酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

73 前原伊助宗房墓

前原 宗房 (まえはら むねふさ、寛文4年(1664年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は伊助(いすけ)。


生涯
寛文4年(1664年)、浅野家家臣・前原自久の長男として赤穂藩浅野家江戸上屋敷に生まれる。


延宝4年10月9日1676年11月14日)、父・自久の死により元服のうえ家督を継いだ(10石3人扶持)。宗房は江戸詰めの金奉行(蔵奉行とも)として勤仕したため、財政に明るかった。これが後に商人に成りすます際に大いに役に立った。


元禄14年3月14日1701年4月21日)に起きた主君・浅野長矩吉良義央への刃傷の際に前原は江戸にいた。その後、江戸急進派として行動し、はじめ大石良雄らの盟約に加わらず、別行動をとった。はじめ日本橋あたりに住んでいたが、9月には吉良邸裏門近くの本所相生町二丁目に移住して「米屋五兵衛」と称して店を開業しながら吉良家の動向をさぐった。11月に良雄が第一次江戸下向をした際にその盟約に加わる。元禄15年(1702年)4月には「小豆屋善兵衛」と称していた神崎則休と合流して一緒に暮らした。6月には浅草茶屋にて杉野次房武林隆重倉橋武幸不破正種勝田武尭らと同盟の誓約をする。また討ち入りの直前には亡君刃傷から討ち入りまでの経過を漢文体で書き綴った『赤城盟伝』を著しており(則休が注釈をいれ、木村貞行が序文を寄せた)、このなかで脱盟者のことを辛らつに評している。


吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属した。本懐後は長府藩毛利家に預けられ、元禄16年2月4日1703年3月20日)に毛利家家臣・榊政右衛門の介錯で切腹した。享年40。主君・長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃補天剣信士。


なお、『忠臣蔵』のドラマでは、宗房は吉良邸探索中に小林平八郎清水一学に察知されて拷問を受ける場面を描かれること多いが、特に史実に基づく確証がある話ではない。


関連項目
大石神社
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/15.html
12 大石良雄外十六人忠烈の跡(港区高輪1・高輪1丁目アパート)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/28.html
25 赤穂浪士ゆかりの寺(台東区谷中5-8・観音寺)


 

 前原伊助宗房









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