酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6891 友平親徽墓(台東区谷中・谷中霊園)

友平親徽 ( ともひら - ちかよし ) / 友平慎三郎 ( ともひら - しんざぶろう )
天保 13年 ~ 明治 24年 2月 22日 ( 1842 - 1891 )


壬生藩の大砲奉行。


名、親徽。通称、慎三郎。父、壬生藩士・斉藤佐左衛門 ( 三男 )。栃木県出身。養父、友平栄。


安政 2年 ( 1855 ) 実弟の斉藤留蔵 ( 佐左衛門四男 ) と共に江川太郎左衛門の塾に入門。


天狗党が太平山に籠ったとき大砲を率いて出陣。


天狗党が太平山から筑波へ戻った後の鎮撫戦でも大砲隊を率いて活躍。


慶応 4年 ( 1868 ) 戊辰の役で会津軍に加わり大砲隊を指揮し各地を転戦。


宇都宮城を占領した旧幕府軍に壬生城内の状況を内通したため、「安塚の戦」となる。


明治 3年 ( 1870 ) 友平栄の養子となり、その娘・伊代子を娶る。


明治 4年 ( 1871 ) 兵部省に出仕。


明治 5年 ( 1872 ) ころ佐井正民・岩上俊温らと陸軍武庫中令史。


明治 6年 ( 1873 ) 陸軍武庫権大令史となる。


明治 8年 ( 1875 ) ころ綾部幸煕・米田精らと陸軍省 9等出仕。


明治 12年 ( 1879 ) 大尉に任じ砲兵第 1方面本署員。


明治 16年 ( 1883 ) 砲兵会議所付。正 7位。


妻・伊代子 ( 明治 35年 2月 21日歿 )。子に友平親教がいる。50歳没。


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/501.html

487 江川太郎左衛門英龍終焉之地(墨田区亀沢1丁目)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/7356.html
6420 江川英龍(太郎左衛門)墓(台東区寿2-9-7・本法寺)


https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6810.html

6892 友平親教墓(台東区谷中・谷中霊園)











6890 吉川重吉墓(台東区谷中・谷中霊園)

吉川 重吉(きっかわ ちょうきち、安政6年12月24日(1860年1月16日) - 大正4年(1915年)12月27日)は、旧岩国藩主吉川家の一族。外務官僚、貴族院議員。


父は吉川経幹、兄は最後の岩国藩主吉川経健。爵位は男爵。妻は大洲藩最後の藩主加藤泰秋の娘・須賀子。子は男子が吉川元光と吉川重国。娘達は原田熊雄、和田小六、獅子文六に嫁いでいる。


生涯[編集]
安政6年12月(1860年1月)、吉川経幹の三男として、岩国横山の仙鳥屋形で生まれる。


文久3年(1863年)には名目的ではあるが、子のなかった毛利敬親の養子となる。


明治3年(1871年)に岩倉使節団に同行してアメリカへの留学を果たす。同行者は岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳、佐々木高行、山田顕義、田中光顕、田中不二麿など当時の要人の他、旧大名家・公家の子弟としては他に、岩倉具綱(具視の養子)、大久保彦之進、牧野伸顕、山県伊三郎等が参加。鍋島直大、前田利嗣、前田利同、黒田長知、鳥居忠文、大村純煕、毛利元敏等もいた。


明治16年(1883年)、留学先のハーバード大学を卒業。帰国後に井上馨の強い勧めもあり外務省に入省、公信局に配属される。明治19年(1886年)にはベルリン公使館二等書記官となり、西園寺公望に従ってドイツへ赴任。その後、外務省を退職し、ドイツ・ハイデルベルヒ大学へ留学するも、兄の吉川経健補佐のために中途で帰国。明治24年(1891年)11月21日に男爵に叙任された、翌年には最後の大洲藩主加藤泰秋の娘、須賀子と結婚する。


明治26年(1893年)6月、貴族院議員に補欠選挙で当選し、亡くなるまで在職した。明治43年(1910年)に建築家のジェームズ・ガーディナーによって自宅を建築。大正4年(1915年)に南洋協会の設立に参加、副会頭となったが、同年末に死去した。


死後、その遺志によって岩国徴古館が建設されるに至った。墓所は谷中霊園にある。


松陰神社(世田谷区)に重吉が寄贈した石燈篭が残っている。また、谷中霊園の墓所にはアメリカ・ハーバード大学寄贈の石灯籠がある。


子孫
・和田昭允(外孫:生物物理学者 東京大学名誉教授 元東京大学理学部長 元日本学術会議第四部長 元理化学研究所ゲノム科学総合研究センター所長)


著書
・The Autobiography of Baron Chokichi Kikkawa (1925年)
・『吉川重吉自叙伝』 尚友ブックレット25 (一般社団法人尚友倶楽部、2013年)
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1047.html

968 吉川家納骨堂(岩国市横山1丁目256-2・洞泉寺)


https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6805.html

6889 吉川重国墓(台東区谷中・谷中霊園)


 吉川重吉