酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

728 坂本八平直足墓(高知市丹中山・歴史公園)

龍馬父


八平直足 ( 山本覚右衛門次男 )


安政二年 十二月 四日没 五十九才
(案内板より)


"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"


坂本 直足(さかもと なおたり、寛政9年(1797年) - 安政2年12月4日1856年1月11日))は、江戸時代末期の武士土佐藩郷士)。坂本家第3代当主。通称・常八郎、のち長兵衛。隠居後に八平(はちへい)と称したため坂本八平の呼称でも知られる。坂本龍馬の父


略歴
寛政9年(1797年)、土佐郡・潮江村の白札郷士、山本家当主・山本信固の次男として生まれた。幼少期からに秀で、後年は免許皆伝の腕前を誇った。16歳を数えた頃、郷士坂本家の婿養子として入籍。坂本直澄の娘・坂本幸の夫となって、第3代目の郷士坂本家当主となった。


ほどなく長男の直方が誕生。このとき直足18歳といわれる。その後、龍馬に至るまで二男三女が誕生した。


人物
弓や槍などの武芸に優れていたといわれるが、書や和歌、学問にも精通し「人となり純直、躯幹長大、弓・槍術をよくし、能書にて和歌に長ぜり」と評された。また、城下においても富を築き、「城下公方」と呼ばれるほどの経営手腕を見せた。龍馬に対しては、幼少期から厳しかったといわれ、幸の亡き後、気弱な龍馬に対して憂いたという。


後年、龍馬が江戸に剣術留学のため出立するさいには、忠孝を忘れることなく修行に励み、金銭を費やさない、色情に心を移し国家の大事を疎かにすることのないように、という意味からなる三箇条をうたった『修行中心得大意』を送った。


家族

先妻。坂本直澄の娘。


北代 伊予(きただい いよ、文化元年(1804年) - 慶応元年10月21日1865年12月8日))
後妻。北代重治の娘、母は中居勘平の娘・寿加。
当初は山内容堂の屋敷で奥女中たちに薙刀などを教えていた。直足に嫁ぐ前に一度結婚するも夫と死別し、二度目の夫・川島貞次郎との間に一子・弥太郎を儲けるもこれとも死別している。容姿端麗であったと伝わる。


権平直方
長男。


龍馬直柔(坂本龍馬)
次男。


千鶴(ちづ、文化14年(1817年) - 文久元年12月25日1862年1月24日))
長女。母は幸。土佐藩郷士・高松順蔵の妻。天保頃に高松順蔵に嫁いだという。子の太郎は弟の龍馬の嗣子となっている。


栄(えい、生没年不詳)
次女。母は幸。土佐藩士・柴田作左衛門の妻。後に夫と離縁され、最期は自害したという。


乙女
三女。母は幸。


親族

沢辺琢磨(天保5年1月5日(1834年2月13日) - 大正2年(1913年6月25日))
甥。父は兄の山本代七。元剣術師範代・宮司で、日本ハリストス正教会初の正教徒・日本人司祭。


作品
竜馬がゆく』(1968年NHK大河ドラマ 演:北竜二
竜馬がゆく』(1997年TBSテレビ 演:西岡徳馬
竜馬がゆく』(2004年テレビ東京 演:橋爪功
龍馬伝』(2010年、NHK大河ドラマ 演:児玉清
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/117.html
114 神田ニコライ堂(千代田区駿河台4-1-3)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/347.html
334 坂本龍馬墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/720.html
683 坂本栄墓(高知市丹中山・歴史公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1009.html
937 坂本八平直足妻幸墓(高知市丹中山・歴史公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1951.html
1782 坂本権平直方墓(高知市丹中山・歴史公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1952.html
1783 坂本八平直足後妻・伊与墓(高知市丹中山・歴史公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1953.html
1784 坂本権平直方妻墓(高知市丹中山・歴史公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1954.html
1785 坂本権平養子直寛妻・鶴井墓(高知市丹中山・歴史公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1955.html
1787 坂本権平直方後妻墓(高知市丹中山・歴史公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1956.html
1788 坂本権平直方後妻墓(高知市丹中山・歴史公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1957.html
1789 坂本栄墓(高知市丹中山・歴史公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1958.html
1790 坂本乙女墓(高知市丹中山・歴史公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1959.html
1791 坂本八蔵真澄妻墓(高知市丹中山・歴史公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1960.html
1792 坂本権平倅・冨太郎(高知市丹中山・歴史公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1961.html
1793 坂本八平直海墓(高知市丹中山・歴史公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1962.html
1794 坂本八平直海妻墓(高知市丹中山・歴史公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1963.html
1795 坂本八平直海娘(高知市丹中山・歴史公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1964.html
1796 坂本八蔵直澄墓(高知市丹中山・歴史公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1965.html
1797 坂本直寛後妻・翠墓(高知市丹中山・歴史公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1966.html
1798 坂本直墓(高知市丹中山・歴史公園)




