酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

酔いどれJohnnyで御座います

小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

4315 山本権八墓(京都府左京区鹿ケ谷若王子山町・同志社墓地)

山本 権八(やまもと ごんぱち、文化6年(1809年) - 明治元年9月17日(1868年11月1日))は、幕末の会津藩士。


山本家は「日新館志」によれば安土桃山時代の茶人・山本道句の子孫である。道句の孫・道珍良次が保科正之に茶道指南として仕え、権八の家はその分家(10人扶持)として会津藩に仕えていた。本家も150石として幕末まで会津藩に仕えている[1]。


父・権八良高
山本権八の父、良高(1779ごろ - 1844ごろ)は、会津藩士三宅家から山本家に養子に入り、権八を名乗った。良高は諱。1808年(文化5年)に利尻島警備に従事し、これがきっかけで長銃を研究、さらに1842年(天保13年)には江戸で砲術家の市川熊雄から臼砲の製造法を学び、会津に伝えた。これらの働きで、山本家は幕末に砲術家として活躍することとなる[2]。


2代目権八
2代目山本権八は、権八良高の養子として山本家に入る。自身の諱は未詳。初名・繁之助[3]。


もともと会津藩士・永岡家(150石)の生まれだが、文政9年(1826年)に同藩士であり鶴ヶ城下で近所に屋敷を持っていた良高権八の娘・佐久の婿となった。後に良高の跡を襲う。佐久との間には三男三女があったが、長じたのは長男・覚馬、長女・窪田氏妻、三女・八重、三男・三郎である。


上級藩士が屋敷を連ねる鶴ヶ城下の郭内、米代四之丁に屋敷を持つ[4]。藩主・松平容保が京都守護職として在京をもっぱらとすると、元治元年(1864年)に権八も上京し、その執務に参加した。同年7月に起きた禁門の変に際しては生駒直道の組下に配属され、御所内の凝華洞詰めとして出動する。主に弾丸の補填などに働き、戦後は褒賞として銀子15枚が下賜された。慶応4年(1868年)の会津戦争においては玄武士中隊に所属して新政府軍と交戦する。しかし改元後の明治元年9月17日に、一ノ堰の戦闘において討ち死にした。享年60。


墓所は福島県会津若松市門田町の光明寺にあるほか、後に三女・八重が嫁いだ新島襄の創始した同志社の墓地にも存在する。


2代目権八の実家、永岡家からは永岡久茂(思案橋事件首謀者)が出ている[5]。


登場作品
・八重の桜 - 2013年、NHK大河ドラマ、演:松重豊


注釈
1. 好川 25-29p
2. 好川 21-24p
3. 好川 22p
4. 隣家には伊東家(130石、白虎隊士・伊東悌次郎の生家)と水島家(150石、斗南藩庶務掛・水島弁治の生家)が、裏手には高木家(300石、斎藤一の後妻・高木時尾の生家)や日向家(400石、内藤兼備の妻・日向ユキの生家)などがあった。また権八の生家である永岡家も斜向かいにあった。
5. 好川 25p


参考文献
・古今堂書店古典部 編『会津藩士人名辞典』古今堂書店、1933年
・芳賀幸雄『要略 会津藩諸士系譜』歴史春秋出版、2001年
・好川之範『幕末のジャンヌ・ダルク 新島八重』新人物往来社、2012年
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/500.html
486 高島秋帆墓(文京区向丘1・大円寺)

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4744.html
4314 山本久栄墓(京都府左京区鹿ケ谷若王子山町・同志社墓地)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4746.html

4316 山本佐久、三郎墓(京都府左京区鹿ケ谷若王子山町・同志社墓地)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4747.html
4317 山本覚馬墓(京都府左京区鹿ケ谷若王子山町・同志社墓地)











4314 山本久栄墓(京都府左京区鹿ケ谷若王子山町・同志社墓地)

山本久栄 ( 1871 - 1893 )


山本覚馬の娘。


同志社女学校、神戸英和女学校 ( 現神戸女学院 ) で学んだ。


徳冨蘆花の小説『黒い眼と茶色の目』に描かれた「茶色の目」事件のヒロイン。


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4745.html
4315 山本権八墓(京都府左京区鹿ケ谷若王子山町・同志社墓地)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4746.html

4316 山本佐久、三郎墓(京都府左京区鹿ケ谷若王子山町・同志社墓地)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4747.html
4317 山本覚馬墓(京都府左京区鹿ケ谷若王子山町・同志社墓地)











4313 原田助墓(京都府左京区鹿ケ谷若王子山町・同志社墓地)

原田 助(はらだ たすく、1863年12月20日〈文久3年11月10日〉 - 昭和15年(1940年)2月21日)は、日本組合基督教会の牧師、同志社の第7代目社長である。


人物
肥後国熊本藩士鎌田収の次男として生まれる。後に山鹿郡上長野村の原田家の養子になる、熊本洋学校に入学し、L・L・ジェーンズより薫陶を受ける。


熊本洋学校の廃校の後、1876年(明治9年)から広取英語学校で学ぶが、1880年(明治13年)に同志社に編入し、新島襄らに薫陶を受ける。翌1881年(明治14年)にM・L・ゴードン宣教師より洗礼を受ける。1884年(明治17年)に同志社を卒業する。翌1885年(明治18年)5月4日に按手礼を受けて、神戸教会の牧師に就任する。


1887年(明治21年)8月に渡米して、シカゴ神学校、イエール大学で学ぶ。帰国後、1906年(明治40年)1月に同志社第7代目社長に就任する。1911年(明治45年)には同志社を大学にする。


1922年(大正11年)、ハワイ大学東洋学部を創設する。1940年(昭和15年)に京都で死去する。


栄典
・1915年(大正4年)11月10日 - 勲五等瑞宝章[1]


脚注
1. 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。


参考文献
・『日本キリスト教史大辞典』教文館、1988年
(wikiより)


 原田助