酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

酔いどれJohnnyで御座います

小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

スージー・クアトロ

スージー・クアトロも、14歳の時にTV番組で見ました。


レザージャンプスーツを着てベースギターを弾いているのが、かっこイイなんて思っていました。


● スージー・クアトロ




スージー・クアトロSuzi Quatro, 1950年6月3日 - )は、アメリカ合衆国のロック・ミュージシャンベーシストDJ俳優。女性ロッカーの先駆者[1]


プロフィール
スーザン・ケイ・クアトロッチオ(Susan Kay Quatrocchio)としてミシガン州デトロイトで、バンドリーダーの娘として生まれる。父親アート・クアトロッチオはイタリア系であり、母親のヘレン・レベルはハンガリー系であった。


1965年、スージー・ソウルの芸名で、姉パティらと女性のみのバンド、ザ・プレジャー・シーカーズ(The Pleasure Seekers)を結成し(後にアーリーン、ナンシーの二人の姉も加わる)、デトロイトを拠点に、MC5ジェファーソン・エアプレインなどと[2]アメリカ各地をツアー。1969年にクレイドル(Cradle)とバンド名を変えベトナムツアーなども行った[2]。1970年6月にデトロイトで歌っている際、ジェフ・ベックのモータウン・スタジオでのレコーディングのために同地に来ていた音楽プロデューサーのミッキー・モストによって高い評価を受け、1971年末、ミッキーを頼って渡英する。
72年7月、ミッキー自身のレーベルRAKレコードからソロ名義のファースト・シングル「Rolling Stone」を発表。フォークソング調の曲で、ポルトガルではチャート1位となるものも[3]、他国ではさほど売れなかった。


73年に入ってからハードロック路線へのイメージチェンジのためソングライティングチームにニッキー・チンとマイク・チャップマンを迎え、芸名もSuzie QuatroからSuzi Quatroに変わった。セカンドシングルの「キャン・ザ・キャン」はイギリスを含むヨーロッパ及びオーストラリアでナンバーワン・ヒットを記録する[4]。続いてリリースされた、「48クラッシュ」(1973、UKチャート3位)、「デイトナ・デモン」(1973、UKチャート14位)も大ヒットし、この年のイギリスのBest Selling Artist/Female/Singleの第1位となった。


74年にも「悪魔とドライブ」(UKチャート1位)[4]、「トゥ・ビッグ」(UKチャート14位)、「ワイルド・ワン」(UKチャート7位)が英国で大ヒットした。彼女のファースト及びセカンド・アルバムはヨーロッパとオーストラリアで大成功を収めた。日本でも70年代の終わりまで大変な人気があり、74年から78年まで5年連続で来日し[2]、77年には大都市だけではなく中都市も回る大規模な日本ツアーを成功させ、日本でのライブアルバムも発表している。


しかしながら母国のアメリカにおいては、1970年代中頃にアリス・クーパーと共にツアーを行うなどの努力をしたにもかかわらず、それほどヒットしなかった。1975年以降彼女のヘビーで妖しい魅力を伴ったスタイルは受け入れられなくなっていき、人気は1978年まで好転しなかった。78年に「If You Can't Give Me Love(邦題・涙のヤング・ラヴ)」がリリースされると、同作はイギリスとオーストラリアでトップ10ヒットを記録する[4]。アメリカでは引き続いて成功はしなかったが、1979年にスモーキー(en:Smokie (band))のクリス・ノーマンと共に「Stumblin' In(邦題・メロウな二人)」をRSOレコードからリリースすると、同作は4位とアメリカで初の大ヒットを記録することとなる。この成功は短期間のものであった。彼女の最後の(オーストラリアでのみの)ヒットは1981年前半にリリースされた「Rock Hard」であった。


1987年には日本のロックバンドBOØWYのシングル曲「Marionette」のB面曲として「THE WILD ONE」を、BOOWYのボーカリスト氷室京介とデュエットしたバージョンを発表。しかし、同時にレコーディングした訳ではなく、日本で録音したオケをイギリスに送りスージーに歌わせ、その後日本に送り返しミキシングすると言う手法で作られた。


2006年2月、アルバム『Back To The Drive』をスウィートのギタリスト、アンディー・スコットのプロデュースでリリースした。アルバムのタイトル・トラックはマイク・チャップマンによって書かれたものである。2009年、BBCの"Queens of British Pop"において12人の内のひとりに選ばれた[5]


現在イギリスドイツで暮らし、BBCラジオ2で毎週ロック・プログラムのDJを務める。さらにミュージシャンとしてのツアーも継続している。


私生活
1978年に長年バック・ギタリストを務めていたレン・タッキーと結婚し、二人の子供(ローラ(1982年生)およびリチャード・レナード(1984年生))がいたが、1992年に離婚した。1993年にドイツの興行プロモーターと結婚した。


