酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6221 秋元志朝墓(台東区谷中・谷中霊園)

秋元 志朝(あきもと ゆきとも)は、出羽山形藩の第4代藩主、後に上野館林藩の初代藩主。館林藩秋元家10代。


生涯
文政3年(1820年)3月8日、周防徳山藩の第8代藩主毛利広鎮の八男として生まれる。母が出羽山形藩の先々代藩主秋元永朝の娘で、秋元氏と縁戚関係にあったことから、天保2年(1831年)に叔父にあたる第3代藩主秋元久朝の養子となる。天保10年(1839年)4月13日、久朝の隠居により家督を継ぐ。


弘化2年(1845年)11月30日、上野館林藩に移封される。安政2年(1855年)の安政の大地震を契機にして岡谷瑳磨介を登用して藩政改革を断行し、江戸詰の家臣の屋敷を館林に移して藩主権力の強化を図り、学問所である造士書院(求道院)を創設した。元治元年(1864年)7月、禁門の変が起こると、毛利家の出身だったため幕府から内通の嫌疑を受け、10月27日に養子の礼朝に家督を譲って強制的に隠居させられることとなった。


しかしその後も藩政の実権を握り、長州征伐では幕府・朝廷・毛利家の仲介役を務めている。明治9年(1876年)7月26日に死去した。享年57。


明治29年(1896年)5月20日に従三位を追贈された。


経歴
・1836年(天保7年)11月16日、従五位下左衛門佐に叙任。
・1839年(天保10年)4月13日、家督相続。藩主となる。同月14日、但馬守に遷任。
・1845年(弘化2年)11月晦日、上野国館林に移封。
・1864年(元治元年)5月、従四位下に昇叙。但馬守如元。12月27日、隠居し、刑部大輔に転任。


子女
・女 天保13年(1842年)6月11日没
・釻次郎 弘化元年(1844年)11月12日没
・勘九郎 弘化3年(1846年)11月12日没
・孫三郎 嘉永元年(1848年)6月27日没


関連項目
・三方領知替え
(wikiより)


 秋元志朝