酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"


記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

404 三浦悟楼墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

三浦 梧楼(梧樓)(みうら ごろう、弘化3年11月15日1847年1月1日) - 大正15年(1926年1月28日)は、日本の武士陸軍軍人政治家。最終階級は陸軍中将。栄典は従一位勲一等子爵は観樹。


経歴
現在の山口県萩市藩士陪臣五十部吉平の五男として生まれる。明倫館[1]で学んだ後、奇兵隊に入隊して第二次長州征伐戊辰戦争に従軍する。維新後は兵部省に出仕、明治7年(1874年)には陸軍省第3局長として台湾出兵に反対。明治9年(1876年)、萩の乱の鎮定に赴き、翌年の西南戦争では第三旅団長として各地を転戦、城山鹿児島県)を陥落させた。明治11年(1878年中将となり、西部監軍部長。


長州出身ながら藩閥政治に反対する立場をとり、また山縣有朋とは奇兵隊時代から不仲であったこともあり、谷干城鳥尾小弥太曾我祐準らとともに反主流派を形成し、月曜会の中心人物として山縣有朋・大山巌らと対立した。明治14年(1881年)の開拓使官有物払下げ事件では、上記3人と連名で、議会開設及び憲法制定を訴える建白書を提出し、翌年陸軍士官学校長に左遷される。明治18年(1885年)に陸軍卿の大山と共に欧州の兵制を視察した。


明治19年(1886年)に帰国、陸軍改革の意見書を提出したが、翌年に熊本鎮台司令長官に左遷される。明治21年(1887年)、予備役に編入。同年から明治25年(1892年)まで学習院院長。明治23年(1890年)7月に子爵による互選で貴族院議員に選出されたが、翌年9月に辞職する。明治28年(1895年)9月1日、在朝鮮国特命全権公使に就任。公使館付武官で朝鮮政府軍部顧問の楠瀬幸彦中佐や、邦字新聞「漢城新報」社長の安達謙蔵らの協力を得て、同年10月8日の閔妃暗殺を指揮したとされ(乙未事変)、事変後、関わったとされる他の日本人とともに日本に召還され広島で投獄された。翌年、広島地裁や同地で開かれた軍法会議の結果、証拠不十分として日本人関係者は全員無罪となり釈放された。


明治41年(1908年)4月1日、後備役となる[2]。明治43年(1910年)には枢密顧問官に就任、また宮中顧問官などの要職を歴任する。大正期には「藩閥打倒」を唱え、政界の黒幕としても活動、政党政治期(及びその直前期)の大正5年(1916年)と同13年(1924年)の2度に亘り、対立する政党間の党首会談の仲介などを行った。特に後者の会談は後に「護憲三派」結成の合意がなされた会談として歴史に名を残している。最晩年に口述筆記で、著作を2冊出版している。大正15年(1926年)、尿毒症のため死去[3]


年譜

・明治4年(1871)

 ・2月15日 - 兵部少丞

 ・7月28日 - 陸軍大佐任官 兵部権大丞

 ・12月14日 - 陸軍少将昇進 東京鎮台司令長官


・明治6年(1873)7月7日 - 陸軍省第三局長


・明治8年(1875)4月25日 - 兼元老院議官


・明治9年(1876)10月26日 - 広島鎮台司令長官


・明治10年(1877)3月10日 - 西南戦争征討第3旅団長


・明治11年(1878)

 ・11月20日 - 陸軍中将昇進

 ・12月14日 - 西部監軍部長


・明治15年(1882)2月6日 - 陸軍士官学校校長


・明治17年(1884)

 ・2月16日 - 大山陸軍卿随行

 ・7月7日 - 子爵叙爵


・明治18年(1885)5月21日 - 東京鎮台司令官


・明治19年(1886)

 ・7月26日 - 熊本鎮台司令官

 ・8月16日 - 休職



・明治19年(1886)10月20日 - 従三位


・明治21年(1888)

 ・11月5日 - 学習院長兼宮中顧問官

 ・12月25日 - 予備役編入


・明治23年(1890)6月30日 - 勲一等瑞宝章


・明治25年(1892)3月26日 - 免学習院長


・明治28年(1895)

