酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6760 徳川(松平)忠長供養塔(京都市左京区黒谷町121・金戒光明寺)

徳川(松平)忠長供養塔
( 1606 - 1633 )


徳川二代将軍秀忠の三男、幼名を国松あるいは国千代。


慶長十一年六月に二代将軍秀忠の三男として江戸で生まれた。


生母は正室お江与の方で、家光が乳母の春日局に育てられたのとは違い忠長は正室みずからが育てた。


幼少の忠長は、兄家光よりも活発で資質も器量もすぐれていたとみられていた。


秀忠夫婦とくにお江与の方の忠長に対する寵愛は特別なもので、この問題は将軍の世継ぎという幕府をゆるがす大問題となった。


春日局は慶長十五年伊勢神宮参拝を名分に駿府の家康のもとに出向き、世継ぎのきまりを直訴した。


家康は鷹狩りと称して江戸城へ赴き万座の中で家光を将軍家の跡継ぎであると宣言した。


これにて三代将軍は家光と決まったのである。


元和六年 ( 1620 ) 九月に竹千代十七才・国千代十五才で元服しそれぞれ家光・忠長と名付けられた。


家光は正三位権大納言、忠長は従四位下参議兼右近衛権中将となった。


元和九年秀忠は家光を連れて上洛し、将軍職を家光に譲った。


忠長は家光の将軍就任の翌年の寛永元年、甲斐・駿河・遠江の五十五万石の大大名となり従二位権大納言となった。


しかし、忠長は将軍の弟としてもっと禄高があってもいいと思い、父の秀忠に百万石もしくは大阪城を賜りたいと懇願したが聞き入れられなかった。


忠長は徐々に驕慢な行いが多くなり、寛永三年に母お江与の方が亡くなるとますます乱れて、酒を飲んで暴れたり、諌言する家臣を手打ちにしたり、殺生を禁止している浅間山で猿狩りをしたりしたついに寛永八年五月に幕府から甲府に蟄居せよとの命令が下された。


寛永九年正月に父秀忠が没するとますます事態は悪くなり、十月に領地没収され上州高崎安藤右京亮重長に預けられ寛永十年 ( 1633 ) 十二月六日自刃して果てた。享年二十八であった。


戒名は峯巌院殿前亜相晴徹暁雲大居士で墓は高崎の大信寺に造られたが、春日局はこの一件に関して責任の一端はあるとしてお江与の供養塔を建立したのを機会に忠長の供養塔も建立した。
(案内板より)