酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


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6868 内藤耻叟墓(台東区谷中・谷中霊園)

内藤 耻叟(ないとう ちそう、文政10年9月25日(1827年11月15日) - 明治36年(1903年)6月7日)は、明治時代に活躍した歴史家。本名は正直。


文政10年(1827年)、常陸国(現茨城県)水戸南町に美濃部茂政の二男として生まれ、水戸藩士・内藤氏を継ぐ。天保12年(1841年)に藩校弘道館に入り、同校において会沢正志斎、藤田東湖らに師事。のちに幼少期の徳川慶喜の学問の相手もつとめている。安政6年(1859年)に藩内の論争に巻き込まれて謹慎の上、隠居を命ぜられる。後に天狗党鎮圧に加わった功績で慶応元年(1865年)に弘道館教授に任ぜられるが、翌年再び藩内の論争に巻き込まれて入獄、その後幕末期の混乱に乗じて水戸を脱出し、放浪生活を送る。


その後、明治3年(1870年)に山形県(府藩県三治制の県)職員となり、明治11年(1878年)に東京府に新設された小石川区の区長に就任する。


明治14年(1881年)には群馬県中学校の校長に任ぜられ再び教育に携わるようになる。


明治17年(1884年)、東京大学講師、明治19年(1886年)より帝国大学文科大学教授。


経学・日本史・支那歴史・支那哲学・漢文学・和漢古代法制などの科目を担当。明治24年(1891年)非職。この間、明治22年から24年の間には陸軍教授を兼任。明治36年(1903年)、中風のため[1]東京小石川で死去。77歳。


後期水戸学の思想と学風を堅持し、提唱し続けた。著書に『徳川十五代史』『安政紀事』など。


著書
・支那文学全書「四書講義 上巻 大学 中庸 論語」内藤耻叟講述 博文館
・支那文学全書「四書講義 下巻 孟子」内藤耻叟講述 博文館
・支那文学全書「小学 孝経 忠経 講義」 内藤耻叟講述 博文館
・支那文学全書「近思録講義」 内藤耻叟講述 博文館
・「徳川十五代史」内藤耻叟講述 博文館


脚注
1. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)20頁


関連項目
・内藤湖南
・水戸学
(wikiより)


関連情報
https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6778.html

5850 内藤 匡墓(台東区谷中・谷中霊園)