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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"


記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

5081 松平武元墓(荒川区東日暮里5-41-14・善性寺)

松平 武元(まつだいら たけちか、正徳3年12月18日(1714年2月2日) - 安永8年7月25日(1779年9月5日))は、上野館林藩および陸奥棚倉藩の藩主。親藩ながら江戸幕府の寺社奉行、老中を務めた。越智松平家3代。


常陸府中藩主松平頼明の次男。正室は桑名藩主松平忠雅の娘。子は武寛(四男)、戸田氏教(五男、大垣藩養子でのち老中)、娘(松平忠泰正室)、娘(戸田光和正室のち松平乗完継室)、娘(安藤信成正室)、娘(松平忠済正室)、娘(森忠興正室)、娘(久世広誉正室)、娘(溝口直信正室)らがいる。官位は従四位下、侍従、右近衛将監。


生涯
享保13年(1728年)、上野館林藩主松平武雅の養嗣子となり家督相続、その直後に陸奥棚倉に移封された。稲葉迂齋(稲葉正義、稲葉正誼とも)に師事する。延享3年(1746年)に西丸老中に就任し、上野館林に再封される。延享4年(1747年)に老中、明和元年(1764年)に老中首座に就いた。徳川吉宗、家重、家治の3代の将軍に仕え、家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼された。老中在任時後半期は田沼意次と協力関係にあった。老中首座は安永8年(1779年)死去までの15年間務めた。


武元死後は、四男の武寛が家督を継いだ。


年譜
日付はすべて旧暦による。
・正徳3年(1713年)、誕生。
・享保13年(1728年)
 ・7月、松平武雅の継子となる。
 ・9月、養父武雅死去に伴い越智松平家相続。陸奥国棚倉5万4,000石に転封。


・享保14年(1729年)12月16日、従五位下右近衛将監に叙任。


・元文4年(1739年)9月1日、奏者番に就任。


・延享元年(1744年)5月15日、寺社奉行を兼帯。


・延享2年(1745年)5月28日、主計頭に転任。


・延享3年(1746年)
 ・5月15日、西丸老中(徳川家治付き)となり、上野国館林5万4,000石に国替。右近衛将監に遷任。
 ・9月1日、従四位下に昇叙。右近衛将監は元の如し。


・延享4年(1747年)
 ・7月21日、侍従を兼任。
 ・9月3日、西丸老中から本丸老中に転じる。


・宝暦11年(1761年)5月16日、老中首座となる。


・明和6年(1769年)12月1日、7,000石加増、都合6万1,000石


・安永8年(1779年)7月25日死去。享年67。法名は天韶院勇山。墓所は東京都荒川区東日暮里の関妙山善性寺。
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/316.html

303 田沼意次墓(豊島区駒込5・染井霊園)


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5079 松平清武墓(荒川区東日暮里5-41-14・善性寺)


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5080 松平武雅墓(荒川区東日暮里5-41-14・善性寺)


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5082 松平斉厚墓(荒川区東日暮里5-41-14・善性寺)


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5083 松平武寛墓(荒川区東日暮里5-41-14・善性寺)


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5084 松平武成墓(荒川区東日暮里5-41-14・善性寺)


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5085 松平武聰墓(荒川区東日暮里5-41-14・善性寺)











5080 松平武雅墓(荒川区東日暮里5-41-14・善性寺)

松平 武雅(まつだいら たけまさ、元禄15年(1702年) - 享保13年7月28日(1728年9月2日))は、上野館林藩第2代藩主。越智松平家2代。


美濃高須藩主・松平義行の四男。母は側室・上月氏。幼名は新之助。初名は行高。官位は従五位下、肥前守。


元禄16年(1703年)8月14日生まれとも伝わる。義行には6人の男子がいたが多くは早世し、武雅だけが生き残った。


元服の際、父から偏諱を与えられて行高と名乗った。本来なら義行の世子となり、高須藩主になるはずであったが、義行は元禄14年(1701年)に本家から兄・徳川綱誠の十五男・万三郎(のちの松平義孝)を養子に迎えていたため、武雅は享保9年(1724年)、越智松平家の松平清武の養子とされ、同年家督を相続し館林藩主となる。


享保13年(1728年)に27歳で死去した。法名は顕徳院。子女を残さなかったため養嗣子として常陸府中藩から武元が迎えられ跡を継いだ。
(wikiより)


関連情報
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5079 松平清武墓(荒川区東日暮里5-41-14・善性寺)


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5081 松平武元墓(荒川区東日暮里5-41-14・善性寺)


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5082 松平斉厚墓(荒川区東日暮里5-41-14・善性寺)


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5083 松平武寛墓(荒川区東日暮里5-41-14・善性寺)


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5084 松平武成墓(荒川区東日暮里5-41-14・善性寺)


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5085 松平武聰墓(荒川区東日暮里5-41-14・善性寺)











5079 松平清武墓(荒川区東日暮里5-41-14・善性寺)

