酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

酔いどれJohnnyで御座います

小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

3118 八橋検校顕彰碑(不忍池弁天島)

八橋検校(やつはし けんぎょう、慶長19年(1614年) - 貞享2年6月12日1685年7月13日))は、近世中期の日本を生きた人物である。江戸時代前期の音楽家であり、検校を務めた。名は城秀。出身は諸説あるが、山田松黒が安永8年(1779年)に記した『箏曲大意抄(そうきょくたいいしょう)』より陸奥国磐城(明治期の磐城国、現・福島県いわき市)が定説とされている。他に摂津国(現・大阪府北中部、ほか)とする説もある。


人物・来歴
八橋検校は、寛永年間(1624-1644年〉の初め頃、摂津で城秀と称して三味線の分野で活躍した。その後、江戸にくだり、筑紫善導寺法水に師事して筑紫流箏曲を学んだ。この箏曲を基に現在の日本のの基礎を作り上げた。独奏楽器としての楽器奏法の改良、段物などの楽式の定型化など、箏曲の発展に努めた。代表作に組歌の『梅が枝(うめがえ)』、『菜蕗(ふき)』、『心尽し』、『雲井の曲(くもいのきょく)』などがあり、また、段ものの『六段の調』、『(みだれ)』(乱輪舌[みだれ りんぜつ])、『八段の調』も八橋の作と伝えられている。寛永13年(1636年)に上洛し、母親が俳人藤本箕山(ふじもと きざん、畠山箕山)配下の山住(やまずみ)某(なにがし)に扶持されていたことにちなんで山住勾当[1](やまずみ こうとう)を名乗った。1639年〈寛永16年)にも再び上洛して上永検校と称し、さらにのち、八橋検校と改めた。


その芸術は高く評価され、磐城平藩専属の音楽家として五人扶持で召し抱えられたこともある。胡弓、三味線の名手でもあり、胡弓のの改良も行っている。


銘菓・八ツ橋
八橋検校の死後、その業績を偲んで、箏の形を模した堅焼き煎餅が配られたといわれ、これが銘菓八ツ橋」の始まりと伝えられている(老舗聖護院八ツ橋総本店の創業譚)。


脚注
1. 勾当(こうとう) :当道座に属した盲官(盲人の役職)の官位には、検校・別当・勾当・座頭があり、勾当は第3の位階。


関連項目

邦楽
江戸時代の人物一覧
日本のクラシック音楽の作曲家一覧
吉沢検校


外部リンク
八ッ橋の歴史:八ッ橋の誕生”. (公式ウェブサイト). 聖護院八ツ橋総本店. 2015年2月16日閲覧。
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/4775.html

4345 八橋検校墓(京都市左京区黒谷町121・黒谷墓地内)











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3117 三浦乾也 旧居・窯跡(墨田区向島5-1-14・長命寺 桜もち脇)

天賦の才に恵まれ、若くして乾山焼 6代を襲名した。


陶芸家としての道を歩む一方、谷文晁に絵を習い、小川破笠 ( おがわ - はりつ ) が編み出した破笠細工の蒔絵も学び、彫刻も手がけるなど、多芸多才の士としても知られた。


嘉永 6年 ( 1853 )、32歳の時に人生最大の転機が訪れる。黒船来航である。


驚愕した乾山は、幕府に造艦を建白、雄藩にもその必要性を説き回った。


これが認められ、翌安政元年 ( 1854 )、勝海舟とともに長崎で建造技術の習得を命じられ、伝習所に赴く。


安政 3年、仙台藩に造艦惣棟梁として招聘され、洋式軍艦「開成丸」を見事進水させ、一躍名を知られるところとなる。


この功業により厚遇され、同藩には万延元年 ( 1860 ) まで滞在した。


この間、焼物の技術も伝授し、地元の陶工にも影響を与えた。


明治に入って居を東京に移し、近県で創窯、焼物の復興にも努める。


明治 8年 ( 1875 )、54歳で向島長命寺に移り、境内の一隅に築窯し、根付、印籠、帯留めなどの捜索に励み、特に、簪 ( かんざし ) の珠は「乾也玉」の名で流行した。
(案内板より)


● 三浦乾也

幕末明治の陶工、企業家。


江戸銀座に、幕府の御家人の子として生まれた。


父・清七の姉の夫は井田吉久といい、将軍家で庭焼を行ったほどの高名な陶工であった。


12歳のとき、吉久の手ほどきで製陶を始める。


15歳で師と仰ぐ乾山焼 5代・西村貌庵と出会い、乾也と号した。


24歳で乾山 6代を名乗る。


嘉永 6 ( 1853 ) 年ペリーの黒船を見て造船を思い立ち、35歳のとき仙台藩の招聘に従って西洋式軍艦の建造を行った。


陶芸では、長崎の亀山焼、三重の射和万古焼、宮城の堤焼などを援助し、晩年は東京で製陶し、乾山焼の正統の継承者を自認した。










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3116 佐多稲子旧居跡(墨田区向島2-3-5・郷土文化資料館)

小学校の頃から利発な文学少女であったが、11歳の時に、結核で亡くなった母の治療費や父の放蕩などで家計はひっ迫。


叔父を頼って、父、祖母とともに長崎から上京、向島小梅町 52番地 ( 現在、隅田公園内 ) の家に身を寄せることになる。


牛島尋常小学校 5年に転入したものの、家計を助けるために、キャラメル工場で働かなければならず、結局、小学校は 5年で中退してしまった。


その後、料亭、工場、書店などで働きながら、小説や短歌を投稿。


これらの経験が、後に『キャラメル工場から』という作品にまとめられ、出世作となった。


戦後、すぐに書かれた自叙伝ともいえる『私の東京地図』には、長く暮らした向島周辺のことが書かれている。


「私の地図の、江戸案内の版画的風景には、三囲神社も書かれている。いつもひっそりしていた神社だ。淀んだどぶ池のそばに、閉めたままの障子の白さを見せていたのは基角の家だ、と子供心にも知っていた。」
(案内板より)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/270.html
266 宮本百合子ゆかりの地(文京区千駄木5-20と21)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1770.html
1623 宮本百合子墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)










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