女優シェリリン・フェンの叔母にあたる。


ディスコグラフィ
主なシングル

1973 Rolling Stone/Brain Confusion

1973 Can The Can(キャン・ザ・キャン)/Ain't Ya Somethin' Honey

1973 48 Crash(48クラッシュ)/Little Bitch Blue

1973 Daytona Demon(デイトナ・デモン)/Roman Fingers

1974 Devil Gate Drive(悪魔とドライヴ)/In the Morning

1974 The Wild One(ワイルド・ワン)/Shake My Sugar

1974 Too Big(トゥ・ビッグ)/I Wanna Be Free

1975 Your Mama Won't Like Me(ママのファンキー・ロックン・ロール)/Peter, Peter

1975 I Bit Off More Than I Could Chew(ビット・オフ)/Red Hot Rosie

1975 I May Be Too Young(恋するヤング・ガール)/Don´t Mess Around

1976 Make Me Smile(やさしくスマイル)/Same As I Do

1976 Harf As Much As Me(スリルがいっぱい)/American Lady

1977 Roxy Roller(ロキシー・ローラー(サケ・ロック))/It'll Grow On You

1977 Tear Me Apart(恋はドッキリ)/Close Enough To Rock'n'Roll

1978 If You Can't Give Me Love(涙のヤング・ラヴ)/Cream Dream

1979 She's In Love With You(愛のゲーム)/Space Cadets

1979 Stumblin' In(メロウなふたり)/A Stranger To Paradise

1980 Mama's Boy(ママズ・ボーイ)/Mind Demons

1980 I've Never Been In Love(ネバー・ラヴ)/Starlight Lady

1980 Rock Hard(ロック・ハード)/State Of Mind


詳しい事は『ウィキペディア』を御覧下さいませ。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AD

(wikiより)



ブルーノート東京か、billboard東京でライブしてくれないかなぁ・・・


Suzi Quatro - Your Mama Won't Like Me - "Very Rare"









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609 大関和七郎墓(茨城県水戸市松本町13-34・常磐共有墓地)

大関 和七郎(おおぜき わしちろう)は、江戸時代末期(幕末)の水戸藩士。


桜田門外の変井伊直弼襲撃に参加した桜田十八士の1人である。実兄に黒澤忠三郎、甥に広岡子之次郎がいる[1]


弘化3年(1846年)に叔父である大関恒右衛門増賀の養子となって150石の家督を継いだ。


安政2年(1855年)に馬廻組に任命され、安政5年(1858年)には大番組に編入される。


安政6年(1859年)に戊午の密勅が下ると、兄の黒澤と同じく過激な尊王攘夷派だったことから、返納に反対して奉勅を訴えた。


このため幕府の後ろ盾があった藩保守派より圧力を受け、商人に変装して名も酒泉好吉と改めて江戸に潜入する[1]


安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変では大老・井伊直弼の襲撃に参加する。


井伊を討ち取ったが負傷したため、肥後熊本藩の江戸藩邸に自首する。


後に越中富山藩邸、更にその後但馬豊岡藩邸に拘禁された[1]


文久元年(1861年)7月26日に幕府の評定において死罪となり、斬首された。享年26。


明治時代になってから正五位を追贈された[1]


脚注
1. abcd 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 (2)』 (新人物往来社1988年) 391頁参照。


参考文献
家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 (2)』 (新人物往来社、1988年) ISBN 4404014902
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/405.html
391 広岡子之次郎墓(荒川区南千住5-33-13・小塚原回向院)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/408.html
394 大関和七郎墓(荒川区南千住5-33-13・小塚原回向院)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/636.html
602 広岡子之次郎墓(茨城県水戸市松本町13-34・常磐共有墓地)


 大関和七郎









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608 三匠句碑(浅草寺・新奥山)

ながむとて 花にもいたし 頸の骨 宗因


花の雲 鐘は上野か 浅草か    芭蕉


ゆく水や 何にとどまる のりの味 其角


江戸時代前期を代表する俳人三匠の句が刻まれている。


・西山宗因
慶長十年 ( 1605 ) 肥後 ( 熊本県 ) の生まれ。


後、大阪に住み談林の俳風を開く。


この句は『新古今集』にある西行法師の和歌「ながむとて 花にもいたく…」からとった句。


天和二年 ( 1682 ) 没。


・松尾芭蕉
正保元年 ( 1644 ) 伊賀 ( 三重県 ) の生まれ。


数次の漂泊の旅に出て作品集や紀行文を残し、『おくのほそ道』は世に知られている。
芭蕉俳諧を樹立。


元禄七年 ( 1694 ) 大阪で没。


・榎本其角
寛文元年 ( 1661 ) 江戸に生まれる。


芭蕉十哲の一人。


のち芭蕉を脱し、その一派の傾向は、洒落風などともいわれた。


宝永四年 ( 1707 ) の没。


碑は文化六年 ( 1809 ) の建立。


台石には明治二十七年(1894)春の移築の由来が記されている。
(案内板より)










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