酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

酔いどれJohnnyで御座います

小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

701 本間玄調墓(茨城県水戸市松本町13-34・常磐共有墓地)

本間 玄調(ほんま げんちょう、文化元年(1804年) - 明治5年2月8日1872年3月16日))は、幕末水戸藩医である。通称は資章、字は和卿、号は棗軒。のちに救。


生涯
常陸国小川村(現在の茨城県小美玉市)に生まれた。


父・本間玄有と祖父本間玄琢は稽医館の創始者で、養父道偉も医者であり、名医一族の中で育った。


17歳のとき、原南陽に入門し、その後、杉田立卿華岡青洲シーボルトなどに師事した。


漢洋折衷の学識と医術で稽医館の晩年を飾り、水戸弘道館医学館教授となってからは、講義・治療・著述などに活躍し、水戸藩医政の第一線を担った。


多くの人命を救ったことから徳川斉昭より救という名を賜った。


華岡青洲の門下としてはもっとも優れた外科医であったとされ、医術についての著作を残しているが、それにおいて青洲から教わった秘術を無断で公開したとして、破門されている。


関連項目
幕末の人物一覧
常磐共有墓地


参考文献
茨城新聞社編 『茨城県大百科事典』 茨城新聞社、1981年、954頁。
(wikiより)


 本間玄調









にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」押して応援して頂くと管理人の励みになります。

700 武市半平太・富墓(高知市仁井田3021)

武市 瑞山(たけち ずいざん)は、日本志士武士土佐藩郷士)。土佐勤王党の盟主。通称は半平太で、武市 半平太(たけち はんぺいた)と呼称されることも多い。幼名は鹿衛。は小楯(こたて)。は瑞山または茗澗。変名は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は雅号を吹山とした。


土佐藩郷士・武市正恒(白札格、51石)の長男。母は大井氏の娘。妻は土佐藩郷士・島村源次郎の長女・富子。子女はなし。坂本龍馬とは遠縁にあたる。


優れた剣術家であったが、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政・吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。京都江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導し、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が一変すると前藩主・山内容堂によって投獄される。1年8か月20日の獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。


生涯
剣術家
文政12年(1829年)9月27日土佐国吹井村(現在の高知県高知市仁井田)に生まれる。武市家は元々土地の豪農であったが、半平太より5代前の半右衛門が享保11年(1726年)に郷士に取り立てられ、文政5年(1822年)には白札格に昇格。白札郷士とは上士として認められたことを意味する。


天保12年(1841年)、一刀流・千頭伝四郎に入門して剣術を学ぶ[2]嘉永2年(1849年)、父母を相次いで亡くし、残された老祖母の扶養のために、半平太は同年12月に郷士・島村源次郎の長女・富子を妻としている[3]。翌嘉永3年(1850年)3月に高知城下に転居し、小野派一刀流(中西派)麻田直養(なおもと)の門で剣術を学び、間もなく初伝を授かり、嘉永5年(1852年)に中伝を受ける。


嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来航して世情が騒然とする中、半平太は藩より西国筋形勢視察の任を受けるが、待遇に不満があったのかこれを辞退している[4]。翌嘉永7年(1854年)に新町に道場を開き[5]、同年(安政元年)に麻田より皆伝を伝授される。


安政元年に土佐を襲った地震のために家屋を失ったが、翌・安政2年(1855年)に新築した自宅に妻の叔父にあたる槍術家・島村寿之助との協同経営の道場を開き、声望が高まっていた半平太の道場には120人の門弟が集まった[6]。 この道場の門下には中岡慎太郎岡田以蔵等もおり、後に結成される土佐勤王党の母体となる。同年秋に剣術の技量を見込まれて、藩庁の命により安芸郡香美郡での出張教授を行う[7]


安政3年(1856年)8月、藩の臨時御用として江戸での剣術修行が許され、岡田以蔵や五十嵐文吉らを伴って江戸へ出て鏡心明智流士学館桃井春蔵の道場)に入門。半平太の人物を見込んだ桃井は皆伝を授け、塾頭とした。塾頭となった半平太は乱れていた道場の風儀を正し、その気風を粛然となさしめた。同時期に坂本龍馬も江戸の桶町千葉道場北辰一刀流)で剣術修行を行っている。安政4年(1857年)8月、半平太と龍馬の親戚の山本琢磨が商人の時計を拾得売却する事件が起きた。事が藩に露見したため切腹沙汰になったが、半平太と龍馬が相談の上で山本を逃がしている[8][9]


