酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6731 サイド・オマールの墓(京都市左京区一乗寺小谷町13・圓光寺)

● オマールの墓
大東亜戦争が酣 ( たけなわ ) の、昭和十八年六月、当時東条英機軍事内閣の要請で、南方特別留学生の一人としてサイド・オマールは来日した。


彼は、大東亜共栄圏の同盟国であるマレーシア・ジョホール州の出身で、祖父はジョホール州の首相をつとめ、その一族は政治、経済、教育の分野で名をなしていた。


恵まれた環境に生まれたオマール自身も、優れた資質を備え、人々の期待を担っていた。


オマールは広島大学在学中の八月六日、原子爆弾に被爆した。


彼自身も重傷だったのに大八車で広島市民の重い被爆者の救護にあたった。


米軍司令部の命により、オマールは京都まで来たが症状が重く京大病院に運ばれたが、既に末期症状であった。


昭和二十九年九月三日、京都を終焉の地として、オマールは十八才の生涯を閉じた。


東条内閣に依り、来日した留学生は、昭和十八年に来日した一期性と昭和十九年の二期生だけを南方特別留学生という。


● 墓地建立の経過
被爆後、東京に戻る途中京都で下車、京大病院に入院するも手当の甲斐なく一週間後に死亡、当時の市営墓地であった南禅寺、大日山に埋葬された。


昭和 35年この事が週刊誌に掲載され、事情を知った八瀬平八茶屋の主人が弟の故園部健吉に墓の建立を依頼、遺族の許可を得て昭和 36年の彼の命日の 9月 3日にイスラム教式の墓碑を善意ある市民の協力のもとで建立された。
(案内板より)


オマール君


君はマレーからはるばる日本の廣島に勉強しに来てくれた


それなのに君を迎えたのは原爆だった嗚呼實に實に残念である


君は君の事を忘れない日本人あることを記憶していただきたい


武者小路実篤
(石碑碑文より)


 サイド・オマール