酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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6784 愚庵歌碑(静岡市清水区南岡町3-8・梅蔭禅寺)

愚庵天田五郎は、明治十一年より十七年まで清水次郎長の許に身を寄せていた。


戊辰戦争で不明となった父母妹の行方探索に生涯を賭ける五郎に次郎長は手をさしのべ五郎はまた「東海游侠伝」の執筆、富士裾野の開墾に携わったのである。


そのゆかりの地に因んで愚庵の詠んだ歌を中柴光泰氏が選び、自ら筆をとった。


清水次郎長没後百年これを刻し、この碑を建てた。
(案内板より)


● 天田愚庵
天田 愚庵(あまだ ぐあん、嘉永7年7月20日(1854年8月13日) - 明治37年(1904年)1月17日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての武士、歌人。


本名、天田五郎。漢詩や和歌に優れ、俳人正岡子規にも影響を与えた。


生涯
1854年(嘉永7年)、父・磐城平藩士・甘田平太夫、母で同藩医の娘・浪の5男として誕生。幼名を久五郎。兄弟は多かったが、いずれも夭折し久五郎15歳の時は長兄・善蔵、妹・延の2人だけであった。


1868年(明治元年)、戊辰戦争において磐城国も戦場となると、兄・善蔵が出陣し父は残る家族を連れて中山村に疎開するが、のち久五郎も戦場に赴いた。平城は間もなく陥落し、久五郎は仙台へ落ち延びるが、父母らが行方不明となる。平に帰藩し謹慎を命ぜられ、翌年その命を解かれ、藩校・佑賢堂に入校。猪瀬伝一、伊藤祐之らの知友を得る。


1871年(明治4年)秋、伊藤と共に上京、神田駿河台のニコライ神学校に入る。1872年(明治5年)に縁あって正院の役職にあった小池詳敬の食客となり、その紹介により山岡鉄舟の門下となり、また落合直亮について国学を学ぶ。1874年(明治7年)、小池に伴われ東海道・中国・九州を歴訪するが、長崎滞在中に佐賀の乱が起こり、その一味と誤認されて牢に繋がる。獄中で歌人の丸山作楽と出遭い、短歌と国学を学ぶ。同年、台湾問題を巡る清国との対立で、憂国の士を求めて九州に至り、博多にて薩摩出身の鮫島高朗と出会い、その紹介により桐野利秋のもとに身を寄せる。1877年(明治10年)の西南戦争後、司法学校生・陸羯南や大岡育造らと交わる。同年秋に小池詳敬が死去すると、遺族6人を京都の親戚に送り届け、北陸方面に父母妹の行方を探索しながら帰京した。


翌1878年(明治11年)、日頃の軽挙妄動を戒められ、鉄舟の勧めで侠客・清水次郎長に預けられた。しかし、1879年(明治12年)5月、父母を探す目的から旅回りの写真師となるため鉄舟を保証人として写真師・江崎礼二の門下生となる。小田原で写真店を開業、本州を回るも手がかりなかった。1881年(明治14年)、次郎長の懇請と鉄舟の勧めで次郎長(山本長五郎)の養子となり、山本五郎、鉄眉と号す。次郎長の経営する富士山裾野の開墾事業の監督を務めるなど尽力するも、事業は不振を極めて閉鎖、1884年(明治17年)その養子を辞し、旧姓天田に復すと共に鉄舟の世話で有栖川宮に奉職。2年後同宮を辞し、大阪内外新報社に入社した。


その後、鉄舟の紹介で京都林丘寺の滴水禅師の許で日曜毎に参禅し、1887年(明治20年)、得度を受け禅僧となり、鉄眼と称す。1888年(明治21年)、鉄舟が死去すると追善大法会を京都相国寺で開いた。1892年(明治25年)春、京都清水産寧坂に草庵が完成し移る。この庵を愚庵と名付け、自らも愚庵と号した。その由縁は剃髪の際滴水禅師より与えられた偈文「小智を認ることなかれ、須く大愚に至るべし」から来ている。1893年(明治26年)秋から冬にかけ西国巡礼に出発、この経緯が『巡礼日記』に綴られ、翌年日本新聞社より出版される。


1896年(明治29年)、正岡子規を病床に見舞い、1900年(明治33年)には品川弥二郎と伏見桃山で観梅した。その年、新庵を同所に竣工(なお、この庵は荻原井泉水らにより、1966年に福島県いわき市に移築復元された)。


その後、病床に伏すようになり、1904年(明治37年)1月遺偈と辞世歌、遺言覚書を書し、17日法弟策堂、実堂の2人に読経させ終わらぬうちに死去した。享年51(満49)。墓は京都市右京区嵯峨北堀町の鹿王院。


逸話
通じぬ言葉平城陥落後の逃避行の山中で、5-6人の侍に「イスか」「イスか」と問われ、久五郎は何のことか分からず戸惑っていると彼らは再び「イスか」と問い直し、返答がないと一斉に刀を抜いた。それは仙台藩士たちであることに気付き「平藩だ」と叫んだ久五郎は、このとき初めて同盟軍内で決められていた敵味方識別の合言葉が「石」であることを思い出した。「イス」は「石」の訛り言葉だったのである。女狐の妖言新聞社員の頃巫女の占いで「母妹が山形にいなさる」と告げられ、居ても立ってもいられぬ五郎はその地に出掛けて尋ね回ったが手掛かりはつかめなかった。知り合いの山形県警察部長をしていた鮫島に「豪気大胆で聞こえた君が女狐の妖言に誑かされるとは面白い」と揶揄され、己の不甲斐なさを悔いたという。西国巡礼と寄進者名簿西国巡礼に先立ち愚庵は一人3銭3厘の喜捨を求め、合計51円50銭の浄財が集まった。寄進者名簿には品川弥二郎の筆で「冥土吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作…」などの名が書き連ねてあったという。


辞世の歌
大和田に島もあらなくに梶緒たえ 漂ふ船の行方知らずも


著作
・『東海遊侠伝』(1884年刊行)
・『巡礼日記』(1894年刊行)
・『愚庵全集』(1928年刊)


参考書籍
・『歌人天田愚庵の生涯』(堀治良著)同朋舎出版
・『天田愚庵-自伝と順礼日記-』(高藤武馬著)古川書房
・『歌僧天田愚庵巡礼日記を読む』(松尾心空著)すずき出版 
(wikiより)