酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"


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4650 飯田俊助墓(山口県防府市桑山1-5-10・大楽寺南墓地)

飯田 俊助(いいだ としすけ、1846年9月30日(弘化3年8月10日[1]) - 1914年(大正3年)3月23日)は、日本の陸軍軍人、華族。最終階級は陸軍中将。男爵。


経歴
山口県出身。長州藩家老福原家家臣・飯田直規の四男として生まれる[1]。奇兵隊に入隊し戊辰戦争に従軍した[1]。


1873年(明治6年)2月、歩兵少尉に任官。1894年(明治27年)11月、歩兵第20連隊長となり、翌月、歩兵大佐に昇進。1896年(明治29年)10月、歩兵第15連隊長へ異動。


1898年(明治31年)10月、陸軍少将に進級し歩兵第11旅団長に就任。日露戦争に出征し、遼陽会戦、沙河会戦に参加。1905年(明治38年)2月、陸軍中将に進み、戦病死した松村務本中将の後任として第1師団長に親補され、奉天会戦を戦った。1906年(明治39年)2月3日、後備役に編入[2]。1909年(明治42年)4月1日に退役した[3]


1907年(明治40年)9月21日、日露戦争の功績により男爵の爵位を授爵し華族となった。


栄典
・1883年(明治16年)7月16日 - 従六位[4]
・1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[5]
・1893年(明治26年)11月29日 - 勲三等瑞宝章[6]
・1895年(明治28年)11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[7]
・1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章、勲一等旭日大綬章、明治三十七八年従軍記章[8]
・1907年(明治40年) 6月21日 - 従三位[9]
9月21日 - 男爵 [10]



親族
・長男 飯田精太郎(運輸通信次官・貴族院男爵議員・参議院議員)
・二男 飯田祥二郎(陸軍中将)


脚注
1. a b c 『平成新修旧華族家系大成』上巻、83-84頁。
2. 『官報』第6777号、明治39年2月5日。
3. 『官報』第7766号、明治42年5月18日。
4. 『官報』第35号「叙任」1883年8月10日。
5. 『官報』第1938号「叙任及辞令」1889年12月12日。
6. 『官報』第3131号「叙任及辞令」1893年12月5日。
7. 『官報』第4010号・付録「辞令」1896年11月9日。
8. 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
9. 『官報』第7193号「叙任及辞令」1907年6月22日。
10. 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。


参考文献
・福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
・外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
・霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
(wikiより)


 飯田俊助