酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

酔いどれJohnnyで御座います

小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

1596 土手の道哲墓(豊島区西巣鴨4-8-42・西方寺)

「五十両の金を懐へ入れて外へ飛び出したが、闇の夜は吉原ばかり月夜かな、大門をそこそこに、見返り柳を後にみて土手へ掛かる。道哲を右に見て、待乳山、聖天の森を左に見て、山の宿から花川戸、ふと振り返ると吾妻橋。おひさ、辛抱してくれ、よう・・・」


落語「文七元結」の一節です、左官屋の長兵衛が吉原から吾妻橋へと辿る道筋で、見返り柳の次に出てくる「道哲」というのは「西方寺」のことです。


小塚原 ( 現南千住 ) の刑場に引かれていく囚人を日本堤の土手で念仏を唱えながら見送っていた和尚が「道哲」で、道哲の開基した寺を「西方寺」といったため、西方寺そのものを「土手の道哲」と呼んでいたのです。


浄土宗西方寺の草創年代は不明。


境内は浅草寺領年貢地と遍照院からの借地からなる。


本尊阿弥陀如来は汗拭の弥陀、汗かきの弥陀とよばれ、開基道哲の念持仏と伝える。


寺は日本堤南東端に位置することから土手の道哲とも俗称された。


吉原三浦屋の傾城二代目高尾 ( 万治三年没 ) の墓、その 150回忌に建てられた高尾塚があった。


高尾の墓には目印に紅葉が植えられ、高尾が紅葉とよばれた ( 江戸砂子 ) 昭和 2年 ( 1927 ) 現豊島区巣鴨に移転。


寺が巣鴨に移されるとき、道哲の墓を掘ってみると墓穴から二つの骨壷が発見された。


一つは道哲道心、一つは二代目万治高尾という太夫の遺骨であることが判明した。


そのとき高尾の遺骨と一緒に出てきたのが高尾が一刻も肌から離さなかった、小指よりも小さい襟かけ地蔵と、常用していた銅鏡でした、このいずれもが寺の宝になっているそうです。


道哲は人情に厚く、ことに遊女が死んだあとで三ノ輪の浄閑寺などに投げ込まれることを哀れみ、ねんごろに埋葬してやったという。


高尾は道哲の人情の厚きに感激し、その果ては恋に落ち入ったと伝えられています。


西方寺は道哲の遺志を継いで、遊女の死骸を引き受けていたが、だんだん扱いがぞんざいになって犬猫同様に穴の中に投げ込まれた。


しかも、過去帳には「〇〇売女」と記載され、その葬式代は一朱 ( 約 19,000円 ) で済ませたと言います。


情死をした遊女の死骸は、真っ裸にされて菰をかけたまま何日か晒したのち、足蹴りにするようにして墓に投げ込まれたと言います、見せしめの意味もあったのでしょうが、華やかな江戸の吉原遊郭の裏側は悲惨なものだったんです。


毎年 7月 7日に吉原遊郭の営業者は、山谷堀入り口の竹屋の渡しで、道哲、高尾の供養の為の施餓鬼を催していたそうです。


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/135.html
132 万治高尾墓(豊島区巣鴨4-8-42・西方寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/282.html
269 竹屋の渡し(台東区・隅田公園内)


 道哲の墓だと言われています。









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1595 石川久徴墓(茨城県水戸市松本町13-34・常磐共有墓地)

石川 久徴

(いしかわ - ひさもと)


彰考館館員 ・ 国学者


宝暦 6年 ( 1756 ) 5月 13日 ~ 天保 8年 ( 1837 ) 7月 6日 82歳没


常陸水戸 茨城県水戸市 常磐共有墓地


〔称〕久次衛門 〔字〕伯誠 〔号〕桃蹊斎・箕水


国学者。常陸国水戸藩士石川久富の子として生まれる。


幼にして強記をもって知られ、天明 5年に小普請組となる。


譜牒の学に通じ、同 7年から彰考館雇となって、『源流綜貫』『水府系纂』などの補入に従事した。


その後、寛政元年、同館物書、文化 5年、右筆を歴任し、文政 7年、彰考館勤務のままで新番組 ( のち馬廻組 ) に列した。


文政 10年、『東藩文献志』編修のため、江戸藩邸に召しだされ、青山延于らを助けた。


天保元年に水戸に戻った。
( 参照:国学者伝記集成. 続編、 国書人名辞典. 第 1巻 )


年譜
・宝暦 6 ( 1756 ) 常陸国水戸藩士石川久富の子として生まれる。


・天明 5 ( 1785 ) 小普請組にすすむ。

・天明 7 ( 1787 ) 彰考館雇となり、『源流綜貫』『水府系纂』などの補入に従事。

・寛政元 ( 1789 ) 彰考館物書。

・文化 5 ( 1808 ) 右筆。

・文政 10 ( 1827 ) 『東藩文献志』の編纂に従事。


出典 ( 事典・伝記 )

・水戸学辞典 / 高須芳次郎. -- 水戸学大系刊行会(井田書店内), 1940-1942(水戸学大系)(15) 日本人名大事典. 第1巻. -- 平凡社, 1979
・国史大辞典. 第1巻 / 国史大辞典編集委員会. -- 吉川弘文館, 1979
・水戸文献志 / 立林宮太郎. --新興亜社, 1943










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1594 川路正之進利良旧居跡(台東区下谷3-15-9・下谷警察署)

従三位   勲二等
大警視 兼 陸軍少将


川路正之進利良


    号 竜泉

隅州横川城主・北原伊勢守の弟、川路杢左衛門の末裔にして天保五年五月十一日鹿児島に出生す


幼少より漢学を修め長じては真影流の奥義を極めて島津藩兵器奉行となる


明治のはじめ竜泉寺町より此の地に及ぶ広大な邸宅を構える


面積約一万五千坪にして池沼あり鴨猟など催されたる由爾来子孫益々栄え昭和三十一年まで此の地に連綿たり


明治五年九月八日警察制度研究のため欧州へ出張


翌年九月六日帰朝し近代的警察制度創設建議書を政府に提出


明治七年一月十五日警視庁創設により其の長に任命され大警視となる 即ち 初代警視総監なり


明治十年二月西南の役勃発に伴い三月十九日陸軍少将を兼任し征討別働第三旅団司令長官となる


旅団即ち警視庁警視庁隊にして総員九千五百名 九州各県下並びに京都大阪神戸等主要都市を警備す特に田原坂における警視庁抜刀隊の奮戦は西南の役終結への転機となる


明治十年七月八日軍務を終えた大警視は陛下からの拝領の馬車にて登庁し警察の運営並びに制度の研究に専念す


明治十二年二月再び警察制度研究に欧州へ出張したるも 病に倒れ十月八日帰朝 十月十三日逝去さる


享年四十六歳 青山霊園に眠る


茲に署員一同謹みて警察の父川路大警視の遺徳を偲び


其の縁りを誇りとして永く伝え以て職責の完遂を誓うと


共に大警視家の弥栄を祈念して此の碑を建立する


  昭和五十五年五月吉日

  警視庁下谷警察署

  署長 長野 弘 謹書

(石碑文より)


関連情報

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1640.html

1511 川路利良墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2445.html
2230 篠原秀太郎墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)


 旧下谷警察署










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