 ・7月19日 - 駐韓全権公使

 ・7月29日 - 正三位



・明治28年(1895)10月24日 - 閔妃暗殺事件免職 入獄


・明治29年(1896)1月20日 - 出獄


・明治41年(1908)4月1日 - 後備役編入


・明治43年(1910)10月14日 - 枢密顧問官


・明治44年(1911)11月29日 - 従二位


・大正2年(1913)4月1日 - 退役


・大正4年(1915)4月24日 - 勲一等旭日大綬章


・大正11年(1922)12月11日 - 正二位


・大正13年(1924)1月22日 - 辞職


・大正15年(1926)1月28日 死去 従一位 勲一等旭日桐花大綬章


詳しい事は『三浦梧楼ウィキペディア』を御覧下さいませ。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%A2%A7%E6%A5%BC

(wikiより)


関連情報

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1656.html
1526 緒方竹虎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1768.html
1620 谷干城墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)


 

 三浦悟楼









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403 半七塚(浅草寺・新丸山)

岡本綺堂の「半七捕物帖」の主人公、神田三河町の目明し半七の塚です。


江戸川乱歩ら捕り物作家クラブ同人が綺堂の業績を記念して昭和24年11月に建立しました。


岡本綺堂は捕り物小説の生みの親とされています。


裏側の文字「半七は生きている 江戸風物詩の中に われ等後輩の心のうちに 胡堂題 捕り物小説の生みの親なる 岡本綺堂先生を記念して その作中の主人公半七の 名をここに留む 昭和二十四年十一月六日 捕り物作家クラブ同人」ほかにに同人数十人の名がが彫られています。
(案内板より)


● 岡本綺堂
岡本綺堂(おかもと きどう、1872年11月15日明治5年10月15日) - 1939年昭和14年)3月1日) は、小説家劇作家。本名は岡本 敬二(おかもと けいじ)。別号に狂綺堂、鬼菫、甲字楼など。著名な作品は、新歌舞伎の作者及び「半七捕物帳」などがある。


経歴
徳川幕府御家人で維新後にイギリス公使館に書記として[1]勤めていた敬之助(後に純(きよし)、号は半渓[1])の長男として東京高輪に生まれる。1873年、公使館の麹町移転とともに麹町元園町に移って育つ。3歳にして父から素読、9歳から漢詩を学び[1]、叔父と公使館留学生からは英語を学んだ。平河小学校(現麹町小学校)中等科第三級編入後[1]、東京府尋常中学(のちの東京府立一中、現東京都立日比谷高等学校)在学中から劇作家を志した。卒業後1890年、東京日日新聞入社[1]。以来、中央新聞社、絵入日報社などを経て、1913年まで24年間を新聞記者として過ごす。日露戦争では従軍記者として満州にも滞在した。吉原芸妓をしていた宇和島藩士の娘の小島栄を落籍して結婚。


記者として狂綺堂の名で劇評や社会探訪記事を書きながら、1891年、東京日日新聞に小説「高松城」を発表。1896年、『歌舞伎新報』に処女戯曲「紫宸殿」を発表。1902年、「金鯱噂高浪(こがねのしゃちうわさのたかなみ)」(岡鬼太郎と合作)が歌舞伎座で上演される。この作品の評価はいまひとつだったようだが、その後、「維新前後」や「修禅寺物語」の成功によって、新歌舞伎を代表する劇作家となり、「綺堂物」といった言葉も生まれた。


1913年以降は作家活動に専念、新聞連載の長編や、探偵物、怪奇怪談作品を多数執筆。生涯に196篇の戯曲を残した。1916年には国民新聞時事新報の2紙に新聞小説を同時に連載(「墨染」「絵絹」)。同年、シャーロック・ホームズに影響を受け、日本最初の岡っ引捕り物小説「半七捕物帳」の執筆を開始、江戸情緒溢れる描写で長く人気を得た。怪奇ものでは、中国志怪小説英米怪奇小説の翻案や、『世界怪談名作集』、『支那怪奇小説集』などの編訳もある。幼少期からの歌舞伎鑑賞を回想した『ランプの下にて』は明治期歌舞伎の貴重な資料となっている。


1918年に欧米を訪問し、作風が変わったとも言われる。1923年9月1日の関東大震災麹町の自宅・蔵書(日記)を失い、門下の額田六福の家に身を寄せ、その後麻布、翌年百人町に転居。1930年には後進を育てるために月刊誌『舞台』を発刊、監修を務める。1937年には演劇界から初の芸術院会員となる。昭和10年頃からは小説(読物)や随筆は、散発的に『サンデー毎日』誌に書く巷談ぐらいになり、1937年「虎」が最後の読物となるが、戯曲は『舞台』誌で1938年まで発表を続けた。


