酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6855 大佛次郎墓(神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目・寿福寺)

大佛 次郞(おさらぎ じろう、1897年(明治30年)10月9日 - 1973年(昭和48年)4月30日)[1]は、日本の作家。


神奈川県出身、本名は野尻 清彦(のじり きよひこ)[2]。『鞍馬天狗』シリーズの作者として有名な他、歴史小説、ノンフィクション、さらには新作歌舞伎[3]や童話などまでを幅広く手がけた。作家の野尻抱影は兄。


生涯
生い立ち
神奈川県横浜市英町(現中区 (横浜市))に生まれた。 横浜市立太田尋常小学校に入学後、数か月で東京に転居し、津久戸小学校に転校、その後白金小に転校。東京府立一中、一高を経て、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。一高時代は野球に熱中し、歴史と演劇に関心を持ち、1916年に雑誌『中学世界』(博文館)に一高の寮生活をルポルタージュ風にまとめた小説「一高ロマンス」を連載して1917年に出版。大学では仲間と劇団「テアトル・デ・ビュー」を結成、畑中蓼坡による民衆座の公演「青い鳥」にも協力・参加し、これに光の精役で出演していた吾妻光(本名・原田酉子)と、1921年に学生結婚する。同年にはロマン・ロランの翻訳を手がけ、また菅忠雄らと同人誌『潜在』結成。卒業後、鎌倉高等女学校(現・鎌倉女学院高等学校)教師となった。1922年に外務省条約局嘱託となり[4]、翻訳の仕事に就く。この時代にさまざまなペンネームを駆使して野球を題材にした少年小説、『新趣味』誌(博文館)にサバチニ、ゴーグら海外の大衆小説の翻訳・翻案小説を書き、関東大震災を機に外務省を退職して作家の道に進んだ。


時代小説作家デビュー
1923年に『新趣味』が廃刊になり、娯楽雑誌『ポケット』誌の編集長鈴木徳太郎から時代小説の依頼を受け、ポーの「ウィリアム・ウィルソン」からヒントを得た『隼の源次』を発表。この時に初めて、当時鎌倉市長谷の大仏の裏手に住んでいたことに由来する「大佛次郎」のペンネームを使い、以後これが彼の主なペンネームとなった。続いてゴーグ「夜の恐怖」の舞台を幕末に移した「鬼面の老女」を掲載して評価を受け、これに登場する鞍馬天狗という怪人を主人公とする連続もの「幕末秘史 快傑鞍馬天狗」を執筆する。[5] 1927年(昭和2年)には少年向けの鞍馬天狗もの『角兵衛獅子』を発表。以後1959年発表の『深川物語』『西海道中記』まで書き継がれた。また1927年に東京日日新聞に連載した『赤穂浪士』は、虚無的な剣客堀田隼人という架空の人物の目を通して、元禄時代や執筆当時の世相と体制への批判的な視点を持ち込んだことで画期的なものと言われ[6]、単行本化されて数ヶ月で60版を重ねる人気となった[7]。


ノンフィクションと戦後
1930年には、フランス第三共和政を題材にしたノンフィクション『ドレフュス事件』を発表。1931年から横浜のホテルニューグランドを仕事場とし、『白い姉』、横浜を舞台にした『霧笛』などの現代小説を発表。1935年からは直木賞選考委員となる。1940年には文藝春秋社の報道班員として中国宜昌戦線に赴き、また文芸銃後運動講師として満州、朝鮮にも渡った。1943年末から44年初めまで、同盟通信社の嘱託として南方マレー、スマトラなど東南アジア各地を訪問した[8][9]。その後は日記をつけ始め、また朝日新聞連載の後藤又兵衛の一代記『乞食大将』(1945年に用紙不足のため中絶)、『少年倶楽部』連載の『楠木正成』の執筆を続けた。[8]。


戦後8月19日に玉音放送の感想「英霊に詫びる」の第1回を朝日新聞に掲載(第2回以降は宍倉恒常、吉川英治、中村直勝)。次いで東久邇宮内閣の参与に招聘され、「新文明建設」という役割を与えられて、復興のための強い意欲を持って準備を始めたが、内閣は1ヶ月半で総辞職してしまう。1946年に、戦前寄稿していて愛読者でもあった雑誌『苦楽』を復刊させ、人気となるが、戦後の用紙割当てに絡む出版不況のあおりで経営は悪化し、自身の原稿料も運営に充てていたが、1949年に廃刊した。1948年に発表した『帰郷』で日本芸術院賞受賞。1952年からは市川海老蔵(十一世團十郎)のための戯曲「若き日の信長」などを執筆。1961年にフランスに渡りパリ・コミューン調査を行い、『パリ燃ゆ』執筆開始。1964年文化勲章、1965年朝日文化賞受賞。1967年に明治100年を記念した朝日新聞の企画で、朝日新聞に『天皇の世紀』連載開始。


