酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

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6401 金子孫二郎墓(荒川区南千住5・回向院)

金子 孫二郎(かねこ まごじろう、文化元年(1804年) - 文久元年7月26日(1861年8月31日))は、幕末の水戸藩の郡奉行である。尊王攘夷派志士。幼名は子之次郎。仮名は孫二郎、孫三郎。諱は教孝、号を錦村といった。位階は贈正四位。靖国神社合祀[1]。


生涯
水戸藩士・川瀬教徳の第2子として生まれ、水戸藩士・金子孫三郎能久の養子となった。
はじめ小普請組となる。文政12年(1829年)、水戸藩主継嗣問題が起こると、父・教徳らとともに徳川斉昭を擁立した。斉昭が藩主になると、その下で歩行目付、吟味役、奥右筆を経て郡奉行となった。弘化元年(1844年)、天保の改革推進中の斉昭が隠居謹慎の幕命を受けると、雪冤運動に奔走して禁固刑に処せられた。斉昭が政界復帰を果たすと、それとともに孫二郎も復帰し、再び郡奉行となって安政の改革を進めた。民政に手腕を発揮し、郡奉行・吉成信貞らとともに徳川斉昭を助けた。


安政5年(1858年)に勅書問題が起こると、勅書返納に反対して奔走したが失敗に終わった。翌6年(1859年)に安政の大獄が起こると、かねてから計画していた大老・井伊直弼要撃を企て、高橋多一郎・関鉄之介らとともに脱藩して江戸や京都に潜伏し、安政7年3月3日(1860年3月24日)、桜田門外の変を起こすに至った。孫二郎自身は、直接参加しなかったが、成功の知らせを受けて薩摩藩士・有村雄助とともに大坂で後挙を謀ろうとしたが、伏見で捕らえられ、江戸に送られて斬罪に処せられた。明治維新後、正四位を贈位される[2]。


年譜
・1804年 水戸藩士・川瀬教徳の第2子として生まれる。


・1829年 藩主継嗣問題で徳川斉昭を擁立。


・1830年 - 1844年 郡奉行。


・1844年 禁固刑に処せられる。


・1853年 復帰して郡奉行再勤。


・1858年 勅書問題で奔走。


・1860年 桜田門外の変に加わる。


・1861年 斬罪に処せられる。享年58。


参考文献
・明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年) ISBN 4404013353
・茨城新聞社編『茨城県大百科事典』 茨城新聞社、1981年、262頁。
・家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典(2)』(新人物往来社、1988年) ISBN 4404014902


脚注
1. 明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年)ISBN 40頁参照。
2. 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典(2)』(新人物往来社、1988年) 399頁参照。


関連項目
・幕末の人物一覧
・常磐共有墓地
・金子勇二郎
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2184.html
1995 金子孫二郎墓(茨城県水戸市松本町13-34・常磐共有墓地)