酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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6605 白子屋お熊墓(港区芝公園1-8-9・常照院)

 白子屋お熊供養之碑 建立
常照院には、城木屋お駒として名高い、白子屋お熊の墓があります。


遺骨は、昭和九年の墓地改葬に伴い、当院墓地の無縁塔に合祀しました。


墓石は残りましたが、先の戦災で火に焼かれ、近年破砕がひどく、戒名等も一部しか判読できない状態となりました。


そこで、昭和六十一年が、お熊の二百六十回忌に相当いたしましたので墓石の一部を復元し、供養碑を建立しました。


願わくば、これが江戸時代の当院を偲ぶよすがともなり、現在・未来へ歴史的事件を伝えていく記念碑になれば幸いです。


 白子屋一件
この事件は、享保十一年(一七二六)丙午年十月二十日に、町奉行大岡越前守忠相御役中に訴え出られた事件である。


江戸日本橋にある新材木町に白子屋庄三郎の営む材木問屋があった。


その娘・くまは、下女・ひさの取持ちで、その店の手代・忠八と密通し、按摩の玄柳を利用して養子・又四郎の毒殺を企てた。


母・つねも、下女・きくに、又四郎との密通の疑いを掛け、それを晴らすなら、又四郎を刃物で襲えと迫り、享保十一年十月十七日暁、下女・きくは寝床を襲い又四郎の頭等にき疵を負わせた。


事件は、発覚し、御吟味となり、翌十二年(一七二七)二月御裁許済んで、二十五日御仕置落着となった。


各人の仕置は、下女・きく(一七)死罪、下女・ひさ(三二)町中引廻しの上死罪、按摩横山玄柳(三八)江戸追放、母・つね(四八)遠島、父・庄三郎(六三)江戸払、手代・忠八(三七)町中引廻しの上浅草にて獄門、くま(二三)町中引廻しの上浅草にて獄門であった。


くまは、裸馬に乗せられ町中引廻しの時黄八丈の着物を着ていて、人目を魅く容姿で、見物人の興味を誘ったという。黄八丈は、この時以来しばらく忌み嫌われ、


  材木が八丈を着て名を残し
  江戸中の質の流るる黄八丈


などの川柳が残されている。また、安永四年(一七七五)城木屋お駒の「恋娘昔八丈」として浄瑠璃にも組まれ、更に、明治六年河竹黙阿弥によって「梅雨小袖昔八丈」と題された歌舞伎に作られている。


 くまの遺骸は、首を継がれ、施主の願により常照院に葬られた。
   
享保十二年丁未年二月二十五日寂   二十三才
     
法号 浄誉慈月晴雲信女
(常照院ホームページより)


 白子屋お熊
白子屋 お熊(しらこや おくま、元禄16年(1703年) - 享保12年2月25日(1727年4月16日))は、江戸日本橋新材木町の材木問屋「白子屋」の長女。父は店主白子屋庄三郎、母はつね、婿として又四郎を迎える。


享保11年10月17日(1726年11月10日)に発生した「白子屋事件」の計画犯の一人で、同年12月7日大岡忠相の判決が下り、翌年2月25日に市中引き回しの上獄門に処せられた。享年23。首は浅草で晒されたのち引き取られ、現在、東京都港区にある常照院に墓所がある。


お熊と白子屋事件は、後世に演劇・芸能の題材とされ、安永4年(1775年)に発表された人形浄瑠璃『恋娘昔八丈』のヒロイン・白木屋お駒のモデルにされたり、河竹黙阿弥作の歌舞伎『梅雨小袖昔八丈』のヒロインとして登場したりしている。


白子屋事件
享保11年10月17日の早朝、就寝中であった新材木町の材木問屋「白子屋」の娘・くまの夫である又四郎が、白子屋の下女・きく(当時16歳)に頸部を剃刀で切りかかられて抵抗したところ、頭部に傷を負った。又四郎の傷は浅く、きくを取り押さえた後助けを呼んだため、大事には至らなかった。


白子屋側は、又四郎の実家に示談を持ちかけたが、同家は又四郎・くま夫婦の不仲が噂になっていること、きくの犯行動機が不明であることから白子屋を怪しみ、10月20日に、町奉行所に事件の調査を訴え出た。奉行所が下手人であるきくを取り調べたところ、きくはつねに犯行を教唆されたことを自白した。きくの証言を得た奉行所が、つね・くま母子を問い詰めると、又四郎の殺害計画を自供した。


そもそもくまと又四郎の婚約は、当時資金繰りに苦しんでいた白子屋が、大伝馬町の資産家の息子であった又四郎の結納金目当てで取り決めたことであった。くまは夫を嫌い、結婚後も古参の下女・ひさに手引きをさせて手代の忠八と関係を持っており、母のつねも娘の密通を知りながらこれを容認していた。くまは離縁を望んでいたが、又四郎と離縁すれば金を返さねばならず、「又四郎を病死に見せかけて殺せば、金を返さず忠八と結婚できる」と考え、共に殺害計画を練るようになった。


最初は病死に見せかけた毒殺を計画し、出入りの按摩であった横山玄柳という盲人を騙して又四郎に毒を盛らせたが、彼は体調を崩すに留まり、死に至らなかった。毒殺計画が失敗したことによって焦ったつねとくまは、きくを脅して又四郎に切りかかるように仕向けたが、これも前述の通り失敗して殺害計画が露見、白子屋の関係者は各々裁かれることとなった。


妻子の監督を怠り、世間を騒がした罪を問われた店主・庄三郎と、事件に加担した按摩の横山玄柳は江戸所払いとなり、下手人のきくは死罪、密通をそそのかした罪でひさは町中引廻しの上死罪、密通の罪で手代忠八は町中引廻しの上獄門、従犯のつねは遠島、主犯であるくまは密通と夫の殺害未遂という重罪を問われ町中引廻しの上獄門と仕置が下った。


くまは結婚前から日本橋中でも美貌で知られており、引廻しの際は評判の美貌の悪女を一目見ようと沿道に観衆が押し掛けた。裸馬に乗せられたくまは観衆の期待に応えるように、白無垢の襦袢と中着の上に当時非常に高価であった黄八丈の小袖を重ね、水晶の数珠を首に掛けた華やかな姿で、静かに経を唱えて落ち着いた様子であったという。


殺害が未遂に終わったとはいえ、主犯のお熊の美貌や処刑時の派手なパフォーマンスなどから江戸で大変な波紋を呼び、『近世江都著聞集』、『享保通鑑』、『兎園小説余録』、『江戸真砂六十帖広本』、『武江年表』などに事件が取り上げられている。


参考資料
・中江克己『江戸の醜聞事件帖: 情死からクーデターまで』学研文庫
(wikiより)


 白子屋お熊