酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"


記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

4654 十七代目・中村勘三郎墓(台東区竜泉1-20-19・西徳寺)

十七代目 中村 勘三郎(じゅうしちだいめ なかむら かんざぶろう、1909年(明治42年)7月29日 - 1988年(昭和63年)4月16日)は、昭和に活躍した歌舞伎役者。屋号は中村屋。定紋は角切銀杏、替紋は丸に舞鶴。本名は波野 聖司(なみの せいじ)。


来歴
初代中村吉右衛門と六代目尾上菊五郎の双方に師事し、女形・立役をともにこなす名優だった。


1909年(明治42年)7月29日、三代目中村歌六の三男として生れる。長兄の初代中村吉右衛門と次兄の三代目中村時蔵がともに歌六の妻・かめ(旧姓小川)の所生だったのに対し、聖司は妾の山本とし所生の子で、しかも年が離れていたために、幼い頃はよくいじめられたという。その初代吉右衛門や六代目菊五郎、そして七代目坂東三津五郎らが活躍した市村座で聖司は育った。1916年(大正5年)、三代目中村米吉を襲名して初舞台を踏んだ。初舞台は市村座の『花川戸噂の俎板』の倅長松だった。


父の三代目歌六に仕込まれたあとは、長兄の初代吉右衛門に付いて修行した。最初は女形として舞台を勤める。


1929年(昭和4年)明治座『碁太平記白石噺』の信夫などで四代目中村もしほ襲名。1934年(昭和9年)立役への希望が強く、松竹での役不足などから東宝劇団へ移籍する。東宝劇団には、九代目市川高麗蔵、六代目坂東蓑助、五代目片岡芦燕、六代目市川壽美蔵らがいた。1937年(昭和12年)に東宝劇団が解散すると、しばらく関西歌舞伎に籍を置いていた。この関西歌舞伎時代には、二代目實川延若、中村魁車、三代目中村梅玉らと舞台を共にしたが、この間に立役としての実力をつけた。のち松竹へ復帰。


1944年(昭和19年)には六代目尾上菊五郎の長女久枝と結婚した。その当時は本土空襲が激しさを増していたさなかだったため、久里浜に疎開していた。


1950年(昭和25年)1月、長らく絶えていた「中村勘三郎」の名跡を再興する形で十七代目を襲名し、新たに中村屋を興す。以後、六代目菊五郎と初代吉右衛門の芸風を吸収し、時代物と世話物、上方と江戸、立役と女形、古典と新作など、種別を問わない広い芸を身に着けた。戦後は活動の主軸を吉右衛門劇団におき、女形出身らしい柔らか味と、明るくも円やかな人情味、さらに愛嬌あふれる芸風によって人気を博した。生涯通算800役以上を勤め、ギネスブックに登録されたという逸話も持つ。


映画やテレビドラマへの出演経験もあり、歌舞伎界の枠に囚われない活動も見せている。


1988年(昭和63年)1月歌舞伎座『平家女護島』「俊寛」の俊寛僧都を7日間勤めたのが最後の舞台となった。同年4月16日、縦隔腫瘍の悪化により東京女子医科大学病院で死去、78歳だった。墓所は西徳寺(東京都台東区)。戒名は「秀峰院釋聖鏡大居士」。後従三位と勲一等瑞宝章が追贈された。


栄典・顕彰等
栄典・顕彰
・1969年 日本芸術院賞[1]
・1970年 日本芸術院会員
・1971年 文化功労者
・1980年 文化勲章


その他
・1975年 重要無形文化財保持者に各個認定(人間国宝)


家族
十八代目中村勘三郎は長男、新派の波乃久里子は長女、六代目中村勘九郎と二代目中村七之助は孫。


人物・逸話
・息子の十八代目中村勘三郎は、父・十七代目を「怖い親父だった」と述懐する。たとえば少年時代、39度の高熱で倒れて家で寝ていたが、その状態で舞台を密かに見に行ったことに父が激怒し、寝ているところに氷水をぶっかけられたうえ、家からつまみ出されたことがあるという。


・二人の孫の勘太郎(のちの六代勘九郎)と七之助の初舞台『門出二人桃太郎』では、二人の母方の祖父、七代中村芝翫とともに爺と婆を演じたが(なお庄屋の夫婦は十三代片岡仁左衛門、中村歌右衛門、犬、雉、猿は松本幸四郎、澤村藤十郎、中村福助(のちの梅玉)、巫女は尾上梅幸であった)、息子と孫2人と祖父2人との5人の口上の席上「孫たちは私をじじんちゃまと呼びますが、成駒屋さん(=芝翫)のことをパパと呼びます。それが気に入りません。わたしとあんた爺同士なのに」と発言し客席を笑わせた。
十八代目の述懐をもう一つ。まだ勘九郎になりたての頃、父・十七代目と藤山寛美の舞台を見たが、そのとき十七代目は「よく見ておけ、この男は必ず舞台で天下を取るぞ」と言い、その実力を見抜いていたという。当時の寛美は人気スターではあったものの、二代目渋谷天外の陰にあって後年の喜劇王的な位置にはまだ達していなかった。この縁で勘三郎一家と寛美一家の親交が現在も続いている。


