酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

5625 堀 直賀墓(台東区・谷中霊園)

堀 直賀(ほり なおよし、天保14年閏9月24日(1843年11月15日) - 明治36年(1903年)1月6日)は、越後村松藩の第11代藩主。直寄系支流堀家11代。第6代藩主・堀直教の長男・奥田教明の長男。子は奥田直紹(長男、旧椎谷藩主家を継ぐ、廃藩置県で奥田姓に復姓)、娘(高野金重室)。従五位下、左京亮。


万延元年(1860年)11月1日、先代藩主・直休の末期養子として家督を継ぐ。幕末期に入ると藩内に尊王論が起こり、尊王攘夷と軍制改革を主張する一派を形成した。慶応2年(1866年)には村松七士事件(尊王攘夷派7名を保守派が処刑した事件)が発生し、藩政が混乱した。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では明治新政府を支持する正義党の近藤安五郎一派と対立し、佐幕保守派の直賀は奥羽越列藩同盟に参加した。明治元年5月14日、長岡に出兵し、官軍と戦う。同年8月4日、官軍の攻撃で村松城を落とされて米沢藩に逃亡した。同年9月18日、新政府に謝罪を申し入れる。同年10月19日、新政府から謹慎を命じられる。


一方、安五郎は先代藩主・直休の弟・直弘を新藩主に擁立して新政府軍に降伏し、村松藩は所領を安堵された。明治元年(1868年)12月7日、直賀は隠居を命じられて、直弘に家督を譲った。明治10年に奥田姓に復し、明治36年(1903年)に死去した。法名は安達院殿従三位清節直賀大居士。
(wikiより)


 堀 直賀











5624 中村元起墓(台東区・谷中霊園)

中村元起 ( なかむら - げんき )
文政 3年 ~ 明治 17年 4月 30日 ( 1820 - 1884 )


高遠藩儒者。


通称、忠蔵。字、喜卿。号、黒水。


父、高遠藩士・中村元恒 ( 1778 - 1851 )( 長男 )。箕輪町大出出身。


家学を受け、のち昌平校にて大学頭・林復斎に師事。


のち林家の塾頭となる。


家督相続後、父の藩士の開墾事件で一家が黒河村に追放され、父の死後再び高遠藩に召しだされ儒学教師となる。


万延元年 ( 1860 ) に藩校「進徳館」( 高遠城内に現存 ) を創設し、儒学教師となるが、洋学の数学、化学、物理なども講義した。


廃藩後は、筑摩県に勤務し松本開智学校を創設。のち、維新後は教部省内務正院となる。


明治 8年 ( 1875 ) 田中重遠・江目長芳と修史局 3等書記、内務省に勤務。


父の志を継ぎ、郷土 ( 信濃 ) 関係の文献を収集し「蕗原拾集 ( ろげんしゅうよう )」の続編を作成した。


子に林学者の中村弥六、ひ孫に元首相・原敬の暗殺犯 中岡艮一 ( なかおか - こんいち ) がいる。門人は神尾光臣。65歳没。


大正 4年 ( 1915 ) 贈従五位。


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/171.html
167 浅田宗伯墓(台東区・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3642.html
3389 原首相遭難現場(東京駅・丸の内南口付近)











5623 藤島正健墓(台東区・谷中霊園)

藤島 正健(ふじしま まさたけ、1845年(弘化2年3月)- 1904年(明治37年)10月15日)は、日本の大蔵官僚。官選県知事。


経歴
熊本藩士・藤島昌和の長男として熊本高田原に生まれる。


明治5年(1872年)、政府に出仕し検事局十等出仕となる。以後、紙幣寮大属九等出仕、紙幣権助、大蔵権少書記官、大蔵少書記官、大蔵権大書記官、兼員外議官補などを歴任。
1884年4月、フランス・パリ在留領事に就任。1886年3月、大蔵省に復帰し大蔵書記官となる。以後、総務局文書課長、銀行局長を務めた。


1888年10月、富山県知事に就任。1890年7月、千葉県知事に転じた。1892年2月の第2回衆議院議員総選挙において選挙干渉を行って死傷者を出した。1893年3月、千葉県知事を退任。1897年6月、日本勧業銀行副総裁となり1900年まで在任。


栄典
・1886年(明治19年)11月30日 - 勲六等単光旭日章[1]
・1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[2]


血縁
・母・藤島茂登子は、矢嶋直明・鶴子夫妻の長女で、妹に横井小楠夫人横井つせ子・徳富一敬夫人徳富久子・竹崎順子・矢嶋楫子がいた。藤島正健と徳富蘇峰は、母方の従兄弟同士であった。酒田正敏・坂野潤治他編『徳富蘇峰関係文書』山川出版社近代日本史料選書7-2、1985年刊には、神奈川県二宮町徳富蘇峰記念館が所蔵する徳富蘇峰宛藤島正健書簡83通が収録されている。


脚注
1. 『官報』第1027号「叙任」1886年12月1日。
2. 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。


参考文献
・上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
・歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
(wikiより)