松平 清武(まつだいら きよたけ)は、上野館林藩の藩主。第6代将軍徳川家宣の弟。越智松平家初代。


生涯
寛文3年(1663年)10月20日、甲府藩主徳川綱重の次男として生まれる。生母の身分が低かったため、家臣の越智喜清(おち よしきよ/のぶきよ)に養われて延宝8年(1680年)5月28日にはその家督を継ぐ。元禄10年(1697年)11月には叔父である将軍徳川綱吉に初御目見してその偏諱を授かり、吉忠(よしただ)と名乗る[1]。宝永6年(1709年)に綱吉が没して実兄の家宣が将軍に就任すると、寄合衆に任じられた。この時に家宣と養父の偏諱と合わせて清宣(きよのぶ)に改名する[1]。

宝永4年(1707年)1月11日、2万4000石の館林藩主として大名に列する。その後、松平姓を名乗ることを許され、宝永6年(1709年)にも加増を受けた。正徳2年(1712年)には家宣の死去に際しての遺言で加増を受け、最終的には5万4000石の大名となった(諱を清武に改めたのもこの頃と推測される)。そして、館林城の築城などに努める。

しかし藩財政が困窮したため、その再建を目指して重税を強いた。このため、領民の不満が爆発して、百姓一揆と江戸藩邸への強訴が起こる(館林騒動)。これに対して、清武は百姓側の指導者を死罪に処したが、年貢減免を認めざるを得なくなった。

享保9年(1724年)9月16日、死去した。享年62(満60歳没)。嫡男の清方は早世していたため、尾張徳川家の連枝の高須藩松平家から養嗣子として迎えていた武雅が跡を継いだ。

清武の死により、家光の男系は完全に断絶した[2]。

第8代将軍になれなかった理由
第7代将軍徳川家継が危篤状態に陥った時、家宣の正室だった天英院は第8代将軍の候補として清武を推したという。清武が家継の叔父であり、血統的に最も近かったのが理由である。しかし清武は将軍にはふさわしくないとされる理由が主に2つあった。

家臣の越智喜清に育てられてその家督を継いでおり、また松平の苗字を許されて大名になったのが宝永4年(1707年)、44歳の時であり、経歴上問題があった。

・すでに54歳と高齢であった。

また、清武自身にも将軍職に対する野心は特になかったといわれる。これらの理由から天英院は清武を将軍にすることを諦め、紀州藩主徳川吉宗を推し、吉宗が第8代将軍に就任した。

略歴
※日付=旧暦
・延宝7年(1679年)5月 - 熊之助から平四郎に改める。後年、玄蕃また、民部と改める。

・延宝8年(1680年)5月28日 - 越智家300石の家督相続。

・元禄10年(1697年)11月 - 叔父である将軍徳川綱吉に初めて御目見する。

・元禄15年(1702年)12月18日 - 従五位下下総守に叙任。

・宝永元年(1704年)12月 - 寄合衆に列し、2000石を賜う。

・宝永2年(1705年)2月7日 - 2000石を加増。計4000石となり、領地は相模国高座郡、鎌倉郡、武蔵国埼玉郡内。

・宝永3年(1706年)1月19日 - 1万石を加増。領地は、常陸国真壁、下総国相馬郡、豊田郡、武蔵国埼玉郡、相模国鎌倉郡・高座郡・愛甲郡の内に及ぶ。

・宝永4年(1707年)
 ・1月11日 - 松平の苗字を称することを許され、上野国邑楽郡内に1万石を加増され、上野国館林2万4000石の藩主となる。また、出羽守に遷任。
 ・12月23日 - 従四位下に昇叙。出羽守如元。
 ・この年、館林歴代城主の盛衰について『館林盛衰記』に著す。

・宝永6年(1709年)
 ・12月 - 下野国内に1万石加増。
 ・12月18日 - 侍従兼任。

・正徳2年(1712年)
 ・2月16日 - 兵部大輔に転任。侍従如元。
 ・12月 - 越後国内に2万石加増。計5万4000石となる。

・正徳3年(1713年)12月19日 - 右近衛将監に遷任。侍従如元。

脚注
1. a b c 『講談社 日本人名大辞典』には、(別名ではなく)初名として順に「吉忠」→「清宣」と名乗っていたとする記述がみられる(こちらも参照)。
2. 「清武の死によって秀忠の血筋が絶えた」と表す文献もあるが、秀忠の庶子で家光の異母弟にあたる保科正之の系統(会津松平家)によって秀忠の男系は清武没後も江戸時代後期まで存続した。また、女系も含めれば「秀忠の血筋」そのものは現在まで絶えていない。
(wikiより)


関連情報
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5080 松平武雅墓(荒川区東日暮里5-41-14・善性寺)


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5081 松平武元墓(荒川区東日暮里5-41-14・善性寺)


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5082 松平斉厚墓(荒川区東日暮里5-41-14・善性寺)


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5083 松平武寛墓(荒川区東日暮里5-41-14・善性寺)


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5084 松平武成墓(荒川区東日暮里5-41-14・善性寺)


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