酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

酔いどれJohnnyで御座います

小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

577 森孫右衛門供養塔(中央区築地3・築地本願寺)

この供養塔は文久元年 ( 1861 ) 森孫右衛門の二百年忌に、子孫の森幸右衛門勝鎮と親族の佃宇右衛門寛敏の両名により建てられています。


森孫右衛門は江戸時代以来、隅田川河口に佃島を築き、日本橋魚河岸のもととなる店を開いた人物とも伝えられています。


供養塔の右側面の銘文には、森孫右衛門は攝津 ( せっつ ) 国 ( 現・大阪府 ) 佃村の人で、二代将軍・徳川秀忠の時、漁猟の許可状及び三十三人の漁師の漁業権を拝領したことなど、佃島の漁師と徳川家との関わりが書かれています。


また左側面には、寛永年間 ( 1624 ~ 44 ) に百歩四方の土地を賜り、島を築き、正保元年 ( 1644 ) 二月に築成し、佃島と名付け、豊島郡に属した佃島の成り立ちや代々、佃島の名主を務めたことなどが刻まれています。


これらは佃島の造営を語り伝える貴重な資料といえます。
(案内板より)


● 森孫右衛門
生年: 永禄 12 ( 1569 )
没年: 寛文 12 ( 1672 )


江戸前期、江戸日本橋魚市場の祖形をつくったとされる


摂州西成郡佃村 ( 大阪市 ) の漁民。


伝承多く考証未詳につき、いまは父子 2人説に従う。


父の孫右衛門 ( 初め見一姓 ) は天正、年中 ( 1573 ~ 92 ) に徳川家康の知遇をえて森姓を与えられ同 18年一族と共に江戸に入り、白魚漁に着手。


天正 18年江戸日本橋魚河岸創設説は、この事績を指したもの。


その後慶長 8年 ( 1603 ) までに次男九左衛門ら 7名を江戸に移住させ、白魚漁のかたわら道三堀に魚問屋を開業させる。


九左衛門らは、慶長 12年までに本小田原町に進出し、ここに日本橋魚河岸が成る。


森一族は、こののち旧来手法を墨守して問屋業は先細りとなるが、元和 2年 ( 1616 ) 年ごろ本小田原町に魚問屋を興した大和桜井出身の大和屋助五郎は森一族と対抗しながら、駿州各浦に鮮魚の仕込金をもって敷浦 ( 浜方〈 浦方 〉への敷金〈 前貸金 〉にもとづく問屋の集荷専有権 ) を設け、産地独占的な魚河岸の流通機構を作出した。


<参考文献>
『東京都中央卸売市場史』上,中村勝『増補・改定 市場の語る日本の近代』


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/884.html
814 日本橋魚河岸跡(中央区日本橋室町一丁目・乙姫広場)


https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/7861.html

6829 森田家墓(谷中1-5-35・仏心寺)











576 斉藤鶴磯墓(豊島区巣鴨5-35-33・慈眼寺)

江戸時代後期の儒学者。地誌研究科。


宝暦二年 ( 1752 ) 水戸藩士の子として江戸に生まれた。


通称宇八郎、諱 ( いみな ) は敬夫、字は之休、鶴磯は号である。


寛政八、九年 ( 1796 ~ 7 ) から文化十三年 ( 1816 ) 頃までの約二十年間、江戸から離れて所沢に住み、鈴木牧之 ( ぼくし、秋月庵 ) の『北越雪譜 ( ほくえつせっぷ )』や赤松宗旦 ( そうたん、義和 ) の『利根川図誌』と並ぶ江戸時代の地誌『武蔵野話初編』を文化十二年 ( 1815 ) に寛政させた。


翌年筆渦事件により所沢を去って江戸に移った。


続編は門人の校訂によって文政十年に刊行された。


他の著作に『女考経捕注 ( おんなこうきょうほちゅう )』『干支考 ( かんしこう )』『琢玉斎漫筆 ( たくぎょくさいまんぴつ )』などがある。


文政十一年 ( 1828 ) 二月七日七十七歳で死去し、深川猿江町にあった慈眼寺に葬られたが、寺院の移転により改葬された。
(案内板より)










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575 中田正廣之碑(荒川区南千住1-59-11・円通寺)

旧幕臣。


慶応 4年 3月に江戸を脱走。


4月 8日上総木更津で戦死。33歳。


明治 33年 4月に建立。書は榎本武揚。


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/118.html
115 円通寺 彰義隊士・旧幕府軍の墓(荒川区南千住1-59-11・円通寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/271.html
267 榎本武揚の像(墨田区堤通二丁目・梅若公園内)










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