酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6270 市来四郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

市来 四郎 ( いちき - しろう、文政 11年 12月 24日 ( 1829年 1月 29日 ) - 明治 36年 ( 1903年 ) 2月 12日 ) は薩摩藩士。


明治以後は島津久光の側近となる。


通称は「正右衛門」、「四郎」。諱は「広貫」。


1857年に「日本人が最初に撮った写真」と言われる島津斉彬のダゲレオタイプ ( 銀板 ) 写真を撮った人物として著名である。


略歴
寺師正容の次男として生まれるが、市来政直の養子となる。


青年時には高島流砲術など火薬に関する勉学を修めたところを島津斉彬に認められ、側近となる。


製薬掛、後に砲術方掛となり、集成館事業に携わるなどの要職を務める。


安政 4年 ( 1857年 ) に斉彬の密命により琉球に渡りフランスとの交渉に当たる。


目的はフランスから戦艦を購入することであったとされるが、斉彬の急死により頓挫した。


斉彬の死後は弟の久光の側近となり、引き続き集成館事業に携わり、大砲・火薬製造を担当。


文久 2年 ( 1862年 ) 以降は琉球通宝、天保通宝の鋳造にも関わった。


維新後は、主に久光の元で島津家に関わる史料の収集に携わった。


著書
・「市来四郎日記」(旧大久保利謙蔵書、現鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵)
・「忠義公史料」(※編者。『鹿児島県史料』所収。)
・「順聖公御言行録」(現在岩波書店より『島津斉彬言行録』と改題の上販売)
・「島津家国事鞅掌録」


外部リンク
国立国会図書館 憲政資料室 石室秘稿 - 市来四郎の収集資料
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/500.html
486 高島秋帆墓(文京区向丘1・大円寺)


 市来四郎


 市来四郎が撮影した島津斉彬の写真 1857年撮影