これから程ない9月に老祖母の病状が悪化したので土佐に帰国した。安政5年(1858年)に一生二人扶持の加増を受け、剣術諸事世話方を命じられる[10]


安政6年(1859年)2月、一橋慶喜の将軍継嗣擁立を運動していた土佐藩主・山内豊信大老井伊直弼によって隠居させられ、同年10月には謹慎を命じられる。土佐藩士達はこの幕府の処置に憤慨したが、翌安政7年(1860年3月3日に井伊が暗殺され(桜田門外の変)、土佐藩士達は変を赤穂義士になぞらえて喝采し、尊王攘夷の機運が高まった[11][12]


同月、祖母が死去し、その喪が明けた7月に半平太は岡田以蔵や久松喜代馬島村外内を伴い武者修行の西国遊歴に出る。龍馬は「今日の時世に武者修行でもあるまい」と笑ったが[13]、その真意は西国諸藩の動静視察であった。一行は長州を経て九州に入って諸藩を巡り、途中、以蔵は家が貧しく国へ帰れば再び出ることは難しかろうと豊後国岡藩の堀道場に託して年末に帰国した[14]。この旅行で半平太は攘夷派志士の思想に大きな影響を与えた国学者・平田篤胤の『霊能真柱』を持ち帰っている[15]


詳しい事は『ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B8%82%E7%91%9E%E5%B1%B1
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/117.html
114 神田ニコライ堂(千代田区駿河台4-1-3)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/329.html
316 後藤象二郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/347.html
334 坂本龍馬墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/714.html
684 岡田以蔵墓(高知市薊野北町1-11周辺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/733.html
688 吉田東洋墓(高知市塩屋崎町2周辺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/746.html
699 武市半平太旧宅・瑞山神社(高知市仁井田3021)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/866.html
797 吉村虎太郎・天誅組墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/898.html
828 池内蔵太墓招魂碑(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/921.html
850 平井収二郎墓(高知市丹中山・歴史公園隣り)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/941.html
869 沢辺琢磨墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1009.html
937 坂本八平直足妻幸墓(高知市丹中山・歴史公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1037.html
958 島 浪間義親供養墓(高知市長浜660周辺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1117.html
1027 島本仲道墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1511.html
1396 安岡覚之助墓(会津若松市大町2・東明寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1797.html
1650 那須俊平墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1820.html
1669 宮地宣蔵墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2124.html
1941 河野敏鎌墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2383.html
2174 片岡孫五郎碑(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2416.html
2207 松尾甲之進墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2420.html
2211 所山五六郎墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3480.html
3232 勤王家・弘瀬健太邸址(高知市井口町183)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3481.html
3233 武市半平太邸・道場後(高知市桜井町1-2-32周辺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3491.html
3243 岡本寧浦先生塾舎址(高知市桜井町1-7)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3503.html
3255 平井収二郎先生誕生之地(高知市山手町)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3516.html
3268 武市瑞山先生寓居之跡(中京区木屋町通三条上る)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3577.html
3322 岡本寧浦墓(高知市薊野北町1-11周辺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3631.html
3373 土佐藩邸跡碑(京都市中京区木屋町通蛸薬師西南角)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4604.html

4191 吉田東洋先生記念(暗殺)之地(高知市追手筋2-1)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4605.html
4192 武市瑞山先生殉節之地(高知市帯屋町2-5-18・四国銀行前)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4816.html

4379 薩長土連合密議之處(萩市椿東1537)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/5279.html

4791 古澤南洋墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)


 武市半平太 


 左が富のお墓で、右が武市半平太のお墓です。


ここは武市家の家族の墓地となるので、回りには親族等の墓が沢山有ります。



武市半平太のお墓です 


武市富のお墓です 










サタデー・ナイト・フィーバー

ディスコ映画の金字塔的なのが、『 Saturday Night Fever 』ですね。


この当時ディスコでは "ステップ全盛期" で踊っていました。


"Stayin' Alive" を歌う「 Bee Gees 」もともとディスコバンドではなくて、マサチューセッツやメロディ・フェア等々を歌う『ボーカルバンド』でした。


