酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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野際陽子さん13日に亡くなる、81歳

「キイハンター」「ずっとあなたが好きだった」など多くのテレビドラマで活躍した女優の野際陽子さんが13日に死去したことが15日、分かった。81歳だった。関係者によると通夜、葬儀は終了したという。現在放送中のテレビ朝日系ドラマ「やすらぎの郷」(月~金曜・後12時30分)にレギュラー出演しており、突然の訃報に周囲も驚いている。


●  野際陽子
野際 陽子(のぎわ ようこ、1936年1月24日[3] - 2017年6月13日[4])は、日本の女優[3]。身長163 cm[5]、血液型はA型[3]。特技は英語・フランス語[3]。ラヴァンス所属[5]。元NHKアナウンサー[5]。


来歴[編集]
石川県河北郡津幡町で生まれ[1][2]、富山県富山市で育ち、3歳から東京都杉並区天沼で育った[6]。杉並区立杉並第五小学校[注釈 1]、立教女学院中学校・高等学校、立教大学文学部英米文学科卒業。大学時代はESSの英語劇セクションと劇団テアトルジュンヌに所属し、四大学英語劇大会など数々の作品に出演[6]。


大学卒業後、1958年(昭和33年)にNHKにアナウンサーとして入局し、3か月の研修後に名古屋放送局に赴任[6]。天気・婦人番組を担当。翌年の伊勢湾台風の災害報道にも関わっている。同局には1年後輩のアナウンサーとして下重暁子がいた。1960年(昭和35年)にNHK東京放送局(現:NHK放送センター)に赴任。テレビ『おはようみなさん』の司会を週1回担当。以降の2年間は週3本のレギュラー番組を担当した[7]。名古屋赴任時に独身寮の野際の部屋に折悪しく給料日に強盗が入り、ナイフを突きつけられ金銭を要求された経緯を『徹子の部屋』、『いつみても波瀾万丈』、『ボクらの時代』出演時に語っている[8][出典無効][9][出典無効]。


1962年(昭和37年)3月にNHK退職後、企画を説明する係として広告代理店へ転職。しかし出番が来ないまま3か月が経ち、給料だけもらうのは忍びないと気兼ねしていると、15分の生放送番組である『女性専科』(TBS)の司会者を担うこととなった。『女性専科』以降は女優活動が中心となった。TBSのプロデューサー大山勝美は「NHKのアナウンサーだった野際を女優に誘ったのは僕」と述べている[10]。1963年(昭和38年)7月5日放送のテレビドラマ『悲の器』(TBS)で主演の佐分利信の教え子になる理知的な若い美人が欲しくで人選していたが、なかなか見つからず。野際は当時NHKの花形美人アナウンサーだったが、近々辞めてフリーになるという噂があり、会って「芝居やってみませんか」と誘ったら「とてもやりたいと思っている」と言われ出演してもらった[10]。ほとんど褒めることのない佐分利が野際のことを「彼女はいいですね」と褒めていたので野際も自信を持ったのではないか、それで東映の映画とかに出演するようになったと述べている[10]。1964年(昭和39年)には、東京都美術館で開催された現代美術展に出展する絵のために、画家伊東深水のモデルとして起用された[要出典]。


1966年(昭和41年)2月にかねてから念願であったパリへ留学。ソルボンヌ大学で古典仏文学の授業を受けながら、アリアンスフランセーズにも通い、1年を過ごした。翌年帰国後『女性専科』に復帰し、パリで培ったファッションセンスを活かした[7]。1967年にはパリからの帰国時に着用していた、まだ日本では珍しかったフランス製のミニスカートが話題になった。このことから日本人で初めてミニスカートを穿いた女性であるとも言われている[11][出典無効]。


1968年(昭和43年)にテレビドラマ『キイハンター』がスタートし、5年間放送され、視聴率30%以上を記録し一世を風靡した。ディレクターにどうしても歌わせて欲しいと直談判して[11][出典無効]、主題歌の「非情のライセンス」も歌った。1972年(昭和47年)には共演の千葉真一と婚約、翌年結婚。1975年(昭和50年)に真瀬樹里を出産。38歳11か月での初産は当時の芸能人の高齢出産最高齢記録だった[12][出典無効]。


