酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

638 玉川庄右衛門、清右衛門墓(台東区松が谷二丁目・聖徳寺)

● 『玉川庄右衛門と清右衛門の墓』
二基のうち、向かって右が庄右衛門の墓。


傘付きの角石墓塔で、梵字の下に楷書で「玉川本家先祖代々」とあり、さらに次の戒名が刻んである。


隆宗院殿贈従五位正誉了覚大居士


向かって左が清右衛門の墓。


先の尖った角石墓塔で梵字の下に楷書で次の戒名がきざんである。


接取院殿贈従五位光誉照山大居士


従五位は、明治四十四年(1911)六月、政府により追贈されたもの。


両墓石は大正十二年(1923)の関東大震災で破損したが、昭和十二年(1937)有志によって修復された。
(案内板より)


● 玉川兄弟
玉川兄弟(たまがわきょうだい)は、江戸時代の人物。兄は庄右衛門(しょうえもん、元和8年(1622年)? - 元禄8年6月6日1695年7月16日))、弟は清右衛門(せいえもん、生年不明 - 元禄9年5月5日1696年6月4日)?)。多摩川沿いの地域の農家であったとの説が有力である[1]。1653年から54年にかけて玉川上水の開削の指揮をとったことで知られる。


玉川上水工事
玉川上水」も参照
上水工事は2度失敗していて、一回目は日野を取水口としたとき、地面に水が吸い込まれてしまう「水喰土」、2回目は福生を取水口としたとき、工事の途中岩盤に当たってしまったことであり、水喰土の失敗跡は今でも残されている。 1653年承応2年)から工事が行われ、1654年承応3年)までに開通した。これにより兄弟は「玉川」の姓を名乗る事が許され、上水の管理も玉川家の世襲とされたが、1739年元文4年)に職を剥奪される。兄弟の墓所は台東区聖徳寺にある。



1. 渡部一二『図解武蔵野の水路:玉川上水とその分水路の造形を明かす』東海大学出版会、2004年、5ページ


● 玉川上水

玉川上水(たまがわじょうすい)は、かつて江戸市中へ飲料水を供給していた上水(上水道として利用される溝渠)であり、江戸の六上水の一つである。多摩の羽村から四谷までの全長43kmが1653年に築かれた。また、一部区間は、現在でも東京都水道局の現役の水道施設として活用されている。


羽村取水堰多摩川から取水し、武蔵野台地を東流し、四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)に付設された「水番所」(水番屋)を経て市中へと分配されていた。水番所以下は木樋や石樋を用いた地下水道であったが、羽村から大木戸までの約43キロメートルはすべて露天掘りであった。羽村から四谷大木戸までの本線は武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれているほか、大規模な分水路もそれぞれ武蔵野台地内の河川の分水嶺を選んで引かれている[1]


1722年享保7年)以降の新田開発によって多くの分水(用水路)が開削されて武蔵野の農地へも水を供給し、農業生産にも大いに貢献した(代表例、野火止用水千川上水)。


開削の経緯

『玉川上水起元』(1803年)によれば、承応元年(1652年11月幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画された。工事の総奉行に老中川越藩主の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後は忠克)が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負った。資金として公儀6000両[2]が拠出された。


幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは1653年の正月で、着工が同年4月、四谷大木戸までの本線開通が11月15日とされるが、1653年2月10日着工、翌年8月2日本線開通とする史料もある[3]


羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなかったこともあり、引水工事は困難を極めた。当初は日野から取水しようとしたが、開削途中に試験通水を行ったところ“水喰土”(みずくらいど; 浸透性の高い関東ローム層)に水が吸い込まれてしまい、流路を変更(「かなしい坂」参照)。2度目は福生を取水口としたが岩盤に当たり失敗した。


こうした事情を受けて、総奉行・松平信綱は家臣の川越藩士安松金右衛門を設計技師に起用。安松は第1案として「羽村地内尾作より五ノ神村懸り川崎村へ堀込み-」、第2案として「羽村地内阿蘇官より渡込み-」、第3案として「羽村前丸山裾より水を反させ、今水神の社を祀れる処に堰入、川縁通り堤築立-」を立案した。


この第3案に従って工事を再開し、約半年で羽村・四谷大木戸間を開通し、承応2年(1653年)11月に玉川上水はついに完成。翌承応3年(1654年6月から江戸市中への通水が開始された[4]。しかし、工費が嵩んだ結果、高井戸まで掘ったところでついに幕府から渡された資金が底をつき、兄弟は家を売って費用に充てたという[5]


庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられた。


なお、玉川上水の建設については記録が少なく、よく分かっていないことも多い[6]。安松金右衛門については三田村鳶魚の『安松金右衛門』に詳しく記されている。


詳しい事は『玉川上水ウィキペディア』を御覧下さいませ。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4

(wikiより)


関連情報

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2805.html

2533 江戸水道の石枡と木樋(千代田区紀尾井町2・清水谷公園)


 玉川庄右衛門と清右衛門の像 


 庄右衛門の墓 


 玉川本家先祖代々の墓 

隆宗院殿贈従五位正誉了覚大居士の戒名。


 清右衛門の墓 


 摂取院殿贈従五位光誉照山大居士の戒名 


 御地蔵様の破片でしょうか? 











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637 新島襄旧邸(京都市上京区寺町通荒神口下ル松蔭町)

京都御所東側の寺町通に、明治初期に建てられた洋風の民家がたたずむ。


同志社の創設者、新島襄夫妻が暮らした「新島旧邸」だ。今も、当時の面影のまま、大切に保存されている。


アメリカ人宣教師の助言を受けながら、日本の大工の手によって、一八七八 ( 明治 11 ) 年九月に完成した。


寄せ棟屋根の木造二階建て。


一階が食堂や応接間など約二百十平方メートル、二階が寝室など約百四十平方メートルで、全体に質素な造りとなっている。


建物の外観は、東・南・西の三面にベランダを張り巡らし、アメリカの開拓時代を思わせるような洋風建築。


内部は、いすやテーブルを配しているものの、障子やふすま、よろい戸があり、伝統的な和風の建築技法が随所に見られる。


一階部分は、公的な場としても使われた。


玄関を入って右手にある応接間は、教室、職員室、大学設立の募金活動の事務所にも利用された。


一八八一 ( 明治 14 ) 年に会堂が完成するまでは、教会の機能も兼ねていたようだ。


さらに、奥に進み、居間を抜けると、書斎が当時のまま保存されている。


学生が出入りして、本を自由に借りていたといい、書棚には当時のまま、洋書がズラリと並ぶ。襄が愛用したいす、机、ランプ、たんすもあり、同志社設立当初の面影をしのばせている。


新島夫妻がここで暮らしたのは、わずかに十年。


第二次世界大戦後は、無人となったが、一九九〇年五月から九二年七月にかけて、老朽化が激しくなった旧邸の保存修理工事を行った。


改変された個所も創建当時の状態に戻された。


● 新島襄
新島 襄(にいじま じょう 英字表記:Joseph Hardy Neesima天保14年1月14日1843年2月12日) - 明治23年(1890年1月23日)は日本宗教家教育者学位理学士同志社英学校(後の同志社大学)を興した。明治六大教育家の1人に数えられている。


生涯
幼少時代

天保14年(1843年)、江戸神田にあった上州安中藩江戸屋敷で、安中藩士・新島民治の子として生まれる。本名を七五三太(しめた)という。この名前は、祖父・弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたという説がある。後に敬幹(けいかん)と改名。


元服後、友人から貰い受けたアメリカの地図書から、アメリカの制度に触れ、憧れを持つようになる。その後、幕府の軍艦操練所で洋学を学ぶ。ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出会い「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意し、備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗船していたこともあり、当時は禁止されていた海外渡航を思い立つ[1]


函館潜伏 - 渡米

元治元年(1864年)、アメリカ合衆国への渡航を画策し、「快風丸」に乗って開港地の箱館へと向かう。箱館に潜伏中、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと会う。ニコライは新島から日本語と日本の書物(古事記)などの手ほどきを受け、また聖書に興味を持つ彼に自分の弟子になるよう勧めたが新島のアメリカ行きの意思は変わらずニコライはそれに折れ、坂本龍馬の従兄弟である沢辺琢磨福士卯之吉と共に新島の密航に協力した。


6月14日7月17日)、箱館港から米船ベルリン号で出国する。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、船中で船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、後年の帰国後は「譲」のちに「襄」と名乗った[脚注 1]慶応元年(1865年)7月、ボストン着。


ワイルド・ローヴァー号の船主・A.ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学することができた。


詳しい事は『新島襄ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B3%B6%E8%A5%84
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/324.html
311 二條家邸跡(京都市上京区今出川通り烏丸東入)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/325.html
312 新島襄先生 生誕地記念の碑(千代田区神田錦町3・学士会館敷地内)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/326.html
313 新島襄先生終焉之地碑(神奈川県中郡大磯町大磯)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/941.html
869 沢辺琢磨墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3033.html
2740 添川廉斎墓(台東区入谷1-28-7・正覚寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3711.html
3449 徳富蘇峰碑(広島県尾道市・千光寺公園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4180.html
3836 新島襄海外渡航の地碑(函館市大町11)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4773.html

