酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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6689 施薬院全宗墓(京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町13・十念寺)

施薬院 全宗(やくいん ぜんそう、大永6年(1526年) - 慶長4年12月10日(1600年1月25日))は戦国時代から安土桃山時代にかけての医者。


豊臣秀吉の側近。姓は「せやくいん」とも。丹波氏の出身。号は徳運軒。


生涯
大永6年(1526年)、平安時代の名医・丹波康頼の二十世の末裔として生まれる。祖父・宗清、父・宗忠ともに権大僧都法印となっている。元々比叡山菜樹院の住持であったが、織田信長による比叡山焼き討ちの後、還俗して曲直瀬道三に入門し、漢方医学を極める。


後、豊臣秀吉の知遇を得て侍医となり、秀吉が天下人になるに伴い、天正年間に勅命を受けて施薬院使に任命、従五位下に叙され昇殿を許される。同時に姓を「施薬院」とした。施薬院は奈良時代光明皇后による創建以来、800年の時を経て完全に形骸化していたため、復興に尽くし、身分の上下を問わず病の人々へ薬を授けた。


また医師でありながら秀吉側近としても活躍し、伊達政宗・佐竹義重との交渉役などを務めている。天正15年(1587年)発布の定(バテレン追放令)は全宗の筆による。荒廃した比叡山の再興にも尽力した。のち正四位に陞爵。慶長4年(1600年)没。享年74(一説に69ともいう)。


妻は永原実賢の娘。一男(施薬院秀隆)一女がいたが、共に全宗より先に没した。そのため近江の三雲宗伯を養子とした。子孫は代々施薬院使を務めた。


登場作品
・火坂雅志 『全宗』 小学館、1999年3月。ISBN 4-09-379161-9。
・火坂雅志 『全宗』 小学館〈小学館文庫〉、2002年6月。ISBN 4-09-408011-2。


参考文献
・「施薬院全宗」『戦国人名事典』 阿部猛・西村圭子 編、新人物往来社、1987年3月、785頁。ISBN 4-404-01412-0。
・小曾戸洋執筆 「施薬院全宗」『国史大辞典』第14巻(やーわ)、吉川弘文館、1993年4月。ISBN 4-642-00514-5。
・田中雅明執筆 「施薬院全宗」『戦国人名辞典』 吉川弘文館、2006年1月、981頁。ISBN 4-642-01348-2。


参考論文
・宮本義己「豊臣政権の医療体制―施薬院全宗の医学行跡を中心として―」(『帝京史学』2号、1986年)


関連項目
・丹波氏


外部リンク
・世界大百科事典 第2版『施薬院全宗』 - コトバンク
(wikiより)


関連情報
https://drunkenjohnny.muragon.com/entry/3689.html

3427 初代・曲直瀬道三顕彰碑(上京区寺町通今出川上ル鶴山町13・十念寺)


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4360 曲直瀬道三墓(上京区寺町通今出川上ル鶴山町13・十念寺)