酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6871 山口鋭之助墓(台東区谷中・谷中霊園)

山口 鋭之助(やまぐち えいのすけ、1862年3月9日(文久2年2月9日) - 1945年3月4日)は、日本の物理学者、教育者。理学博士、京都帝国大学教授、学習院院長、宮中顧問官。


経歴
出雲国(現・島根県)松江に松江藩士・山口軍兵衛礼行の三男として生まれる。1884年、東京大学理科大学物理学科を卒業。


東京大学予備門教諭、第一高等学校教授を歴任。1897年、京都帝国大学理工科大学教授に転じ、文部省から留学生としてドイツ・フランスに派遣され3年間学んだ。1901年、理学博士号を取得した。


その後、学習院に移り次長に就任。1905年、第9代院長となり翌年まで在任。さらに、宮内省に転じ、図書頭、諸陵頭を歴任し、宮中顧問官となる。


栄典
・1905年(明治38年)6月24日 - 勲四等瑞宝章[1]
・1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[2]
・1916年(大正5年)1月19日 - 勲三等旭日中綬章[3]


著書
・『普通教育物理学』大日本図書、1907年。
・藤岡勝二監修『物理学 - カーレント学生参考書 上』教文書院、1923年。
・藤岡勝二監修『化学 - カーレント学生参考書 上』教文書院、1923年。
・藤岡勝二監修『幾何 - カーレント学生参考書 上』教文書院、1923年。
・藤岡勝二監修『代数 - カーレント学生参考書 上』教文書院、1923年。
・藤岡勝二監修『日本地理 - カーレント学生参考書 上』教文書院、1923年。
・藤岡勝二監修『西洋史 - カーレント学生参考書 上』教文書院、1923年。
・『山陵の研究』明治聖徳記念学会、1923年。
・『祭政一致皇道の教学 - 近藤真琴先生の和魂漢洋才主義と教学の方針』本学会出版部、1937年。
・『世界驀進の皇道経済』本学会出版部、1938年。


監修
・愛之事業社編『明治大帝御製訓』愛之事業社、1935年。


親族
・妻 山口ソノ(数学者・藤沢利喜太郎の妹)
・二男 山口進六(陸軍技術将校)
・二男の妻 山口泰子(陸軍大将・阿部信行の二女)
・長兄 山口宗義(日本銀行理事)
・次兄 山口半六(建築家)
・甥 山口多聞(兄宗義の子息、海軍中将)


脚注
1. 『官報』第6595号「叙任及辞令」1905年6月26日。
2. 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
3. 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。


参考文献
・上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
・『昭和人名辞典』第1巻、日本図書センター、1987年(『大衆人事録』第14版「東京篇」帝国秘密探偵社、昭和17年刊の改題複製)
・『大正人名辞典』Ⅱ下巻、日本図書センター、1989年(『大衆人事録 昭和3年版』帝国秘密探偵社、昭和2年刊の改題複製)
(wikiより)


 山口鋭之助