酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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6846 宮脇俊三墓(港区南青山2-32-2・青山霊園)

宮脇 俊三(みやわき しゅんぞう、1926年12月9日 - 2003年2月26日)は、日本の編集者、紀行作家。元中央公論社常務取締役。鉄道での旅を中心とした作品を数多く発表した。父は陸軍大佐で、後に衆議院議員となった宮脇長吉。娘に作家の宮脇灯子。


人物
編集者として日本出版史に残る企画に数多くたずさわり、名編集者と謳われる。作家北杜夫を世に出したのも功績の一つである。


紀行作家としては、地理や歴史の深い教養に裏打ちされた簡潔かつ格調高く、軽妙なユーモアにあふれた文章を書くことで知られる。また熱心な鉄道ファンでありながら、専門用語などを自慢気に羅列したり、評論家ぶったりするなどの、ごく一部の趣味者に見られる嫌味さが作品内にはほとんどなく、飄々とした文体が多くの人々に受け入れられ、鉄道ファンにとどまらない多くの愛読者を惹きつける。このため、典型的な鉄道ファンであるにもかかわらず、「普通の鉄道ファンとは違って…」と鉄道趣味への誤解と相まって評されることも多い。


処女作『時刻表2万キロ』で「鉄道に乗る」ことを趣味とする者の存在を世間に認知させ、第2作の『最長片道切符の旅』では「最長片道切符」を広く知らしめることとなった。これらの作品によって「鉄道紀行」を文学の一ジャンルにまでした、と評されることもあり[2]、「鉄道紀行文学」で宮脇並みのレベルの作品を生んでいる人物は、その没後誰もいないとも言われている。[誰によって?]
晩年に刊行した『鉄道廃線跡を歩く』シリーズ(全10巻、1995年 - 2003年、JTB)では、「廃線跡探訪」という、これまでほとんど注目されていなかった鉄道趣味を記し一般に知らしめた。


年譜
・1926年(大正15年)12月9日 埼玉県川越市で7人きょうだいの末子(三男)として生まれる。


 ・父長吉は俊三ら男子には「英雄俊傑」に「一二三四」を順に組み合わせた名前を与えていたが、次男雄二は夭折し、「傑四」となるべき四男は誕生しなかった。


 ・宮脇家は香川県が本籍であり、父長吉も香川県から代議士に選出されている。俊三は幼い頃からの鉄道好きで、父が選挙区入りする際の一行の切符の手配などもすべて行っていたという。俊三の鉄道好きは戦中でも変わることがなく、1942年(昭和17年)に開通した関門トンネルを通ってみたいが故に、戦時下にもかかわらず列車に乗って旅行に行ったほどである。


 ・父長吉の陸軍予備役編入と共に、埼玉県川越市から東京市渋谷町(現・東京都渋谷区)にあった皇族の梨本宮邸付近に一家で移住する。子供時代の遊び場は、梨本宮邸の裏に当たる山手線の線路沿いにあった空き地と、東京市電(現・東京都電)青山車庫だった。


・東京府青山師範学校附属小学校、旧制成蹊高等学校卒業後の1945年(昭和20年)、東京帝国大学理学部地質学科に入学。同年8月15日、米坂線今泉駅前で玉音放送を聞き敗戦を知る。戦後の混乱期に大学に戻ったものの、地質学科での現地調査で「ブヨ」に悩まされたこと、本来地図や時刻表が好きだったこと、ちょうどその頃文学の方面に興味が移っていたこと、などの理由から転部しようと決意。ところが当時は理科から文科へ転科できなかったので、東大の文学部西洋史学科を再受験し合格した。


・1951年(昭和26年) 東京大学文学部西洋史学科卒業。旧制大学課程としての卒業である。中央公論社(現在の中央公論新社)に入社。建築家を目指しいったん退社するも再び中央公論社に復帰。以後編集者として活躍し、『中央公論』編集長に就任。当時の国鉄総裁石田禮助に自らインタビューをしたこともある。その後『婦人公論』編集長、開発室長、編集局長、常務取締役などを歴任。「世界の歴史」シリーズ、「日本の歴史」シリーズ、「中公新書」などに関わる。
 「世界の歴史」シリーズでは専門的過ぎて分かりづらい学者の文章は衝き返して再度執筆させた。東洋史学者宮崎市定に『科挙』『大唐帝国』執筆を依頼し、一般読書人に宮崎の名を知らしめてもいる。宮崎は名文で知られており、世界の歴史シリーズでも間然するところの無い文章を執筆したため、宮脇も衝き返さず、そのままとした。


・1977年(昭和52年)5月28日 国鉄足尾線を最後に国鉄全線を完乗。


・1978年(昭和53年)6月30日 常務取締役編集局長を最後に中央公論社を退社。
 退社理由としては『時刻表2万キロ』の上梓に際して生じた自己矛盾を挙げている。編集者として他の作家の出版企画を却下することも多々あった手前、自分が所属する会社から自著を出版するわけにはいかなかったが、かたや競合他社から出版するとなると今の会社にいることは筋が通らないという理由である。


・1978年(昭和53年)7月10日 国鉄全線完乗の旅をつづった『時刻表2万キロ』で作家デビュー。


・1978年(昭和53年)12月12日 『時刻表2万キロ』で第5回日本ノンフィクション賞受賞。


・1981年(昭和56年) 『時刻表昭和史』で第6回交通図書賞受賞。


・1985年(昭和60年) 短編小説集『殺意の風景』で第13回泉鏡花文学賞受賞。この『殺意の風景』は同年上半期の直木賞候補にもなっている。このうち、第12話「石油コンビナートの巻」がのちに火曜サスペンス劇場「弁護士・高林鮎子 寝台特急あさかぜ4号殺人風景」」(1986年。主演、眞野あずさ)として、また第14話「砂丘の巻」がテレビ東京系月曜女のサスペンス傑作推理受賞作シリーズ「殺意の風景・砂色の迷宮」(1989年。主演、石野真子)としてドラマ化された。


・1992年(平成4年) 『韓国・サハリン鉄道紀行』でJTB第1回紀行文学大賞受賞。


・1999年(平成11年) 第47回菊池寛賞受賞。気力・体力に限界を感じ、休筆を宣言。この頃、家族には「宮脇俊三も、もう終わりだな」と漏らしていたという。


・2003年(平成15年)2月26日 東京都内の病院で没する。享年76。戒名「鉄道院周遊俊妙居士」。
 死去の報道は葬儀が済む3月になるまで差し控えられた。宮脇の死が発表されると世田谷区の自宅に多くのファンが詰め掛け、自宅周辺はちょっとした混乱状態になった。晩年は執筆の依頼はすべて断っていた。雑誌「高原文庫」から依頼された親友の北杜夫に関するエッセイだけは例外として引き受けたが、既に病床にあった宮脇は完成させることができず、それが遺稿となった。


・2008年(平成20年) 7月12日から9月15日にかけて、地元世田谷区の世田谷文学館で「没後5年 宮脇俊三と鉄道紀行展」が開催された。


・なお、宮脇の行状記録としては『私の途中下車人生』(話し手:宮脇俊三。講談社 1986年10月9日刊 2010年2月に角川書店から文庫化)、「自筆年譜」[1978まで](『宮脇俊三鉄道紀行全集』第6巻 角川書店 1999年5月31日刊の巻末)および「自筆年譜」[2003まで](「宮脇俊三の旅」雑誌『旅』2003年8月号臨時増刊、巻末)が詳しい。


詳しい事は、「宮脇俊三ウィキペディア」をご覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E8%84%87%E4%BF%8A%E4%B8%89
(wikiより)