酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

578 長崎屋跡(中央区・日本橋室町)

JR新日本橋出口にある長崎屋跡です。


江戸時代、ここは長崎屋という薬種屋があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸登城、将軍拝謁の際の定宿になりました。


将軍拝謁は諸外国のうち、鎖国政策のため外国貿易を独占していたオランダが、幕府に謝意を表するために献上品を携えて行った行事でした。


江戸出府は江戸初期から毎年一回行われましたが、長崎からの随行の人々は、商館長の他、通訳、学者などが賑やかに行列して江戸に来ました。


しかし、経費のことなどで、江戸中期からは四年に一回となっています。


随行したオランダ人の中には、ケンペルやツンベルク、シーボルトなどの医師がいたため、蘭学に興味を持つ青木昆陽、杉田玄白、中川淳庵、桂川甫周、平賀源内をはじめとした日本人蘭学者、医師などが訪問し、江戸における外国文化の交流の場として、あるいは、先進的な外国の知識を吸収していた場として有名になりました。


鎖国下における数少ない西洋文明との交流の場として貴重であり、区民史跡に登録されています。
(案内板より)


● 長崎屋源右衛門
長崎屋源右衛門(ながさきやげんえもん)とは江戸時代江戸日本橋に存在した薬種問屋長崎屋の店主が代々襲名した名前である。


概要
この商家は、日本橋本石町三丁目(のちの東京都中央区日本橋室町四丁目2番地に相当)の角地に店を構えていた。


業務
薬種商として
江戸幕府御用達の薬種問屋であった。幕府はこの商家を唐人参座に指定し、江戸での唐人参(長崎経由で日本に入ってくる薬用人参)販売を独占させた。また、明和年間から「和製龍脳売払取次所」の業務も行うようになった。


旅宿として

この商家は、オランダ商館長(カピタン)が定期的に江戸へ参府する際の定宿となっていた。カピタンは館医や通詞などと共にこの商家へ滞在し、多くの人々が彼らとの面会を求めて来訪した。この商家は「江戸の出島」と呼ばれ、鎖国政策下の日本において、西洋文明との数少ない交流の場の1つとなっていた。身分は町人であるため江戸の町奉行の支配を受けたが、長崎会所からの役料を支給されており、長崎奉行の監督下にもあった。


カピタン一行の滞在中にこの商家を訪れた人物には、平賀源内前野良沢杉田玄白中川淳庵最上徳内高橋景保などがいる。学者や文化人が知識と交流を求めて訪れるだけにとどまらず、多くの庶民が野次馬となってオランダ人を一目見ようとこの商家に群がることもあり、その様子を脚色して描いた葛飾北斎の絵が残されている(#外部リンクを参照のこと)。


幕府は滞在中のオランダ商館員たちに対し、外部の人間との面会を原則として禁じていたが、これはあくまでも建前であり、時期によっては大勢の訪問客と会うことができた。商館員たちはあまりの来訪者の多さに悩まされもしたが、行動が大きく制限されていた彼らにとって、この商家は外部の人間と接触できる貴重な場の1つであった。商館の一員としてこの商家に滞在し、積極的に日本の知識を吸収していった人物には、エンゲルベルト・ケンペルカール・ツンベルクフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトらがいる。


カピタンの江戸参府は年1回行われるのが通例であったが、寛政2年(1790年)以降は4-5年に1回となり、参府の無い年にはカピタンの代わりに通詞が出府した。この商家はカピタン参府と通詞出府の際の定宿として使われていたが、それ以外には全く宿泊客を受け入れていなかった。


旅宿として使われた建物には、一部に西洋風の内装、調度品が採り入れられていた。1946年(昭和21年)に運輸省が発行した『日本ホテル略史』は、この商家についての記述から始まっている。


その他の業務
安政5年(1858年)10月、「蕃書売捌所(ばんしょうりさばきしょ)」を命ぜられ、長崎からの輸入蘭書の販売を行う。また町年寄樽屋藤左衛門の記録によれば、同年より「西洋銃」の「入札払」いもしていた。


沿革

長崎出身の江原源右衛門が、徳川家康の時代に江戸へ移り、初代長崎屋源右衛門となった。初代の頃から幕府御用達の薬種問屋であったが、享保20年(1735年)3月6日には幕府がこの商家に唐人参座を置き、幕末まで江戸での唐人参専売を行った。


カピタン一行の定宿となったのは17世紀前半、初代が逝去した後のことである。以後、嘉永3年(1850年)まで定宿として使われていた(安政5年、1858年に駐日オランダ領事官が江戸へ来た際には、この商家を宿としていない)。


江戸時代、日本橋一帯は幾度も大火に見舞われた。この商家もたびたび焼失し、カピタン一行が被災することも一度ならずあったが、焼失の都度オランダ商館からの援助を受け再建している。


万延2年(1861年)、第11代長崎屋源右衛門は本石町から転出した。2006年(平成18年)現在、この商家の跡地にはビルが建っており遺構は無いが、中央区から区民史跡として登録されており、新日本橋駅4番出口の脇に文化財としての説明が書かれたプレートが掲げられている。


