酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

酔いどれJohnnyで御座います

小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

824 那須信吾墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)

那須信吾 (なす しんご)
1827 - 1863 ( 文政 10 - 文久 3 )


土佐藩家老・深尾和泉守重良の家臣・浜田宅左衛門の三男として生まれ、田中光顕の叔父にあたる。名は重民。


はじめ医術を学び剃髪と号したが、身長 6尺て膂力剣術にすぐれ、その健脚は馬より速いといわれた。


それを同国高岡郡檮原村で槍指南をしている郷士・那須俊平に認められ、長女・為代の婿養子となる。


以後、医術の修業をやめて信吾と改名し、高知に出て武市瑞山と交わり、土佐勤主党に加わった。


武市の指令により信吾は安岡嘉助、大石団蔵と組んで藩の参政・吉田東洋を暗殺、ただちに脱藩して長州に走った。


文久 2年 ( 1862 ) 4月のことである。


翌文久 3年 8月、中山忠光を擁する天誅組の結成に参加、十津川を敗走後も常に忠光を護り、鷲家口で血路を開くために決死隊を組織して彦根藩と激戦し、部将大館孫左衛門を斃したが、銃弾にあたって戦死した。


墓は鷲家口明治谷にある。享年 37歳。


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/355.html
345 十津川郷士墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/866.html
797 吉村虎太郎・天誅組墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/890.html
818 天誅組墓(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2132.html
1949 田中光顕墓(文京区大塚5-40-1・護国寺)


 

 那須信吾










にほんブログ村 歴史ブログ 歴史の豆知識へ にほんブログ村

のバナーを「ポチッ」押して応援して頂くと管理人の励みになります。