1939年、目黒にて肺炎により死去。青山墓地に葬られる。没後、元書生で養嗣子の岡本経一が綺堂作品の保存普及を目的として出版社「青蛙房」を創立した。現社長の岡本修一は綺堂の孫にあたる。


また、没後に経一の寄付金をもとに戯曲を対象とする文学賞である岡本綺堂賞[1]が創設されたが、日本文学報国会が運営していたため、終戦とともにわずか2回で終了した。


詳しい事は『岡本綺堂ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E7%B6%BA%E5%A0%82
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/616.html
582 條野採菊墓(台東区・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1705.html
1567 岡本綺堂墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


 

 岡本綺堂


 

 ( 半七捕物帳イメージ )


 塚の左側から綺堂が愛玩していた大きなガマが見守っています。 









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402 中江兆民墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

中江 兆民(なかえ ちょうみん、弘化4年11月1日1847年12月8日) - 明治34年(1901年12月13日)は、日本思想家ジャーナリスト政治家衆議院議員)。フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となった事で知られ、東洋のルソーと評される。衆議院当選1回、第1回衆議院議員総選挙当選者の一人。兆民はで、「億兆の民」の意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水(伝次郎)に譲り渡している。また、他の号に青陵、木強生がある。名は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬。


生涯
誕生と修学
高知城下の土佐郡北街山田町に生まれる。文久元年(1861年)2月に父が死去し、5月には家督を相続して足軽身分となる。文久2年(1862年)には藩校文武館開校と同時に入門し、細川潤次郎萩原三圭らの門下で学ぶ。外国語なども学び、慶応元年(1865年)9月には、藩が派遣する留学生として長崎へ赴く。このころ郷土の先輩である坂本龍馬と出会っている。龍馬に頼まれてたばこを買いに走った、などの逸話を残している。その後、幕府の語学所学頭平井義十郎からフランス語を学ぶなど外国語習得に努める。慶応3年(1867年)5 - 6月に江戸に移り、村上英俊の達理堂で学ぶが破門され、横浜天主堂の僧にも学んだという。同年末に兵庫が開港されると上方へ赴き、フランス外交団の通訳を務める。


政府出仕
王政復古江戸開城により江戸幕府が消滅して明治になると、苗字の名乗りを許される。兆民は通訳を辞職して東京へ戻り学問を続ける。福地源一郎(桜痴)の日新社の塾頭となりフランス語を教えたといわれるが長続きせず、箕作麟祥の家塾にも入門。明治3年(1870年)には大学南校大得行生となっている。翌明治4年(1871年)、廃藩置県により土佐藩の身分制から開放され、明治政府が派遣した岩倉使節団には司法省9等出仕として採用される。このとき、兆民は大久保利通に採用を直訴したという。同年11月には横浜から出発し、アメリカから第三共和政時代のフランスへ渡る。フランスではパリリヨンに滞在し、西園寺公望とも知り合う。


明治7年(1874年)6月に帰国し、帰国後は東京麹町に住み、8月には家塾の仏蘭西学舎(のちに仏学塾)を開く。塾では語学や思想史のほか、漢学も重視された。また、18世紀フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』の部分訳である漢字カタカナ混じり文の『民約論』の校訂に携わっている。また民権論の教授に務めた。


明治8年(1875年)には東京外国語学校の校長となるが、徳育教育を重視する兆民は教育方針をめぐり文部省と対立したとされ、直後に辞職。元老院副議長の後藤象二郎より同院権少書記官に任命され、調査掛に配属され、調査課、調査局翻訳掛を経て、翌明治9年(1876年)には国憲取調局掛を兼ね、井上毅らとともに国憲案作成のための調査や翻訳を行う。勝海舟とも知り合い、翌年には縁談を持ちかけられるが破談。勝や薩摩閥の海江田信義、海江田を通じて島津久光とも知り合い、『策論』を建言したという。明治10年(1877年)に辞職。同年には西南戦争が起こっているが、仏学塾で学んだとも言われる宮崎八郎の薩摩軍参加を止めるために兆民が熊本へ赴いたという伝承もある。明治13年(1879年)には高知県士族の娘の鹿と結婚するが、翌年には離婚している。


