酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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6778 大政墓(静岡市清水区南岡町3-8・梅蔭禅寺)

大政(おおまさ)[1][2][3][4][5]、村上元三の小説『次郎長三国志』に淸水の大政(しみずのおおまさ)として登場する山本 政五郎(やまもと まさごろう、天保3年 / グレゴリオ暦 1832年 - 1881年2月15日)は、かつて実在した日本の侠客である[1][3][4]。


清水次郎長配下の「清水二十八人衆」に数えられ[5]、同じく次郎長配下で同姓同名の「山本政五郎」を名乗る小政(1842年 - 1874年)[6]と区別して「大政」と呼ばれる[1][3][4]。本名は原田 熊蔵(はらだ くまぞう)[3][4]。


人物・来歴

 荒神山手打式の集合写真(明治4年)。後列左から4人目が大政。



天保3年、現行のグレゴリオ暦によれば1832年、尾張国知多郡大野湊(現在の愛知県常滑市大野町)の廻船問屋の長男、熊蔵として生まれる[3][4]。原田家は浄土宗洞仙寺(現在の常滑市大野町7丁目89番地)の山門前に位置していたという説がある[7]。大政は、通常であれば原田家の家督を相続し、廻船問屋の経営者になったはずの人物である[3][4]。小政について記している『はままつ百話』(静岡新聞社)でも、大政に触れて「元尾張藩の足軽であった」と記すが[8]、これは誤りである[3][4]。


笹川臨風は「名古屋の生れで元は田舎の力士だつた」と記し、「六尺以上」(約181センチメートル)の大男であったとする[1]。笹川によれば、小政は成人しても身長が「僅々四尺八寸」(約145センチメートル)の低身長であったとし、講談・浪曲の世界では「大政・小政」と並び称せられる二人は、体格も大きく差があったとされる[1]。1860年8月2日(万延元年6月16日)、森の石松(1833年 - 1860年)が都田村の吉兵衛(1828年 - 1861年)に殺害され、1861年2月(万延2年正月)、大政は、次郎長とともに仇討を果たしたとされる[1]。石松の没後、大政は次郎長の「一の乾分」になったと伝えられる[1]。


1866年5月22日(慶応2年4月8日)に起きた荒神山の喧嘩では、吉良の仁吉(1839年 - 1866年)[9]らとともに穴太徳一家と戦闘し、初陣を飾る若い小政の抜き打ちで喧嘩が開始され、大政は、敵将・門井門之助を倒したとされる[1][3][4][10]。荒神山の手打式は、明治維新後の1871年(明治4年)に行われ、その終了直後に撮影された清水一家の集合写真に大政はもちろん写っている。その前の1869年7月1日(明治2年5月22日)には、二代目お蝶が殺害される事件が起きている[3]。大政は、静岡県有渡郡下清水村上一丁目(現在の同県静岡市清水区上1丁目)の次郎長の家のすぐ近くに住んでいたという[3]。


二代目お蝶の事件の翌1870年(明治3年)、清水一家の最後の事件と呼ばれる事件が起きている[2]。当時、東京相撲の玉川という力士が清水に身を寄せていたが、これは師匠に虐待されたからであったが、庵原郡江尻宿(現在の静岡市清水区江尻町)で東京相撲の興行があり、力士連中が玉川を呼び出して制裁を加え、これに激怒した次郎長を筆頭に大政ら一家は相撲場に殴り込みをかけた、という事件である[2]。力士連中は断髪して詫びを入れたが、静岡藩の松岡萬が次郎長宅を訪ねて諌め、たまたま静岡にいた山岡鐵舟のもとに次郎長を連れて行った[2]。以降、次郎長一家は、富士裾野の開墾事業、横浜との定期航路線を営業する静隆社設立等の社会事業を行うようになった[2]。


平井一家三代目の原田常吉(1831年 - 1915年)に中尾霞山が聞き書きした『原田常吉実歴談』(1913年)によれば、1873年(明治6年)に常吉が次郎長と赤坂宿(現在の豊川市赤坂町)での密会がきっかけになり、次郎長は平井との和解の方向を探っていた[11]。その6年後、1879年(明治12年)、愛知郡中村大字日比津(現在の名古屋市中村区日比津町)の稲葉地一家の日比津の善七(富田善七、生年不明 - 1882年)が清水一家に逗留したとき、大政は善七に、平井一家との和解の仲裁人を選んでもらうように依頼している[11]。善七は「津坂音吉以外にはない」と津坂に打診、その間経緯があって、相の川平三、斉藤善五郎、津坂音吉の3人が立って、1880年(明治13年)6月15日、清水一家と平井一家の手打式が浜松宿(現在の浜松市)の料亭で開かれ、大政は次郎長とともに出席、平井側は初代の小中山七五三蔵(1809年 - 1899年)、二代目の雲風亀吉こと平井亀吉(1828年 - 1893年)らが出席して、和解は成立したという[11]。


