酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

酔いどれJohnnyで御座います

小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"


記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

866 角田竹冷の句碑(千代田区外神田2・神田明神)

白うおや


    はばかりながら


           江戸の水


安政三年 ( 1856 ) 五月に静岡県富士郡加島村に誕生。


職業は明治初期の「代言人」(今の弁護士)であったが、俳人として名を知られていた。


明治二十八年十月、みずから発起者となり、尾崎紅葉・岡本知十・巌谷小波・川上眉山・戸川残花らの参加を得て秋声会を組織し、翌年十一月徘詩「秋の声」を創刊した。


明治三十年六月「卯杖」を出し、後に「木太刀」と改題主宰した。


正岡子規の日本派とともに、俳句革新運動の一勢力をなした時もあった。


晩年は古俳書の収集に熱中した。


いま「竹冷文庫」として東京大学図書館に保管されている。


竹冷は大正八年 ( 1919 ) 三月二十日六十六歳で没す。
(案内板より)


● 角田竹冷
角田竹冷(かくた ちくれい、安政4年5月2日1857年6月4日) - 大正8年(1919年3月20日)は明治・大正期の俳人政治家。本名は真平(しんぺい)。駿河国加島(現静岡県富士市)生れ。東京に出て代言人弁護士)となり、東京府会議員、東京市会議員、衆議院議員を歴任した。


明治25年(1892年)に衆議院議員に当選(計7回当選)。明治28年(1895年)、39歳で尾崎紅葉巌谷小波森無黄大野洒竹らとともに正岡子規と並ぶ新派の秋声会の創設に関わった。1919年、脳溢血のため死去[1]


「角田」は「かくた」が正しい(角川書店『俳文学大辞典』・三省堂『現代俳句大辞典』)とされるが通称では「つのだ」としていたという(ただし東京大学竹冷文庫では「すみだ」を正としている)。衆議院に本人から提出された履歴書にもとづいて編纂された『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』では「つのだ」とフリガナが振ってある。


句集に『竹冷句鈔』(星野麦人編・大正9年)古俳諧の収集家としても知られ、その蔵書は現在東京大学総合図書館に「竹冷文庫」として蔵されている。


子息に俳人の角田竹涼など。


代表句
・草餅や二つ並べて東山     
・水はりて春を田に見る日ざし哉
・傘さして小舟出しけり春の海


脚注
1. 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)18頁


外部リンク
東京大学総合図書館の俳書
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3993.html
3685 松野クララ墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


 

 角田竹冷










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865 勝鬨の渡し(中央区築地6丁目・西詰)

明治25年 ( 1892 ) 銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されましたが、月島側の発展にともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態でした。


明治38年 ( 1905 )、日露戦争の旅順要塞 ( りょじゅんようさい、中国東北部 ) 陥落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付しました。


当地にある石碑は、この時建てられた記念碑です。


石碑正面に「かちときのわたし」とあり、側面には「明治38年1月京橋区祝捷會挙行之日建之 京橋區同志會」と陰刻されています。


設置された勝鬨の渡しの渡船場は、ここから約150メートル西の波除稲荷神社の辺りにありました。


対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸通9丁目 ( 現在の勝どき1・3町目の境 ) の辺りにあって、この間を渡船が運航していました。


勝鬨の渡しは、住民や月島の工場へ通う人々の重要な交通機関として大いに利用されていました。


とくに、月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、月島が工業地帯として発展する基となりました。


大正12年 ( 1923 ) の関東大震災後、架橋運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになりました。


渡しは橋の架橋まで運航され、昭和15年 ( 1940 ) 6月、勝鬨橋の開通とともに廃止されました。


勝鬨の渡しの名は橋名に受け継がれて今もその名を残しています。
(案内板より)










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864 文具至宝碑(東京都文京区湯島3・湯島天神)

● 文具至宝碑由来


中国より渡来した紙筆墨硯は文房四宝と称せられ読み書き算盤の寺子屋時代から明治の学制発布により高い文化を育てる文具として大きく貢献をしてきた


今や文房具はOA器機にいたる迄その範疇を広げ四宝から至宝に至って戦後の日本国を世界の大国に復興せしめた教育の原動力となった十一月三日 ( 文化の日 ) を文具の日として定め平成元年を迎えるに当たり先人に報恩感謝の念を捧げつつここ学問の神さま湯島天神の境内に文具至宝碑を建立する


平成元年十一月三日
     文具資料館
(案内板より)


関連情報

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3086.html

2898 文房至宝碑由来(江東区亀戸3-6-1・亀戸天神社)










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