4343 新島襄墓(京都府左京区鹿ケ谷若王子山町・同志社墓地)


 

 新島 襄











636 松平定敬墓(豊島区駒込5・染井霊園)

松平 定敬(まつだいら さだあき)は、幕末伊勢桑名藩の藩主(藩主在任:安政6年(1859年) - 慶応4年(1868年)。京都所司代。定綱系久松松平家13代。


兄に尾張藩徳川慶勝一橋家当主徳川茂栄会津藩松平容保などがいる。いわゆる「高須四兄弟」の末弟である。


生涯
弘化3年(1847年)12月2日、美濃高須藩松平義建の八男として江戸市谷江戸藩邸で生まれる。


安政6年(1859年)に桑名藩松平定猷が死去すると、長男・万之助(後の定教)が3歳と幼少、かつ妾腹の庶子であったため、14歳で定猷の正室の間に儲けた娘・初姫(当時3歳)の婿養子として迎えられ藩主となり、従五位越中守に叙任される。


文久3年(1863年)の将軍徳川家茂上洛の際には、京都警護を勤めるために随行する。


元治元年(1864年)に京都所司代に任命され、京都守護職の実兄松平容保(会津藩主)、朝廷から新設の禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任命された元将軍後見職の一橋徳川家当主徳川慶喜と連携し、幕府から半ば独立して朝廷を援護する勢力を形成する(近年では一橋・会津・桑名の頭文字をとって一会桑政権と呼ばれる)。同年の禁門の変では会津藩とともに長州藩兵を撃退し、水戸天狗党の乱でも出兵している。


慶応4年(1868年)に鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争が始まると、慶喜に従い江戸の霊巌寺にて謹慎した。江戸城では抗戦派と恭順派が争い、大久保一翁勝海舟により恭順工作が進められていた。さらに、桑名藩は会津と並んで新政府からは敵視されており(朝敵5等級の認定のうち、第1等が徳川慶喜、第2等が松平容保と定敬[3])、国元では新政府軍が押し寄せてくる懸念から、先代当主の遺児・万之助(定教)を担いで恭順することを家老たちが決めていた。そのため、徹底抗戦派と見られていた定敬の帰国は困難な状況となった。定敬は一翁から桑名藩の飛び地領である越後国柏崎へ赴くことを勧められ、横浜からプロイセン船「コスタリカ号」で柏崎へ渡る。鯨波戦争では後方連絡の都合から指揮を家臣に任せて柏崎から会津へ移動した。その後は会津若松城で兄の容保と再会し、仙台から榎本武揚の艦隊で箱館へ渡った。箱館戦争終結前の明治2年(1869年)4月、従者とともにアメリカ船に乗り横浜を経て上海へ渡るも、路銀が無くなったため外国への逃亡を断念して同年5月18日には横浜へ戻り[4]降伏、明治5年(1872年)1月6日に赦免される。同年2月に許嫁の初子と結婚した。


明治6年(1873年)にアメリカ人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンが横浜市中共立修文館を設立すると、定敬は養子の定教と家臣の駒井重格ら数名を連れて入学し、ブラウンに英語を学ぶ。しかし、すぐにブラウンは共同経営社の川村敬三とトラブルがあり辞任することになる。定敬ら教え子はブラウンに私塾を開くよう勧め、ブラウンは定敬、駒井重格と元会津藩士井深梶之助らの尽力によりブラウン塾を開校する。開校時の塾生は定敬の家臣と井深ら10人前後だけだったが、その後、押川方義植村正久らが加わり20人以上になった。その中で、定敬と定教は明治7年(1874年)11月に、駒井重格は12月に渡米した[5]


明治10年(1877年)に起こった西南戦争には、旧桑名藩士を率いて遠征した。


明治41年(1908年)7月12日[1]に61歳で死去。


詳しい事は『松平定敬ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E6%95%AC
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/682.html
641 山脇正勝墓(豊島区駒込5・染井霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2674.html

2419 井深梶之助墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2874.html

2595 徳川慶喜墓 Part-1(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2875.html

2595 徳川慶喜墓 Part-2(台東区谷中7-5-24・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2917.html

2633 駒井重格墓(台東区・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3498.html

3250 松平定教墓(豊島区駒込5丁目・染井霊園)


 

 松平定敬










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