酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6184 久貝正典墓(豊島区巣鴨5-32-5・白泉寺)

此方の御寺では、幾らかの喜捨をされてから ( 御線香、しきび ( シキミ ) セットで、500円と言われます。 )、お参りしたい旨を伝えて墓地に入った方が良いと思います。


『久貝正典の墓』に行くには、『総禅寺の墓域』を通過してから『白泉寺の墓域』になるようです。( 奥の柵を越えた場所の右側方向に、久貝正典墓 ( 供養塔の場合も有り ) が有ります。)


帰りに気付いたのですが、総禅寺の墓域に「手塚良仙、手塚治虫」のお墓が有りますが『撮影不可』なので撮影されないようにして下さい。


また手塚さんの墓所の前は『角海老、三浦屋』の石灯籠が建っている墓所が有りました。


二基目の宝篋印塔には「祖関院殿不用道無大居士」の刻がしてありますが、久貝因幡守正俊 ( 慶安元年歿 ) の墓か供養塔かもしれません。


「 瑞光院殿麒山道麟大居士 」は、久貝正甫の墓か供養塔のようです。


● 久貝正典
久貝 正典(くがい まさのり、文化3年(1806年) - 慶応元年6月14日(1865年7月15日))は、幕末の江戸幕府旗本。旗本久貝正満の子。通称・甚三郎、官位は因幡守、河内守、遠江守。養翠と号した。正室、継室とも有馬誉純の娘。子に久貝正章、林忠交正室。弟に安政の大獄の時京都町奉行だった小笠原長常がいる。


経歴
石高は5500石。文政10年(1827年)寄合火事場見廻、文政13年(1830年)火消役、天保6年(1835年)小普請組支配、天保7年(1836年)小姓組番頭、天保9年(1838年)書院番頭、天保12年(1841年)大番頭を歴任。安政2年(1855年)講武所総裁を兼ね(同役に池田長顕)、安政3年(1856年)留守居。安政5年(1858年)大目付となる。


安政の大獄では五手掛(他に北町奉行石谷穆清、寺社奉行松平宗秀(本庄宗秀)、勘定奉行池田頼方、目付神保長興)として処断に関与。安政7年(1860年)御側御用取次に転じ、同年起こった桜田門外の変では吟味役を務めた。しかし吟味に不手際があったとされ、文久2年(1862年)2000石減封の上、免職隠居となった。


元治元年(1864年)講武所奉行に復職し、翌慶応元年(1865年)没収所領のうち1000石を回復するも、同年没した。遺領は正章が継いだ。


木村芥舟は正典を「その身軀偉大にして、才職衆に過絶す」と評している。墓所は東京都豊島区の白泉寺。


小林歌城に師事し和歌を学ぶ。


・「あめつちとともにうこかぬ岩かねに万代かかれ滝のしら糸」(天保15年(1844年)領地にある源氏滝にて)


菊池容斎とも交流があり、窮乏していた容斎に其の絵の才能を見込んで資金援助したと言われる。現在静嘉堂文庫にある「阿房宮図」など3点は正典の依頼で描かれた。


登場作品
テレビドラマ
・『篤姫』(2008年、NHK大河ドラマ、演:藤木孝)
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/119.html
116 緒方洪庵墓(文京区本駒込1・高林寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/554.html
539 菊池容斎墓(台東区・谷中霊園)


⇧⇩ 久貝正甫の墓か供養塔のようです。


⇧⇩ 久貝因幡守正俊 ( 慶安元年歿 ) の墓か供養塔かもしれません。