1992年(平成4年)、テレビドラマ『ずっとあなたが好きだった』で息子・冬彦(佐野史郎)を溺愛する強かな姑役を演じ、以降はこれまでの母親役以外に強烈な姑役が加わった。1994年(平成6年)に日本に居たかった野際は、アメリカに拠点を移したかった千葉と離婚[13]。記者会見の際には同席してマスコミに臨んだ。後に野際は2013年の『ボクらの時代』に出演した際、「当初から結婚生活自体に違和感を覚えていた。結婚前から大変な結婚になりそうだ、という予感はあった。離婚に向け、全てが整うまで21年かかった。結婚してからも夫婦というより仲間の延長のような感じだった」と語っている[14]。


1996年(平成8年)10月5日、『オールスター感謝祭'96超豪華!クイズ決定版この秋お待たせ特大号』では50問234.30で60歳255日での最年長優勝を果たした[15]。


2011年(平成23年)3月の原発事故を受け、「原発からでた放射能を無害にする技術ができない限り、原発はありえない」と反原発のスタンスであることをインタビューで語っている。このため、震災後に自宅の照明器具を全て省エネのためLEDに交換している[16]。
2013年(平成25年)12月現在、特定秘密保護法の制定に関して反対表明をしている芸能人の1人である[17]。


2016年(平成28年)11月23日、石川県河北郡津幡町の広報特使を委嘱された[18]。
2017年6月15日、81歳で死去[19]。


人物
家族仲が良く実家の家族とよくバーベキューを楽しみ[20]、還暦を迎えたのを機に『脱いでみようか』というタイトルのエッセイを出版している。本人曰く「還暦を機に心の中を少し脱いでみようか」との意味でこのタイトルに落ち着いた[21][出典無効]。


多趣味であり、独身時代から勉強していた語学に加え、結婚後も子供と一緒にアイスダンスやピアノなどを習っていた事がある[20]。近年は雑誌の取材で玉村豊男のアトリエを訪れた事がきっかけで水彩画を描いている[22]。健康おたくを自称するくらい健康には気を使っており、自分で考案したり人に聞いたりした健康ドリンクを長年飲み続け[20]、「老いは股関節から来る」と主治医に聞いてからストレッチを続け、180度開脚できるようになった[22]。


テレビドラマ『キイハンター』や『鬼平犯科帳』などで共演した丹波哲郎から妹のように可愛がられ[23]、所属しているラヴァンスも丹波が設立した「丹波プロダクション」が元である。佐野史郎はドラマ『ずっとあなたが好きだった』で野際と共演していた時に、丹波から「陽子をヨロシク!」と声をかけられている[23]。『ずっとあなたが好きだった』の後も『ダブル・キッチン』など着物を着た姑役が続くが、「私の後(の姑役)は、浅野ゆう子さんにでもお願いしようかしらね」と語り、浅野とも交流が続いている。


夫婦役では『ダブル・キッチン』以降伊東四朗との共演が多く、伊東は「野際さんは本当にお若いし努力家で素晴らしい人」と評している[要出典]。橋爪功とは映画『善人の条件』、ドラマ『ずっとあなたが好きだった』『スウィート・ホーム』『京都迷宮案内』『新・京都迷宮案内』(無印から9シリーズ連続共演)『笑う三人姉妹』、『告発〜国選弁護人』などで共演している。黒柳徹子とはNHKアナウンサー時代から公私にわたり60年以上の親交がある[要出典]。そのため『徹子の部屋』の草創期からの常連出演者[要出典]であり、2000年代以降は番組の節目や特別番組などに招かれている[要出典]。21回出演しており、女性ゲストでは最多である[要出典]。


詳しい事は、「野際陽子ウィキペディア」をご覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E9%9A%9B%E9%99%BD%E5%AD%90
(wikiより)



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