酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


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何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

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6764 石田幽汀墓(京都市中京区錦小路通大宮西入錦大宮町154・休務寺)

石田 幽汀(いしだ ゆうてい、享保6年(1721年 - 天明6年5月25日(1786年6月21日))は、江戸時代中期の鶴澤派(狩野派の一派)の絵師。幽汀は号で、名は守直。円山応挙、田中訥言、原在中らの師として知られる。


略伝
播磨国明石郡西浦辺組西岡村(現在の明石市魚住町西岡)に橘七衛門の子として生まれる[1]。兄弟が多かったため、京都の石田半右衛門の養子となる。半右衛門の家業は明らかではないが、町年寄を務める有力者だった。半右衛門が養子をとった理由は不明だが、菩提寺の過去帳に石田夫妻の実子に関する記述がないことから、夫妻に子供が出来なかったからだと推測される。


狩野探幽の系譜を引く鶴沢探鯨に絵を学んで禁裏の御用絵師となり、宝暦7年(1757年)7月5日に37歳で法橋、さらに安永6年(1777年)9月28日法眼に叙せられている[2]。天明6年(1786年)郷里の明石で没した。享年66。墓は京都中京区の休務寺。


鶴沢派の技法を基礎に、京狩野や琳派風の豊かな装飾性と写生的な描写を加えた、濃彩緻密な画風を展開した。次男・石田友汀(叔明)、四男・石田遊汀(守善)も絵師となった[3]が、歴史的に重要なのは円山応挙、田中訥言、原在中、江村春甫、金工家の一宮長常らの師という点である。江戸初期に流行した江戸狩野と、写生や装飾、大和絵復古といった多様な展開をみせる江戸中期以降の京都画壇の間をつなぐ絵師として注目される。


代表作


脚注
1. 幽汀の子孫の証言(土居(1970))。白井華陽の『画乗要略』や、古筆了仲の『扶桑画人伝』では「京都出身」と記されているが、こちらが正しいと考えられる。

2. 野口剛 「絵師の僧位叙任をめぐる断章 --『画工任法橋法眼年月留』の紹介をかねて--」(京都文化博物館紀要 『朱雀』 第13集、2001年)。

3. 土居(1970)。

4. 『平成8年春季企画展図録 江戸期の京画壇 --鶴沢派を中心にして』pp.10-11。

5. 総本山醍醐寺 日本経済新聞社編集 『祈りと美の伝承 醍醐寺展 秀吉・醍醐の花見四〇〇年』 日本経済新聞社、1998年p5月20日、p.142-143,194。


参考文献
・土居次義 「石田幽汀考」(『近世日本絵画の研究』 美術出版社、1970年、pp.401-403)

・土居次義 「石田幽汀の二画蹟」(『花鳥山水の美』 京都新聞社、1992年、pp.165-172)

・佐々木丞平編著 『平成8年春季企画展図録 江戸期の京画壇 --鶴沢派を中心にして』 京都大学文学部博物館、1996年

・野口剛 「聖護院蔵石田幽汀筆〈須磨之図 〉屏風の主題と構図」(京都文化博物館紀要 『朱雀』 第10集、1998年、pp.51-64)

・山下善也 「石田幽汀筆《群鶴図屏風》にみられるツルの種類と制作年」(『静岡県立美術館紀要』第20号、2004年、pp.46-38)

・五十嵐公一 「石田幽汀の未紹介史料」( 兵庫県立歴史博物館紀要 『塵界』 22号、2011年、pp.3-10)