酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6242 青山胤通墓(台東区谷中・谷中霊園)

青山 胤通(あおやま たねみち、安政6年5月15日(1859年6月15日) - 大正6年(1917年)12月23日)は日本の医学者。専門は内科学。医学博士。1906年、帝国学士院会員・勲三等瑞宝章、1916年、勲一等瑞宝章、1917年12月14日、男爵叙爵。


経歴
江戸に苗木藩藩士・青山景通の三男として生まれ、美濃国恵那郡苗木(現在の岐阜県中津川市苗木)にて育つ。幼名は捨松、助松。1869年、平田信胤(平田鐵胤の子)の養子となるが、1871年に信胤が亡くなり、青山家へ戻る。1882年 東京大学医学部卒業後、同大病理学教室助手就任。1883年にドイツに留学し、ベルリン大学でルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウに師事する[1]。1887年に帰国後、東京帝国大学医科大学校内科学第一講座(青山内科として君臨)教授。1891年に医学博士。その後、東京帝国大医科大学校長、伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)所長等を歴任。明治大帝の侍医、宮内庁御用掛を勤める。1901年癌研究会を設立し、会頭を務める。


1917年(大正6年)12月23日、食道癌のため死去[1]。墓所は台東区谷中の谷中霊園。東京大学薬学部東側に新海竹太郎作の銅像がある。


青山徹蔵(元東京帝国大医学部第一外科学教室教授)は養子。


森鴎外とも親交があり、彼の親友である原田直次郎の治療や、森がその才能を高く評価した樋口一葉の診察も行っている。


脚気は感染症であるという説を生涯主張し当時の日本医学会では定説となっていたが、現在では否定されている。一方で、東京大学医科学研究所の前身である伝染病研究所の東京大学医学部統合を推進し伝染病研究所の創設者である北里柴三郎と激しく対立した。


栄典
・1900年(明治33年)12月20日 - 勲三等瑞宝章[2]
・1913年(大正2年)8月11日 – 従三位[3]
・1917年(大正6年)12月24日 - 正三位[4]


業績
・1895「千八百九十四年香港ニ流行セルペスト病ニ就イテ」中外医事新報 377,1428-1433,
・1895「千八百九十四年香港ニ流行セルペスト病ニ就イテ」中外医事新報 375,1281-1288,
・1894「香港ニ於ケルペスト調査ノ略報」大日本私立衛生会雑誌 138,941-959,


著作
主な著作は以下のとおり[5]。
・新薬説約 / 江馬賤男[他]、江馬賤男、1889.12
・新纂診断学. 上巻 / 笠原光興、高田耕安[他]、松崎留吉、1891.4
・薬物学 / 高阪駒三郎[他]、田中増蔵、1892.5
・新薬説約 / 江馬賤男[他]、2版、江馬賤男、1892.10
・治療全書. 巻1、2 / クンツヱ[他]、至誠堂、1893
・ペストニ就テ / 胃腸病研究会、1899.12
・青山博士臨牀講義. 第1、2輯 / 〔青山胤通[他]、実験医報社、1918-1922
・日本内科全書 / 吐鳳堂、1913-1925


漫画
・栄光なき天才たち(第4巻):北里柴三郎に対し、屈指の悪役として描かれている。


脚注
1. a b 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)8頁
2. 『官報』第5243号「叙任及辞令」1900年12月21日。
3. 『官報』第311号「叙任及辞令」1913年8月12日。
4. 『官報』第1620号「叙任及辞令」1917年12月25日。
5. 国立国会図書館NDL-OPACによる検索結果より(2010年8月9日閲覧)


外部リンク
・『男爵青山胤通先生 : 略伝』苗木町銅像建立委員編 (故男爵青山博士銅像建立委員会, 1938)
・『初めての日本人の若き臨床教授の誕生』東大病院だより No.49 平成17年4月25日
・銅像除幕式『歴史写真. 大正10年2月號』(国立国会図書館デジタルコレクション)
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1830.html

1679 稲田龍吉墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3168.html
2951 三浦謹之助墓(台東区・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/5324.html
4835 高田畊安墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/7262.html

6243 青山徹蔵墓(台東区谷中・谷中霊園)


 青山胤通











6241 阪田泰二墓(台東区谷中・谷中霊園)

阪田 泰二(さかた たいじ、1910年1月27日 - 1968年10月7日)は、日本の大蔵官僚。
和歌山県出身。妻は「夢であいましょう」の司会者で、デザイナーの中嶋弘子。


略歴
・府立一中、一高を経て、
・1931年 東京帝大法学部法律学科卒、同年大蔵省入省、翌年預金部属
・1942年1月 大臣官房秘書課長兼大蔵大臣秘書官
・1945年8月 主計局第二課長
・1946年2月 主計局審査課長
・1948年7月 主計局次長
・1949年6月 東京国税局長
・1950年11月 日本銀行政策委員会大蔵省代表委員
・1951年5月 経済安定本部財政金融局長
・1952年8月 大蔵省管財局長
・1953年8月 同・理財局長
・1955年7月 国税庁長官(1956年7月まで)
・1956年7月 日銀理事(1961年6月まで)
・1961年6月 日本専売公社総裁(参院選に絡む選挙違反事件で、専売公社職員約100人が逮捕され1965年10月辞任。)


関連項目
・神奈川税務署員殉職事件


参考文献
・大蔵省百年史編集室『大蔵省人名録』
・『CD 現代日本人名録物故者編 1901-2000』日外アソシエーツ
(wikiより)











6240 柳 壮一墓(台東区谷中・谷中霊園)

柳壮一 ( やなぎ - そういち )
明治 23年 ~ 昭和 31年 8月 19日 ( 1890 - 1956 )


外科医・日本外科学会会長。


父、柳壮義 ( 長男 )。兵庫県出身。


大正 5年 ( 1916 ) 東京帝国大学付属病院近藤外科に勤務。


大正 9年 ( 1920 ) 慶応大学医学部講師。


のち北海道帝国大学助教授、医学部長。


大正 12年 ( 1923 )「膿に関する研究」で医学博士。


渡欧後、大正 13年 ( 1924 - 1951 ) 北海道帝国大学教授。日本外科学会会長。北海道大学名誉教授。国立相模原病院長。正三位勲二等。


著書・論文:「外科学汎論」、「低温の生体に及ぼす影響の実験的研究」、「日本叢書 寒さと人間」など。67歳没。