坂本龍馬関連 『 前田 秀徳 』様 ( 三五館 )  
http://www.sangokan.com/ryoma/ryoma001.html










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727 土田恕庵墓(台東区谷中3-10-22・宗林寺)

土田恕庵  (つちだじょあん )/土田蒙斎 ( つちだもうさい ) 明和 2年 ~ 天保 8年 2月 17日 ( 1765 - 1837 )


水戸藩侍医。名、敬文。字、子顕。号、恕庵・蒙斎。


武蔵秩父郡野上村出身。本姓、飯島。土田秋庵の養子。


享和元年 ( 1801 ) 水戸藩に出仕、藩医官。


享和 2年 ( 1802 ) 侍医。


文政 7年 ( 1824 ) 8年と加増。


著書:「舌胎図説」、「麻疹証治要方」。73歳。










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726 高橋泥舟墓(台東区谷中・大雄寺)

高橋 泥舟(たかはし でいしゅう、天保6年2月17日1835年3月15日) - 明治36年(1903年2月13日)は、日本の武士幕臣


生涯
江戸において、旗本山岡正業の次男として生まれる。幼名を謙三郎。後に精一郎。通称:精一。は政晃。を忍歳といい、泥舟は後年の号である。
母方を継いで高橋包承の養子となる。
生家の山岡家は槍の自得院流(忍心流)の名家で、精妙を謳われた長兄・山岡静山に就いて槍を修行、海内無双、神業に達したとの評を得るまでになる。
生家の男子がみな他家へ出た後で静山が27歳で早世、山岡家に残る英子の婿養子に迎えた門人の小野鉄太郎が後の山岡鉄舟で、泥舟の義弟にあたる。
安政3年(1856年) 講武所槍術教授方出役
万延元年(1860年) 槍術師範
文久2年(1862年新徴組結成。取締責任者
文久3年(1863年) 一橋慶喜(徳川慶喜)に随行して上京。従五位下伊勢守を叙任
慶応2年(1866年) 新設の遊撃隊頭取。槍術教授頭取を兼任
・慶応4年(1868年幕府鳥羽・伏見の戦い敗戦後、帰京した徳川慶喜に恭順を説く
 ・2月12日3月5日) 江戸城から上野東叡山に退去する慶喜を護衛
 ・4月11日5月3日) 江戸城開城水戸へ下る慶喜を護衛


勝海舟が、徳川家処分の交渉のため官軍西郷隆盛への使者としてまず選んだのは、その誠実剛毅な人格を見込んで泥舟であった。しかし泥舟は慶喜から親身に頼られる存在で、江戸の不安な情勢のもと、主君の側を離れることができなかった。代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦、鉄舟が見事にこの大役を果たした。


後に徳川家が江戸から静岡に移住するのに従い、地方奉行などを務め、一時田中城を預かる。廃藩置県後は職を辞して東京に隠棲、書画骨董鑑定などで後半生を送った。
明治36年(1903年2月13日牛込矢来町の自宅で没す。享年69。墓は東京都台東区谷中六の大雄寺にある。


人物評
山岡鉄舟が亡くなったとき山岡家に借金が残り、その返済を義兄の泥舟が工面することとなったが、自分にも大金があるはずがなく、金貸しに借用を頼むとき「この顔が担保でござる」と堂々と言い、相手も「高橋様なら決して人を欺くことなどないでしょう」と顔一つの担保を信用して引き受けた等々、その人柄を示すような逸話が多く残っている。


勝海舟、山岡鉄舟と並んで「幕末の三舟」と呼ばれているが、勝は後年「あれは大馬鹿だよ。物凄い修行を積んで槍一つで伊勢守になった男さ。あんな馬鹿は最近見かけないね」と泥舟を評している。槍一筋、節義一筋に生きた泥舟の生き方を勝流に賞賛した言葉であろう。


関連項目
幕末の人物一覧
榊原鍵吉 - 同じく剣客で著名
人間禅


関連文献
松本健一 『幕末の三舟 海舟・鉄舟・泥舟の生きかた』(講談社選書メチエ平成8年(1996年))
・『泥舟遺稿 伝記・高橋泥舟』(安部正人編、復刻大空社[伝記叢書]、平成9年(1997年))
頭山満 『幕末三舟伝』(島津書房/国書刊行会、平成19年(2007年))
子母澤寛 『逃げ水』(新版・中公文庫上下)
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/120.html
117 山岡鉄舟墓(台東区谷中・全生庵)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1262.html
1168 初代・三遊亭圓朝住居跡(墨田区亀沢3-20)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4125.html

3793 山岡鉄舟旧居跡(墨田区亀沢4-11-15・堅川中学校内)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/5743.html
5215 川合清丸墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6895.html

5946 山岡鉄舟像(岐阜県高山市八軒町1丁目)