次郎長(本名・山本長五郎)には実子がいなかったため、大政が養子となり山本 政五郎と名のっていたが、1881年(明治14年)2月15日、病気のため死去した[1][2][3][4]。満49歳没。静岡県有渡郡下清水村岡町(現在の同県静岡市清水区南岡町)の臨済宗妙心寺派梅蔭禅寺に葬られた[3]。戒名は「大然宜政上座」[3]。大政の没後、長男の小三郎が二代目山本政五郎を名乗ったが、1901年(明治34年)11月に亡くなった[3]。小政もすでに亡くなっており(1874年死去)、大政の没年、次郎長は山岡鐵舟の紹介で天田五郎(のちの天田愚庵、1854年 - 1904年)を養子にした[12]。


次郎長が死去したのは、小政の没後12年後の1893年(明治26年)6月12日、満73歳であった[13]。梅蔭禅寺には、次郎長、大政が眠るほか、次郎長夫人のお蝶、小政、増川仙右衛門(1836年 - 1892年)の墓もある[14]。墓所である同寺の境内には「次郎長遺物館」があり、次郎長の愛用した胴着とともに、巨大なサイズの大政の胴着が展示されている[3]。長女まさの息子であり、大政の孫にあたる豊田長吉は大政に外見がよく似た人物であったといい、静岡市内に鉄工所を興した、豊田精機の創業者であるという[3]。


フィクションの人物像
史実において「清水二十八人衆」であった時代の大政は、前述の通り、最晩年に至るまでの期間である。そもそも「清水二十八人衆」には架空の人物も数えられており、講談の三代目神田伯山(1872年 - 1932年)の創作であるとされる[15]。「尾張藩の槍組小頭」出身であり「山本流の槍の使い手」である、と多くフィクションには描かれ、特徴づけられている。


1938年(昭和13年)3月に発売されたディック・ミネの流行歌『旅姿三人男』(作詞宮本旅人、1907年 - 1982年[16])に、小政・石松とともに「三人男」として登場、「なんで大政 国を売る」と謳われる[17]。同曲は、1962年(昭和37年)1月にシングルレコードを発売した石原裕次郎のほか、1971年(昭和46年)に放映開始したテレビ映画『清水次郎長』の主題歌として、次郎長を演じた竹脇無我もカヴァー、シングルを発表した[18]。


マキノ雅弘の代表作とされる映画『次郎長三国志』(東宝、1952年 - 1954年)、『次郎長三国志』(東映、1963年 - 1965年)の2つのシリーズでは[19][20]、それぞれ河津清三郎、大木実が演じている[20]。映画『次郎長三国志』は、村上元三の同名の小説を原作にしており、第1章『桶屋の鬼吉』に始まり、『東海遊侠伝』を書いた天田愚庵(1854年 - 1904年)を描く第22章『天田五郞』、講談『名も高き富士の山本』を創作した三代目神田伯山を描く第23章『神田伯山』で終わる、全23章で構成される同作において、大政を描く『淸水の大政』は第2章『關東綱五郞』に次ぐ第3章に当たる[21]。マキノのこの2つのシリーズでは、いずれも、桶屋の鬼吉(1813年 - 1887年)、関東綱五郎(1820年 - 1886年)に次いで浪人風の男「伊藤政五郎」として登場し、妻ぬい(広瀬嘉子、小畠絹子)と別れて次郎長の乾分になり、「大政」と名を改める設定である[20]。


「酒飲みねえ、すし食いねえ、江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」で知られる二代目広沢虎造の浪曲『石松三十石船道中』の原型は、三代目神田伯山の創作である[22]。江戸っ子が石松に対し、清水一家で一番強いのは「大政、小政、大瀬半五郎、増川仙右衛門、法印大五郎、追分三五郎…」と挙げていくなかで、大政は「一の乾分」とみなされておりまず筆頭に挙げられる。16人挙げたところで、大瀬の次に石松を失念していたことを忘れていたことを思い出す、という筋である。このくだりのあった時期は、設定では「文久2年の3月半ば」、つまりグレゴリオ暦では1862年4月13日前後に当たり、史実においては石松は2年前にすでに死んでいる時期である[1]。


詳しい事は、「大政ウィキペディア」をご覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF_(%E4%BE%A0%E5%AE%A2)
(wikiより)


関連情報
https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/7795.html

6788 山田房五郎墓(静岡市清水区江尻町8-7・法雲寺)


 大政