酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


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何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


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4309 東方斎(荒尾精)居址(熊野若王子神社前側)

荒尾 精(あらお せい、安政6年6月25日(1859年7月24日) - 1896年(明治29年)10月30日)は、日本の陸軍軍人、日清貿易研究所の設立者。日清戦争の最中、「対清意見」「対清弁妄」を著し、清国に対する領土割譲要求に反対した。日中提携によるアジア保全を唱えた明治の先覚者である。


経歴
尾張藩士・荒尾義済の長男として名古屋市琵琶島に[1]生まれる。幼名は一太郎、本名は義行、後に東方斎と号した。


1878年(明治11年)、陸軍教導団砲兵科に入学。さらに陸軍士官学校に入り、熊本歩兵連隊に赴任。


1882年(明治15年)12月に同校(旧第5期)卒業後は、歩兵第13連隊付となる。


1885年(明治18年)、陸軍参謀本部支那部付けになった。


1886年(明治19年)、参謀本部の命を受け、情報収集のために中国(清)に赴任。岸田吟香の援助を受けて漢口楽善堂を運営、大陸調査活動の拠点とした。


1889年(明治22年)、漢口楽善堂の活動を終え、帰国。2万6千余字からなる「復命書(報告書)」を参謀本部に提出した [2]。


1890年(明治23年)9月、上海に日清貿易研究所を設立し、日中貿易実務担当者の育成に着手。日清貿易研究所は彼の死後設立された東亜同文書院の前身となった。


1893年(明治26年)7月、予備役に編入となる。


1896年9月(明治29年)、台湾でペストにかかり死去。


頭山満の荒尾評
玄洋社の頭山満は荒尾の死後次のように語った。 [3]


余は大に荒尾に惚れて居った、諺に五百年に一度は天偉人をこの世に下すと云うとあり、常時最も偉人を憶うの時に荒尾を得たのであるから、この人は天が下せし偉人その人ならんと信ぜし位に、敬慕して居った。


彼の事業は皆その至誠より発し、天下の安危を以って独り自ら任じ、日夜孜々としてその心身を労し、多大の困難辛苦を嘗め、益々その志を励まし、その信ずる道を楽しみ、毫も一身一家の私事を顧みず、全力を傾倒して東方大局のため蓋くせし報公献身の精紳に至っては、実に敬服の外なく、感謝に堪へざる所であって、世の功名利慾を主とし、区々たる小得喪に齷齪(あくせく)する輩と、全くその選を異にし、誠に偉人の器を具え大西郷以後の人傑たるを失わなかった。   


彼の徳望、識見、容貌、何れも偉人の風格を存し、凛乎たる威風の裡に、一種云う可からざる柔和にして、かつよく人を安んじ、人を魅するの魔力を持って居った。この人ならば 必然東亜の大計を定め、醇乎としてその主義を世界に普及し、頗る後世を益するの鴻業を成し遂げ得ぺしと信じて居った。然るに絶大の抱負経綸を有し、徳望識見共に超凡絶群なるこの人にして、中途に逝去せんとは、実に思い設けざる所であった。彼の死するや、根津は余に書を送り、この時においてこの英傑を奪い去るとは、天は何の意ぞと、非常に痛恨の意を洩したが、余も畢生の恨事として真に同情に堪えなかった。余荒尾を信じ、かつ敬慕したるは、実にこの位であった。


・・・・


荒尾の崇敬して居った人物は、三代頃の人物では夏の禹王抔を慕い、日本では南洲を敬慕して居った。


詳しい事は、『荒尾精ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%B0%BE%E7%B2%BE
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/414.html
400 頭山満墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/780.html
718 岸田 吟香墓(台東区・谷中霊園)

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4706.html
4280 東方斎・荒尾精先生の碑(京都府京都市左京区若王子町2・熊野若王子神社前)


 荒尾精


 左側の道を上がり、山を登ると同志社大学墓地になります。











4308 め組殉難供養碑(港区芝公園4-7-35・大本山増上寺)

「め組」の殉難者・物故者の供養碑。


● め組
江戸の町火消し。


「め組」が有名になったのは、江戸時代の文化2年(1805年)に起きた「め組の喧嘩」。


当時、境内で行われていた相撲の取り組みに出場していた力士と、地元の火消し「め組」の消防士たちが、


ささいなことから大喧嘩になったこの事件は、江戸っ子の間で語り継がれ、


後の歌舞伎「神明恵和合取組(かみめぐみわごうのとりくみ)」となりました。


この歌舞伎が評判を呼んだので有名になった。実際、江戸で一番人気があったのは「よ組」。


港区芝大門にある“芝神明のだらだら祭り”で名高い「芝大神宮」には、「め組」の半鐘が祀られています。


江戸時代の芝大神宮の境内には相撲・芝居小屋などがあり、庶民の憩いの場として親しまれました。


人足数は 239名。


受持区域/桜田久保町・兼房町・二葉町・源助町・露月町・神明町・増上寺中門前辺・浜松町・芝口辺・烏森町・南佐久間町 。











4307 熊谷直実五輪塔(京都市左京区黒谷町121・黒谷墓地内)