参考文献

・坂内誠一『江戸のオランダ人定宿 長崎屋物語』(流通経済大学出版会、1998年) ISBN 4-947553-06-5

・片桐一男『それでも江戸は鎖国だったのか オランダ宿日本橋長崎屋』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2008年) ISBN 978-4-642-05662-5

・片桐一男『江戸のオランダ人 カピタンの江戸参府』 (中公新書ISBN 4-12-101525-8


関連項目
出島


外部リンク
葛飾北斎 日本橋本石町長崎屋」早稲田大学図書館
長崎屋跡 - 中央区観光協会
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/8.html
6 観臓記念碑(南千住・小塚原回向院)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/25.html
22 平賀源内墓(台東区橋場2-22-2)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2949.html

2663 高橋景保墓(台東区東上野6-19-2・源空寺)










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577 森孫右衛門供養塔(中央区築地3・築地本願寺)

この供養塔は文久元年 ( 1861 ) 森孫右衛門の二百年忌に、子孫の森幸右衛門勝鎮と親族の佃宇右衛門寛敏の両名により建てられています。


森孫右衛門は江戸時代以来、隅田川河口に佃島を築き、日本橋魚河岸のもととなる店を開いた人物とも伝えられています。


供養塔の右側面の銘文には、森孫右衛門は攝津 ( せっつ ) 国 ( 現・大阪府 ) 佃村の人で、二代将軍・徳川秀忠の時、漁猟の許可状及び三十三人の漁師の漁業権を拝領したことなど、佃島の漁師と徳川家との関わりが書かれています。


また左側面には、寛永年間 ( 1624 ~ 44 ) に百歩四方の土地を賜り、島を築き、正保元年 ( 1644 ) 二月に築成し、佃島と名付け、豊島郡に属した佃島の成り立ちや代々、佃島の名主を務めたことなどが刻まれています。


これらは佃島の造営を語り伝える貴重な資料といえます。
(案内板より)


● 森孫右衛門
生年: 永禄 12 ( 1569 )
没年: 寛文 12 ( 1672 )


江戸前期、江戸日本橋魚市場の祖形をつくったとされる


摂州西成郡佃村 ( 大阪市 ) の漁民。


伝承多く考証未詳につき、いまは父子 2人説に従う。


父の孫右衛門 ( 初め見一姓 ) は天正、年中 ( 1573 ~ 92 ) に徳川家康の知遇をえて森姓を与えられ同 18年一族と共に江戸に入り、白魚漁に着手。


天正 18年江戸日本橋魚河岸創設説は、この事績を指したもの。


その後慶長 8年 ( 1603 ) までに次男九左衛門ら 7名を江戸に移住させ、白魚漁のかたわら道三堀に魚問屋を開業させる。


九左衛門らは、慶長 12年までに本小田原町に進出し、ここに日本橋魚河岸が成る。


森一族は、こののち旧来手法を墨守して問屋業は先細りとなるが、元和 2年 ( 1616 ) 年ごろ本小田原町に魚問屋を興した大和桜井出身の大和屋助五郎は森一族と対抗しながら、駿州各浦に鮮魚の仕込金をもって敷浦 ( 浜方〈 浦方 〉への敷金〈 前貸金 〉にもとづく問屋の集荷専有権 ) を設け、産地独占的な魚河岸の流通機構を作出した。


<参考文献>
『東京都中央卸売市場史』上,中村勝『増補・改定 市場の語る日本の近代』


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/884.html
814 日本橋魚河岸跡(中央区日本橋室町一丁目・乙姫広場)


https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/7861.html

6829 森田家墓(谷中1-5-35・仏心寺)











576 斉藤鶴磯墓(豊島区巣鴨5-35-33・慈眼寺)

江戸時代後期の儒学者。地誌研究科。


宝暦二年 ( 1752 ) 水戸藩士の子として江戸に生まれた。


通称宇八郎、諱 ( いみな ) は敬夫、字は之休、鶴磯は号である。


寛政八、九年 ( 1796 ~ 7 ) から文化十三年 ( 1816 ) 頃までの約二十年間、江戸から離れて所沢に住み、鈴木牧之 ( ぼくし、秋月庵 ) の『北越雪譜 ( ほくえつせっぷ )』や赤松宗旦 ( そうたん、義和 ) の『利根川図誌』と並ぶ江戸時代の地誌『武蔵野話初編』を文化十二年 ( 1815 ) に寛政させた。


翌年筆渦事件により所沢を去って江戸に移った。


続編は門人の校訂によって文政十年に刊行された。


他の著作に『女考経捕注 ( おんなこうきょうほちゅう )』『干支考 ( かんしこう )』『琢玉斎漫筆 ( たくぎょくさいまんぴつ )』などがある。


文政十一年 ( 1828 ) 二月七日七十七歳で死去し、深川猿江町にあった慈眼寺に葬られたが、寺院の移転により改葬された。
(案内板より)










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