酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

酔いどれJohnnyで御座います

小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

2207 松尾甲之進墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)

望月 亀弥太(もちづき かめやた、天保9年10月7日1838年11月23日) - 元治元年6月5日1864年7月8日))は、幕末土佐藩士で、土佐勤皇党の一人。神戸海軍操練所生。諱は義澄。


文久元年(1861年)、兄・望月清平と共に武市半平太尊皇攘夷思想に賛同して土佐勤王党に加盟し、文久2年(1862年)10月、尊攘派組織五十人組の一人として、江戸へ向かう旧藩主山内容堂に従って上洛する。


文久3年(1863年)、藩命を受けて幕臣勝海舟の下で航海術を学び、その後、坂本龍馬の紹介で勝が総監を務める神戸海軍操練所へ入所するが、元治元年(1864年)、藩より帰国命令が出されたため脱藩して長州藩邸に潜伏。長州藩の過激尊皇志士達と交流を続けていたため、池田屋事件に遭遇した。


池田屋を脱出した望月は幕府方諸藩兵によって取り囲まれて深手を負い、かろうじて長州藩邸に辿り着いたものの中へ入る事を許されずに門前で自刃した。享年27。明治31年(1898年)、従四位られる。


坂本龍馬も勝海舟も、その死を嘆いた。


関連作品

テレビドラマ

新選組!』(2004年、NHK大河ドラマ 演:三宅弘城

龍馬伝』(2010年、NHK大河ドラマ 演:音尾琢真

(wikiより)


関連情報

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/347.html
334 坂本龍馬墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/374.html
360 山内容堂墓(品川区東大井4-8)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/448.html
434 池田屋殉難墓碑(京都市左京区岩倉花園町・三縁寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/745.html
700 武市半平太・富墓(高知市仁井田3021)










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2206 松浦亀太郎墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)

松浦 松洞(まつうら しょうどう)は、江戸時代末期(幕末)の画家、長州藩の志士。諱は温古、通称は亀太郎。


生涯
魚商人の子として生まれる。


のちに才覚を認められ、長州藩寄組根来主馬の家臣として仕える。


安政3年(1856年吉田松陰松下村塾に入り、尊王攘夷運動に参加。


江戸に出て漢学を修める。


安政5年(1858年江戸で渡米を企てるものの、松陰が「勤皇倒幕の大事は目前に迫っており、今、海外に出るのは正しい策ではなく、時機ではない」と反対したため、取り止めている。


文久2年(1862年)4月13日、久坂玄瑞らと上洛し、公武合体開国派であった長州藩士・長井雅楽暗殺を計画したが、翻意を促されて断念し、京都粟田山にて切腹した。


切腹の原因は、栗田宮(中川宮)が最初は尊攘派の旗を掲げていたにもかかわらず、幕府の懐柔策に乗り、佐幕派の支柱となって、尊攘志士を弾圧するようになったことへの抗議として、死を以って諌めたとも言われている。


幼少より絵画を志し、画家としては四条派羽様西崕に師事しており、安政6年(1859年安政の大獄によって江戸護送が決定した吉田松陰の肖像画を残している。


登場する作品
花燃ゆ』 - 2015年、NHK、演:内野謙太


参考文献
『日本人名大辞典』講談社
『コンサイス日本人名事典』三省堂
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/121.html
118 吉田松蔭の陰墓(南千住・小塚原回向院)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3698.html
3442 久坂玄瑞墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)










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2205 船越清蔵墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)

船越 清蔵(ふなこし せいぞう、文化2年8月23日1805年9月15日) - 文久2年8月8日1862年9月1日))は、幕末長門国清末藩出身の陽明学者は守愚。は豊浦山樵。別名は小出勝雄。


経歴
豊浦郡岡枝村(現在の下関市菊川町)で船越孟正の子として生まれる。藩校育英館で学んだ後、文政年間に諸国を遊学して帆足万里広瀬淡窓の元で学んだ後に長崎蘭学医学を学んだ。更に蝦夷地まで足を伸ばした後、大津更に京都で塾を開いて尊皇攘夷を論じた。


嘉永年間に上洛した久坂玄瑞は清蔵と会って意気投合し、長州にいた師の吉田松陰に清蔵の事を知らせた。松陰は清蔵と手紙や著書を遣り取りしているうちに、長州の有能な人間が京都で埋もれている事を憂慮して長州藩に清蔵の登用を進言したが、安政の大獄で松陰が処刑されたために実現しなかった。


万延元年(1860年)に桜田門外の変後の政情不安により故郷に戻って長府藩に仕官して、周防国佐波郡右田村(現在の防府市)に塾を開いた。文久2年(1862年)、長州藩主毛利敬親の命で藩校明倫館に召された清蔵は萩城で敬親に歴史を講じた際に、朝廷を守るべき貴族でありながら鎌倉幕府に仕えた大江広元を非難する論を述べた。だが、これに激昂した[1]長州藩士に毒を盛られ、帰途に美祢郡で倒れて急死したのである(病死説もある)。


補注
1. 長州藩主毛利家は、大江広元の子・毛利季光を初代としている。
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3698.html
3442 久坂玄瑞墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)










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