阿弥陀仏(梵字)逆修四十九 応永三十三年(1426年)八月十五日」とあるものが残っている。「祐阿弥陀仏」は室町時代の初期、応永年間(1394-1427年)の覚園寺大修造に際して、日光・月光菩薩像(本尊薬師如来の両脇侍)、十二神将像などの造仏を行った仏師・朝祐である。もうひとつの「正祐」はその父親で、足利尊氏が行った文和年間(1352-1356年)の修造のときの仏師と推定される[43]。このことからも、ひとつのやぐらはその家、その一族の墓として用いられたと考えられる[44][注 13]。

理知光寺の護良親王首塚の下のやぐらに常滑の大甕が出土し、中には屈葬で入定している火葬していない遺体があった。その大甕の桃型の黒漆の入れ物があり、その中から水晶の丸玉の中をくり抜いて舎利を入れたもの(能作性の舎利)が発見された[45]。そのことからその遺体は1327年4月17日に理知光寺で亡くなった伊豆の妙浄上人宥祥と推定されている[46][47]。


やぐらは「鎌倉武士の墓」と云われるが、上記のように決して武士だけの墓ではなく、芸能人、芸術家、僧なども含めた上流階級の墓とされる[48][49]。


武士を埋葬と思われるもの
なお、武士のやぐらの墓は報国寺のやぐら に足利家時と、ここで自刃した足利義久の墓がある(画像27)。 ただしそのために掘られたものかどうかは判らない。 釈迦堂奥やぐら群には宝戒寺普川国師入定窟と伝えるやぐらがあった。 井戸のように深く掘られたところに火葬しない多数の人骨があって、中には刀傷のある頭蓋などがあった。 そのことから鎌倉幕府滅亡時に東勝寺で討ち死、または自害した者を埋葬したのではないかとも噂されていた。 後年、そのやぐら近辺が宅地造成で切り崩されるとき、五輪塔の地輪に種子と共に「元弘三年日五月二十八日」の日付を刻むもつが見つかる。 この日は北条氏滅亡の初七日にあたる[50]。 そのことから、おそらくは東勝寺で自害した北条一門を供養したものだろうとされる[51][52]。 北条政村の常磐亭跡などの奥にもやぐらがあることや、明月院のやぐらのように上杉憲方の墓と思われるものもあり(画像21)、 武士がやぐらに葬られたことは間違いないと思われている。


武士は晩年、ないしは死の直前に出家するケースがほとんどで、「○○入道」などと彫られたものは見つかっている。 例えば1935年(昭和10年)に二階堂の亀ヶ淵のやぐらに大甕が埋められているのが発見され、中に一体の骨が納めてあった。 そしてその上は大きな切石で蓋をしてあり、その上に宝篋印塔1基と五輪塔が乗っていたが、その宝篋印塔や五輪塔には「清義禅定門」の供養碑であることが記され、五輪塔のひとつには「奉五輪妙相一基 永享五年八月二十日」とあった。 永享5年(1433年)は室町時代中期である。 「禅定門」は居士に似た戒名の位であり、武士であろうとは推測されるが、ただしそれらが誰だかは判らない[注 14]。 調査の結果彫られた銘文から身分や素性が判明したというものはない。


後世の伝承にすぎないもの
寿福寺のやぐら群や頼朝の墓の東隣の谷にある北条政子の墓(後述)、源実朝の墓(後述)、大江広元の墓、島津忠久の墓、などとされるものはみな江戸時代に作られた伝承である。 島津忠久の墓とするものは安永8年(1779年)に薩摩藩がそう称してやぐら前面の造作を作ったもので、それ以前の『新編鎌倉志』に記載はなく、後の『新編相模風土記稿』では「案ずるに忠久の墓、此の地に在るること疑ふべし。・・・個々に頼朝の墳墓あるにより新たに遠祖の碑を造立せしものと覚ゆ」と書く。 隣の大江広元の墓というのは、子孫である長州藩が薩摩藩の島津氏に対抗して江戸時代の文政6年(1823年)にこれを大江広元の墓としたもので[53][注 15]、 その6年後の『鎌倉攬勝考』は「土人等大江広元の墓なりというは訝(いぶか)しき説なり」と否定している[54]。 「唐糸やぐら」の唐糸伝説や、護良親王の土牢(現鎌倉宮)の伝承は江戸時代より前に成立はしているが、室町時代にはやぐら本来の意味は忘れ去られて「牢」だと思われていたことをしるすに過ぎない。 扇ヶ谷浄光明寺西方山裾に相馬師常墓と伝えるやぐらなど13穴のやぐら群があるが、相馬師常の没年は1205年(元久2年)であり年代的にも合わない。


「庶民の埋葬」、「鎌倉時代の最上流の埋葬」、「上流階級の埋葬」、「泰時以降の鎌倉」、「納骨信仰と葬送実務」、「やぐらの時代」、「代表的なもの」、「脚注」、「参考文献」については、『やぐらウィキペディア』を御覧下さいませ。 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%84%E3%81%90%E3%82%89
(wikiより)


⇧⇩ やぐらと言われる墓地です 落石の危険がある為、近くに行けません。


⇧⇩ 櫓の中に宝篋印塔が見えます。