熊谷 直実(くまがい なおざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。武蔵国熊谷郷(現埼玉県熊谷市)を本拠地とした。熊谷直貞の次男。


熊谷氏は桓武平氏・平貞盛の孫[2]・維時(これとき)の六代の孫を称するが、武蔵七党の私市党、丹波党の分かれともされ、彰かではない[3]。直実の祖父・平盛方(もりかた)が勅勘をうけたのち、父直貞の時代から大里郡熊谷郷の領主となり、熊谷を名乗った。


平家に仕えていたが、石橋山の戦いを契機として源頼朝に臣従し御家人となる。のちに出家して法然上人の門徒となり蓮生(れんしょう / れんせい)と号した。


『平家物語』「敦盛最期」の段における平敦盛との一騎打ちは、直実は敦盛とともにこの故事の主人公として、能の演目『敦盛』、幸若舞の演曲『敦盛』といった作品に取り上げられている。[4]


生涯
前半生
武蔵国大里郡熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)の出身。幼名を弓矢丸という。その名のとおり弓の名手である。幼い時に父を失い、母方の伯父の久下直光に養われた。保元元年(1156年)7月の保元の乱で源義朝指揮下で戦い、平治元年(1159年)12月の平治の乱で源義平の指揮下で働く。その後、久下直光の代理人として京都に上った直実は一人前の武士として扱われないことに不満を持ち、自立を決意し直光の元を去って平知盛に仕える。


源平の戦い
源頼朝挙兵の直前、大庭景親に従って東国に下り、治承4年(1180年)の石橋山の戦いまでは平家側に属していたが、以後、頼朝に臣従して御家人の一人となり、常陸国の佐竹氏征伐で大功を立て、熊谷郷の支配権を安堵される。


寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いに参陣。この戦いでは正面から攻める源範頼の主力部隊ではなく、源義経の奇襲部隊に所属。鵯越を逆落としに下り、息子・直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入するも平家の武者に囲まれ、先陣を争った同僚の平山季重ともども討死しかけている。


『平家物語』によれば、この戦いで良き敵を探し求めていた直実は、波際を逃げようとしていた平家の公達らしき騎乗の若武者を呼び止めて一騎打ちを挑む。直実がむんずと取っ組んで若武者を馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子・直家ぐらいの齢だった。直家はこの戦いの直前に矢に射抜かれ深手を負っていたので、直実はその仇討ちとばかりにこの若武者に挑んだのである。直実が「私は熊谷出身の次郎直実だ、あなたさまはどなたか」と訊くと、敦盛は「名乗ることはない、首実検すれば分かることだ」と健気に答えた。これを聞いて直実は一瞬この若武者を逃がそうとしたが、背後に味方の手勢が迫る中、「同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう」といって、泣く泣くその首を切った。


その後、首実検をするとこの公達は清盛の甥[5]・平敦盛と判明、齢十七[6]だった。討ち死にの折に帯びていた笛「小枝」(さえだ)は、笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛が鳥羽上皇から賜ったものだという[7]。これ以後直実には深く思うところがあり、仏門に帰依する思いはいっそう強くなったという(『平家物語』)。


 波際を敗走する平敦盛


 呼び止める熊谷直実
(上記2点とも永青文庫蔵『一の谷合戦図屏風』より)



伯父との相続争い
文治3年(1187年)8月4日、鶴岡八幡宮の放生会で流鏑馬の「的立役」を命ぜられた。弓の名手であった直実は、これを不服とし拒否したため、所領の一部を没収された。(当時鎌倉の中を騎馬で通行できるのは武士身分だけの特権であり、下人・所従以下は徒歩だった)


建久3年(1192年)11月25日、過去の経緯から不仲だった久下直光の久下郷と熊谷郷の境界争いが続いており、ついに頼朝の面前で、両者の口頭弁論が行われることになった。武勇には優れていても口べたな直実は、頼朝の質問に上手く答えることが出来ず、自然質問は彼に集中するようになった。直実は憤怒して「梶原景時めが直光をひいきにして、よい事ばかりお耳に入れているらしく、直実の敗訴は決まっているのも同然だ。この上は何を申し上げても無駄なこと」と怒鳴りだし、証拠書類を投げ捨てて座を立つと、刀を抜いて髻を切り、私宅にも帰らず逐電してしまい、頼朝があっけにとられたという(『吾妻鏡』[8])。


この争いの背景には、直実が抱えていた立場の弱さがあった。久下直光は孤児となった直実を庇護した上に本来久下氏の支配下にあったとみられる熊谷郷を領したが、それは久下氏の立場から見れば、直実を自己の郎党もしくは客将として捉え、それを前提として預けたものであったとみられる。その弱さは「直光代官」として上洛して大番役と務めていたこと、熊谷氏の系図の中に直実の娘が直光の妻となったとするものがあることなどから知ることができる。その後、直実は直光から自立して自らの力で自らの所領を支配する武士になることを目指し、平氏との戦いを通じて御家人としての地位と熊谷郷の支配権を認められた。だが、それは直光から見れば、久下氏の所領である熊谷郷を直実に奪われたと強く反発し、直実との衝突につながったと考えられている。[9]


詳しい事は、『熊谷直実ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E7%9B%B4%E5%AE%9F
(wikiより)