酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

79 倉橋伝助武幸墓

倉橋 武幸 (くらはし たけゆき、寛文10年(1670年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は伝助(でんすけ)。


生涯
寛文10年(1670年)、赤穂藩浅野家家臣の倉橋武助の子として生まれる。母は幕臣大平弥五郎兵衛の伯母。


延宝4年(1676年)、7歳のときに父が死去したため家督を継いだ。赤穂藩では中小姓(15両3人扶持)として仕えた。元禄7年(1694年)の備中松山城受取にも従軍し、そのまま一年半にわたって松山に残留している。


元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩吉良義央に殿中刃傷に及んだ際には、倉橋は長矩の参勤交代のお供をしていたため江戸に居た。堀部武庸に同調して江戸急進派の一人となった。元禄15年(1702年)6月には浅草茶屋にて杉野次房武林隆重前原宗房不破正種勝田武尭らと同盟の誓約をする。8月以降は本所林町の堀部武庸の借家に移り、十左衛門と変名した。


吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属した。本懐後は長府藩毛利家に預けられ、元禄16年(1703年)2月4日に毛利家家臣江良清吉の介錯で切腹した。享年34。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃鍛錬剣信士。


関連項目
大石神社
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/15.html
12 大石良雄外十六人忠烈の跡(港区高輪1・高輪1丁目アパート)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/28.html
25 赤穂浪士ゆかりの寺(台東区谷中5-8・観音寺)


 

 倉橋伝助武幸









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