・妻の久枝と帝国ホテルのレストランに入ったときのこと、久枝は前菜に鴨、スープはタートル(海亀)を選んだが、十七代目は「タートルって、セーターみたいだね。亀のこと?おまえさん亀食べるの?やだね」と言って、メインディッシュを決める段階で久枝は「熊?兎?鳩?あら雉もいいわ」と言い出したため、十七代目は「何だい、鴨だ亀だ兎だ熊だ、って、お前さんがそんなに悪食だとは知らなかったよ、ぼくは帰る!!」と激怒して、久枝を残したまま何も食べずに帰ってしまったという。[2]


・十七代目は梨園きっての麻雀好きとして有名だった。取材のために車で移動していた間も同行スタッフと車内で卓を囲んでいたほど。そんな父だからと、葬儀の晩は霊前で雀卓を囲もうということになり、息子の勘九郎(当時)が故人と親しかった森光子、片岡孝夫(当時)、十二代目市川團十郎の3人を誘った。いざ始めようとした時、遺影が倒れて卓のそばまで落ちてきた。「(十七代目は)自分もやりたがってるんだろうね」と雀卓を囲んだ4人で故人を偲ぶことしきりだったという。


・大腸がんを患い、施術。以来、人工肛門を使用していたが、そうした影響を微塵も感じさせない精力的な舞台を晩年まで務めあげた。


・往時は歌舞伎劇場に役者が入る大風呂があったが、十七代目は持病のために入れなかった。そこで楽屋に風呂桶を入れさせ、一人それに浸かっていた(現在では風呂は楽屋に備え付けとなっているものが主流)。


詳しい事は、『十七代目・中村勘三郎ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%8B%98%E4%B8%89%E9%83%8E_(17%E4%BB%A3%E7%9B%AE)
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1133.html
1043 初代・中村勘三郎墓(墨田区両国2-8-10・両国回向院内)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1850.html
1698 十八代目・中村勘三郎墓(台東区竜泉1-20-19・西徳寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3802.html
3532 初代・中村勘三郎墓(江戸川区西瑞江2-38-7・大雲寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3803.html
3533 二代目・中村勘三郎墓(江戸川区西瑞江2-38-7・大雲寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3804.html
3534 四代目・中村勘三郎墓(江戸川区西瑞江2-38-7・大雲寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3805.html
3535 五代目・中村勘三郎墓(江戸川区西瑞江2-38-7・大雲寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3806.html
3536 六代目・中村勘三郎墓(江戸川区西瑞江2-38-7・大雲寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3807.html
3537 七代目・中村勘三郎墓(江戸川区西瑞江2-38-7・大雲寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3808.html
3538 八代目・中村勘三郎墓(江戸川区西瑞江2-38-7・大雲寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3809.html
3539 九代目・中村勘三郎墓(江戸川区西瑞江2-38-7・大雲寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3810.html
3540 十代目・中村勘三郎墓(江戸川区西瑞江2-38-7・大雲寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3811.html
3541 十一代目・中村勘三郎墓(江戸川区西瑞江2-38-7・大雲寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3812.html
3542 十二代目・中村勘三郎墓(江戸川区西瑞江2-38-7・大雲寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3813.html
3543 十三代目・中村勘三郎墓(江戸川区西瑞江2-38-7・大雲寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3814.html
3544 三代目・中村勘三郎墓(江戸川区西瑞江2-38-7・大雲寺)


 十七代目・中村勘三郎











4653 秋本好謙墓(山口県防府市桑山1-5-10・大楽寺南墓地)

秋本好謙(あきもと - こうけん)
(天保13年(1842) ~ 明治41年(1908)


号は地山。67歳没。


三田尻新田の医家・秋本里美の子として生まれた。


大阪や江戸に出て洋学を修め、帰国後は父業を継いで三田尻医学校で教授した。
  
幼年より学問を好み、大田稲香に就きまた明倫館で数年学んだ。


晩年は牟礼に移住し、国漢文を子弟に授けた。


詩文和歌にも堪能であった。


明治17年、文部省より褒賞を受けた。



 家族のお墓です。