1969年に劇作活動により菊池寛賞受賞、『モラエス全集』によりポルトガル文化勲章受賞。


1972年5月に国立がんセンター病院に入院。病床でも『天皇の世紀』執筆を続けたが、1973年4月25日に連載1555回をもって休載。これが絶筆となり、同年4月30日に転移性肝臓癌により、国立がんセンター病院で死去。この1973年に、業績を記念して朝日新聞社により「大佛次郎賞」が創設された。河盛好蔵は1950年の『文學界』で大佛と対談したことを元に、『天皇の世紀』は、「幕末、明治、大正、昭和のどの時代もよく知っているから、それを通じた大河小説を書いてみたい」と話していたもので、「この大作には小説家大佛次郎の全才能が動員されている」と述べている[10]。


1978年に、横浜市の港の見える丘公園に大佛次郎記念館が開館された。また鎌倉の邸宅は、週末だけ 大佛茶廊[11][12]として一部公開されている。


2001年(平成13年)には評論を対象にした「大佛次郎論壇賞」が新設された。


人物
家族
道成寺の山門の再建や本堂の修復などを手がけた宮大工・仁兵衛の子孫にあたる。父政助は1850年(嘉永3年)5月27日、紀伊国日高郡藤井村(現和歌山県御坊市藤田町)で源兵衛の長男として生まれ、19歳の時に明治維新を経験して「狭いふるさとを出て、広い世界で活躍したい」と、和歌山市の倉田塾(吹上神社の神主・倉田績の家塾)に入り、その後日本郵船に入社、勤勉実直な人だった。[13][14]


長兄抱影の娘政子が大佛の養女になった。


猫好き
猫を生涯の伴侶と言うほど、大の猫好きだった。猫を題材とした多くのエッセイや、小説、童話を残しており、『赤穂浪士』に登場する上杉家家老千坂兵部も猫好きの設定にしている。童話「スイッチョねこ」は「珍しく(他人から依頼されて)書いたものではなく(自発的に)生まれたものだった」といい、「私の一代の傑作」と評価をくだしている[15]。


野良猫を含め面倒を見てきた猫の数は500匹を下らないという。猫を5匹までにすることや、猫に対して贅沢をさせないことを遺言で残したが、残された夫人も夫の影響で猫好きになっており、遺言は守られなかった。夫人が亡くなった後、残された猫たちは、大の猫好きお手伝いさんによって貰われていったという。


鎌倉を愛す
鎌倉をこよなく愛した。宅地開発ブームが鎌倉に押し寄せ、1964年(昭和39年)には鎌倉の聖域である鶴岡八幡宮裏山・通称御谷までが開発されそうになった時、地元の住民と一緒に、古都としての景観と自然を守ろう運動を起こした。


そして、全国的な運動を展開し、小林秀雄、今日出海、永井龍男、鈴木大拙、中村光夫、川端康成、横山隆一、伊東深水、鏑木清方などのそうそうたる著名文化人と幅広い市民の協力を得ることが出来た。この中から、鎌倉の貴重な自然と歴史的環境は市民自らの手で守らなければならないという機運が生まれ、財団法人鎌倉風致保存会が1964年(昭和39年)12月に誕生した。


その設立発起人となり、また、初代理事に就任し、風致保存会の設立に大きな貢献をした。鎌倉風致保存会の精神的母体となった英国のナショナル・トラストの日本への紹介者ともなった。


1966年(昭和41年)には、これをきっかけに超党派の議員立法によって「古都保存法」が制定され、同年6月に御谷山林1.5ヘクタールの買収に成功。このことで、鎌倉風致保存会は日本のナショナル・トラスト第1号といわれるようになった。


本好きが嵩じて作家に
一高時代に書いた「一高ロマンス」で、生まれて初めて原稿料五十円を貰った。以後学生時代から各誌に小文を書くようになるが、そのほとんどは本代に消えたという。一学期分の食費を貰ったら、丸善で手当たり次第欲しい本を買って、本棚に目一杯に並べてしまい、一月もしないうちに使い切ってしまうという始末だった。そのため本を古本屋に売ったり、雑誌に小文や翻訳、果ては時事解説まで載せて生活をつないだという。読むために購入するほか、稀少本や豪華本を蒐集することを趣味としている側面もあった。


学生時代からアルバイトで執筆活動をしていたが、その延長で本格的な作家生活に入っていった。「丸善に払う為に私は原稿を書き始めたのである」(『私の履歴書』)と後に回想している。


詳しい事は、「大佛次郎ウィキペディア」をご覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BD%9B%E6%AC%A1%E9%83%8E
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/349.html

336 中川勝彦墓(谷中5-2-25・常在寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/441.html
427 池波正太郎墓(台東区西浅草1-6-2・西光寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/5404.html
4913 長谷川まつ子墓(台東区谷中1丁目・谷中霊園)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/6533.html
5682 井上禅定墓(鎌倉市山ノ内1367・東慶寺)


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