在野時代

元老院の辞職後は家塾経営や翻訳業のほか、私塾・済美黌高谷龍洲に師事して漢学修行を続けている。自由民権運動の気運が盛り上がる中、明治14年(1881年)3月に西園寺らと創刊した『東洋自由新聞』の主筆を務めるが、すぐに廃刊となり、翌明治15年(1882年)には仏学塾から『社会契約論』の漢文訳『民約訳(←さっきまで漢字違ったよワロチ)解』を刊行。自由党の旗揚げに関わり、党発行の新聞である『自由新聞』社説掛となる。明治16年(1883年)には日本出版会社を設立。明治18年(1885年)には長野県出身のちのと結婚。外相・井上馨条約改正交渉を巡る大同団結運動に参加し、明治20年(1887年)には長野で演説、後藤象二郎の農商務大臣辞職を求める封書を代筆するなど運動に関わったため、同年公布の保安条例で東京を追われる。また、明治21年(1888年)には仏学塾も廃塾となる。


明治21年(1888年)に大阪で創刊した『東雲新聞』の主筆も務める。兆民の演説に感銘を受けた角藤定憲に芝居公演の企画を提唱し、角藤は大阪新町座で大日本壮士改良演劇会を旗揚げし、いわゆる壮士芝居の先駆となる。そのときの演目のひとつ『勤王美(義とも)談上野曙』は兆民が幸徳秋水に依頼したといわれる。


初期議会と議員辞職

翌明治22年(1889年)には大日本帝国憲法発布の恩赦を得て追放処分が解除され、明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙では大阪4区から出馬する。自ら本籍を大阪の被差別部落に移し、「余は社会の最下層のさらにその下層におる種族にして、インドの「パリヤー」、ギリシャの「イロット」と同僚なる新平民にして、昔日公らの穢多と呼び倣わしたる人物なり」[1]と自称した兆民は、被差別部落民らの支持を得て、1,352票を獲得して一位で当選、国会議員となる。また、兆民の二人目の妻である松沢ちのは被差別部落出身だったといわれる[2]が、実際には神官を務めていた家の出身である[3][要検証 ]


兆民は民党結成のために奔走し、明治24年(1891年)9月に立憲自由党が結党され、『立憲自由新聞』の主筆を務めたが、自由党土佐派の裏切りによって政府予算案が成立したことに憤り2月に辞職。その際「小生事、近日亜爾格児中毒病相発し、行歩艱難、何分採決の数に列し難く、因て辞職仕候。此段御届候也。」という辞表を提出した。自身をアルコール中毒と主張する辞職願は僅差で承認されたが、政府の土佐派切り崩し工作への皮肉であるという批判を受ける。


その後
明治24年(1891年)7月には北海道小樽へ移り、実業家として活動を行う。4月には『北門新聞』を創刊して主筆を務める。明治25年(1892年)12月には第2回衆議院議員総選挙に出馬した仏学塾の弟子の応援に出かけている。


明治26年(1893年)には山林組を起業して札幌で材木業を始める。また、鉄道事業にも熱心で、明治27年(1894年)の常野鉄道をはじめ、毛武鉄道[1]など数多くの発起人となっている[4]。明治30年(1897年)には中野清潔会社を起こす。


明治31年(1898年)には群馬の遊郭再設置運動など、虚業的とも評される数々の事業や政治的活動を手がけようとするが、いずれも失敗している。12月には国民党を結成して政界復帰を望む。


国民同盟会の会議に出席するが、大阪で病床に臥せ、満54歳で死去、死因は喉頭癌。日本で最初の告別式が行われ、東京都港区青山墓地に葬られた。


詳しい事は『ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B1%9F%E5%85%86%E6%B0%91
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/414.html
400 頭山満墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/425.html
411 福地源一郎(桜痴)墓(台東区・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/449.html
435 来島恒喜墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/625.html
591 馬場辰猪墓(台東区・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/943.html
868 中江兆民先生誕生地(高知市はりまや町3-18)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1333.html
1233 大井憲太郎墓(豊島区南池袋4丁目・雑司が谷霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1397.html
1294 板垣退助墓(品川区北品川3-7-15 ・品川神社裏)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2028.html
1854 藤沢浅二郎墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2601.html
2366 浅川範彦墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3104.html
2917 中江兆民翁之碑(江東区亀戸3-6-1・亀戸天神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3366.html
3128 亀山社中跡(長崎市伊良林2丁目7-24・亀山社中記念館)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3491.html
3243 岡本寧浦先生塾舎址(高知市桜井町1-7)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3857.html
3579 加藤恒忠(拓川)墓(松山市拓川町7-6・相向寺)


 

 中江兆民









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