酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6829 森田家墓(谷中1-5-35・仏心寺)

佃源田中屋故事碑文


天正年間 佃源田中屋初代源右衛門 摂津国佃村より江戸佃島に移住せられ折り森田氏より佃煮製法の助言を得


佃源四百年の礎と為す


現今第六代源右衛門字田中昭二郎儀旧辞を以て只管事業に専念し中興と為す


此処に碑文を記し是の故事を検証す
(碑文より)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/608.html

577 森孫右衛門供養塔(中央区築地3・築地本願寺)











6828 三代目・市川段四郎墓(台東区・寛永寺墓地)

三代目 市川段四郎(さんだいめ いちかわ だんしろう、1908年(明治41年)10月5日) - 1963年(昭和38年)11月18日)は大正から昭和期の歌舞伎役者。


本名は喜熨斗 政則(きのし まさのり)。屋号は澤瀉屋。定紋は三升の中に段の字、替紋は八重澤瀉。東京市浅草区生まれ。


猿之助一座で幹部として活躍したが病に倒れ、長男が三代目市川猿之助を襲名するのを見届けると、父の初代市川猿翁の後を追うようにして死去した。


年譜
・二代目市川猿之助の長男として生まれる。


・1913年(大正2年) 10月 東京劇場で二代目市川團子を襲名して初舞台。


・立教中学校を卒業。


・1930年(昭和5年) 10月 歌舞伎座歌舞伎十八番之内『鎌髭』の小藤太守郷で三代目市川段四郎を襲名。


・1961年(昭和36年) 東宝専属となる。


・1962年(昭和37年) この年に病に倒れる。


・1963年(昭和38年) 5月、長男が三代目市川猿之助を襲名。6月、父・猿翁が死去。11月18日、死去。


家族
・夫人は女優の高杉早苗で、その間に2男1女。長男が二代目市川猿翁、次男が四代目市川段四郎、長女が市川靖子。


主な出演
舞台
・放浪記(1961年・1962年) - 福地貢 役
(wikiより)


関連情報
https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/7857.html

6825 高杉早苗墓(台東区・寛永寺霊園)


https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/7858.html

6826 二代目・市川猿之助墓(台東区・寛永寺墓地)


https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/7859.html

6827 二代目・市川段四郎墓(台東区・寛永寺墓地)











6827 二代目・市川段四郎墓(台東区・寛永寺墓地)

二代目 市川段四郎(にだいめ いちかわ だんしろう、1855年9月2日(安政2年7月21日) - 1922年(大正11年)2月6日)は明治・大正時代の歌舞伎役者。


初代市川猿之助として知られる。屋号は澤瀉屋。紋は、猿之助としては、定紋が澤瀉、替紋が三ツ猿。段四郎としては、定紋が三升に段の字、替紋が八重澤瀉。


本名は喜熨斗 亀次郎(きのし かめじろう)。俳名に笑樂・壽猿がある。


来歴
江戸浅草に立師の坂東三太郎の子として生まれる。1859年(安政6年)十三代目市村羽左衛門の門人で市村長松となり子供芝居に出演。1862年(文久2年)9月に江戸市村座に出る。五代目坂東彦三郎の門で坂東羽太作と改名。1870年(明治3年)には河原崎権十郎(のち九代目市川團十郎)の門下に入るが、門人との軋轢から小芝居に出演し、その際、師に無断で『勧進帳』の弁慶を演じたことが勘気にふれ破門となる。この後は山崎猿之助、松尾猿之助と改名を繰り返し、旅興行から大阪の舞台に立つなど辛酸をなめながら芸を磨く。その甲斐あって1890年(明治23年)には師から破門を解かれ、初代市川猿之助となる。翌1891年(明治24年)東京歌舞伎座『出世景清』の梶原平次・千葉之助で名題に昇進、九代目の高弟として活躍した。


九代目の死後、1905年(明治38年)9月の歌舞伎座での追善興行では一門を代表して口上を述べた。1910年(明治43年)10月歌舞伎座で『鎌鬚』の六十六部快山実ハ将軍太郎良門・『桐一葉』の大野道軒で二代目市川段四郎を襲名。以後東京歌舞伎の長老として重きを成した。


芸風
男性的な芸風で表現力に優れた。『仮名手本忠臣蔵』の高師直、『伊賀越道中双六』「沼津」の平作、『平家女護島』「俊寛」の俊寛など、義太夫狂言の老役が当たり役。市川宗家のお家芸では、『勧進帳』の弁慶や『鎌鬚』の六部。特に歌舞伎十八番の一つでありながらその大略までが不明になっていた『鎌鬚』を復活上演させてからは、事実上これが成田屋のお家芸から澤瀉屋のお家芸に替わった。このほか『積恋雪関扉』(関の扉)、『奴道成寺』、『独楽』などの所作事にも長じた。


門人から歌舞伎界の中核にまで出世した二代目段四郎は、反骨精神と新取の気概に富み、坪内逍遥の新歌舞伎に挑戦したり、当時の最新の演劇であった新派に客演するなど歌舞伎の革新化を推進した。
(wikiより)


関連情報
https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/7857.html

6825 高杉早苗墓(台東区・寛永寺霊園)


https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/7858.html

6826 二代目・市川猿之助墓(台東区・寛永寺墓地) 


https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/7860.html
6828 三代目・市川段四郎墓(台東区・寛永寺墓地)


 二代目・市川段四郎