酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6580 長岡謙吉墓(港区芝公園2-3-2・安養院)

長岡 謙吉(ながおか けんきち、天保5年(1834年)- 明治5年6月11日(1872年7月16日))は、幕末期の土佐藩出身者。海援隊の隊員の一人。別名は今井純正。敦美。字は子行。号は懐山。


生涯
高知城下の浦戸町の医師・今井孝順(孝純、玄泉)の息子として生まれる。孝順は坂本龍馬の継母・伊予の縁者であった。幼少期は河田小龍の下で蘭学に励んだ。その後は江戸や大坂に遊学して、医学や文学を学んだ。安政6年(1859年)には家業の医師を継ぐため、長崎で二宮敬作に医学を学ぶ(後年、二宮の師であるシーボルトが再来日した際には英語や国際法の教えを受けた)。しかしこのときに、藩からキリスト教に傾倒したと疑われて帰国を命じられ、処罰として長岡郡鹿児村への蟄居を命じられた。


その後に罪を許されたが、やがて脱藩して長崎に赴き、坂本龍馬の下で海援隊に参加した。龍馬は長岡の才能を高く評価し、海援隊の通信文書の作成など、事務処理のほとんどを長岡に一任していたという[要出典]。慶応3年(1867年)、夕顔丸に坂本龍馬や後藤象二郎らと同船し、大政奉還後の龍馬の構想をまとめた「船中八策」を成文化したとされる。[1] また、長崎におけるキリシタン問題を論考してまとめ上げた『閑愁録』を出版している。


同年、龍馬が暗殺されると、海援隊の2代目隊長に選ばれた。戊辰戦争では、海援隊を率いて、瀬戸内海の小豆島や塩飽諸島などを占領した。明治2年(1869年)当時交友のあった水戸藩士吉成勇太郎が出版した藤田東湖「弘道館記述義」に序文を書いた。明治維新後は三河県知事、大蔵省、工部省などに勤務したが、明治5年(1872年)に東京にて若くして死去した。享年39。墓は増上寺の塔頭の一つ、安養院にある。


「船中八策」と関連する『藩論』の著者でもある[要出典]。


脚注
1. 『朝日日本歴史人物事典』http://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E8%AC%99%E5%90%89
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/347.html

334 坂本龍馬墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)


 長岡謙吉











6579 下植木赤城神社石造美術郡(伊勢崎市昭和町1645-1・赤城神社)

古碑殿内にある中央の宝塔二基と、左側の石幢 ( せきどう ) 一基が指定物件で、右側の宝塔には観応 ( かんのう ) 二年 ( 1351 )、左側の宝塔には貞治 ( じょうじ ) 五年 ( 1366 )、いちばん左側の石幢には延徳二年 ( 1490 ) のそれぞれ刻銘があり、造立 ( ぞうりゅう ) は南北朝時代から室町時代初期のものです。


形態はさまざまですが、基礎部の刻銘などにより、法華信仰 ( ほっけしんこう ) がうかがえ、北方の天増寺にある「天増寺宝塔」( 県指定重要文化財 ) とともに、当時、この地方に法華経 ( ほっけきょう ) に伴う信仰が広がっていたことがわかります。


特に、貞治の宝塔の基礎部には「泰造立殖木宮石塔事」として願文 ( がんもん ) とともに、織物と関係の深い泰姓 ( はたせい ) の四人の名を刻んでいることなどが特徴です。
(案内板より)











6578 尾崎孝子墓(鎌倉市十二所512・鎌倉霊園)

尾崎孝子 ( おざき - こうこ )
( 1897-1970 )


大正 - 昭和時代の歌人。

明治30年3月25日生まれ。


吉植庄亮(しょうりょう)に師事、「橄欖(かんらん)」同人となる。


昭和7年短歌月刊社から短歌新聞「歌壇新報」を継承、主宰。


22年新人発掘のため「新日光」を創刊した。


昭和45年4月22日死去。73歳。福島県出身。


旧姓は山口。本名はカウ。


歌集に「ねむの花」「女人秘抄」「草木と共に」など。