また一番下の弟「アンディ・ギブ」は、シャドー・ダンシングで大ブレイクしましたが1988年3月、30歳の若さで亡くなりました。


シャドー・ダンシング  アンディ・ギブ


● サタデー・ナイト・フィーバー

レコードジャケット画像。



サタデー・ナイト・フィーバー』(: Saturday Night Fever)は1977年製作のアメリカ映画である。監督はジョン・バダム。俳優ジョン・トラボルタの出世作である。


概要
ニック・コーン英語版)の1976年の原作"Tribal Rites of the New Saturday Night"(邦題「新しい土曜の夜の部族儀式[2])」の映画化。


1970年代のアメリカ社会を背景に、「行き場のない青春のエネルギー」をディスコで踊ることで晴らす惰性の生活を送っていたジョン・トラボルタ演ずる青年トニーが、ディスコで出会った女性ステファニーの生き方に心を開かれ、新しい生活へ目覚めて大人へ脱皮していくさまを描く。週末ごとに行くディスコが主な舞台の映画。


ニューヨークの、ブルックリン橋をへだてただけの、庶民的な町であるブルックリンと、華やかな都会的な町マンハッタンとが対比して描かれており、単なる娯楽映画ではなく当時のアメリカの格差社会を風刺した映画でもある。


この映画の「トラボルタ」の風貌や決めポーズ、映画に使われたディスコ・ミュージックが世界的に人気になり、ディスコ文化を取り巻くファッションやサブカルチャーといった世界の若者文化に大きな影響を与えた。映画のサウンドトラックサタデー・ナイト・フィーバー」は驚異的な売上を記録し、なかでも作中でBillboard Hot 100 1位6曲を含む7曲を提供したビージーズはその人気を不動のものにした。


日本ではこの映画の影響でディスコ・ダンスで踊り、熱狂することを指す「フィーバーする」という言葉(和製英語)が生まれた。転じてパチンコでの大当たりのシステムでも「フィーバー」という言葉が使われるようになった。


ちなみにトニーが踊ったフロアは、そのクラブの閉店に伴いオークションにかけられている[3]


ストーリー
ブルックリンのペンキ屋で働くトニーは、変わりばえのない毎日の生活にうんざりしていた。彼の生き甲斐は土曜日の夜(サタデーナイト)にディスコで踊り明かすことだけ。ある日、ディスコで年上の女性ステファニーに出会う。同じブルックリンで生まれながらもインテリで自立し、将来設計を持つマンハッタンのステファニーに影響されたトニーは、自分の生き方を考え直すようになる。やがてステファニーとの生活を夢見て、ディスコで行なわれる賞金付きダンスコンテストへの出場を決意する。


豆知識

・トニーの部屋に映画「ロッキー」のポスターが貼ってあるシーンがあるが、6年後、そのロッキーで主演したシルベスタ・スタローンの監督、脚本でサタデー・ナイト・フィーバーの続編である「ステイン・アライブ」が撮られている。また、女の子からアル・パチーノに似ていると言われ、トニーが「アル・パチーノ!アル・パチーノ!」と連呼して喜ぶシーンがあるが、2013年公開予定の映画「Gotti: Three Generations」で共演している。


・DVD特典映像の「削除されたシーン」では、以下のカットされた3シーンを見ることが出来る。

 ・トニーがステファニーを車で家まで送るシーン。車の中でのkissシーンがありトニーはステファニーと関係を持とうとするが拒絶される。これがのちに、コンテスト後車の中でステファニーに迫ろうとして「いつまで待てばいいんだ」の台詞に結びつく。


 ・トニーがステファニーの部屋を訪れるが入室を拒まれるシーン。


 ・トニーの父親が会社から再雇用の電報を受け取るシーン。喜ぶ父母に対し、トニーは「食事代は家に入れないからな」と言う。


詳しい事は『サタデー・ナイト・フィーバーウィキペディア』を御覧下さいませ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%BF%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC

(wikiより)


Bee Gees - Stayin' Alive (Saturday Night Fever)









にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」押して応援して頂くと管理人の励みになります。