酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

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どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6594 立川談志墓(文京区向丘2-17-4・浄心寺)

7代目(ただし自称5代目)立川 談志(たてかわ だんし、1936年〈昭和11年〉1月2日 - 2011年〈平成23年〉11月21日)は、東京府小石川区(現:東京都文京区)出身の落語家。落語立川流家元。本名、松岡 克由(まつおか かつよし)。血液型AB型[要出典]。


古典落語に広く通じ、現代と古典との乖離を絶えず意識しつつ、長年にわたって理論と感覚の両面から落語に挑み続けた。古典落語を現代的価値観・感性で表現し直そうとする野心的努力が高く評価されたが、その荒唐無稽・破天荒ぶりから好き嫌いが大きく分かれる落語家の一人でもあった。落語のみならず、講談、漫談をも得意とするなど、芸域の広さで知られた。初高座は新宿末廣亭における『浮世根問』。


自ら落語立川流を主宰し、「家元」を名乗る。出囃子は「あの町この町」「木賊刈」(とくさがり)。5代目三遊亭圓楽、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝没後は8代目橘家圓蔵)と共に「江戸落語若手四天王」と呼ばれた。


参議院議員(1期)、沖縄開発庁政務次官(三木内閣において36日間)、サイバー大学客員教授などを歴任した。


来歴
入門〜真打昇進
1936年1月2日、東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区白山)に生まれる。終戦後は結婚まで鵜の木に居住していた。


1952年、東京中学校卒業。先輩に安藤鶴夫、牧伸二がいる。同年4月、東都高等学校を中退後、16歳で5代目柳家小さんに入門。本名の「克由」の一字を取って、柳家小よしと名乗る。1954年3月、二つ目昇進し柳家小ゑんに改名。寄席のほかに日劇ミュージックホールや新宿松竹文化演芸場にも定期的に出演し、コントや漫談も披露。スタンダップコメディを演じる際には赤シャツにジーパン姿がトレードマークだった。


1962年、入門が5年遅い古今亭朝太(後の3代目古今亭志ん朝)が「36人抜き」で小ゑんよりも先に真打に昇進し、生涯最大の屈辱を味わう。1963年4月、立川談志を襲名し、真打に昇進。同時に小さん門下から5代目柳家つばめも真打に昇進した。


なお、小ゑんが立川談志の5代目を自称した経緯は次の通り。明治時代の寄席で人気を博していた4代目が初代を称しており、小ゑんの先代にあたる6代目がそれに倣って4代目と称していたようなので、小ゑんは5代目というのは語呂が良く、さらに師匠5代目柳家小さんと代数が合うので丁度いいということで、5代目を名乗ることになったという[1]。


『笑点』立ち上げ
1966年5月15日、『笑点』(日本テレビ)が放送開始。1969年11月2日まで初代司会者を務める。後に、『笑点』放送100回記念放送では桂歌丸と異色漫才を披露した。後年、「『笑点』ってのはよう、アタシが作った傑作なんだよ」と語った通り、『笑点』は談志が自ら企画して実現したものである。


初代メンバーの1人で後に司会を務めることとなった5代目三遊亭圓楽が『いつみても波瀾万丈』で語ったところによると、談志が5代目圓楽に「寄席でやっている大喜利をテレビでやろうじゃないか」と持ちかけたのが番組開始の端緒だという[2]。持ちかけた末に生まれた番組が前身番組の『金曜夜席』で、隔週金曜深夜に放送された番組であった。当初は談志が演芸コーナーの司会で、5代目圓楽が大喜利コーナーの司会というローテーションだったが、後にどちらとも談志に統一された[3]。前身番組の時点で『笑点』の基礎が固まり、そのまま日曜夕方の番組としてスタートしたのである。笑点の司会では、持ち前のブラックユーモアを生かした、機知に富んだ掛け合いを演じた[2]。しかし視聴率が伸び悩み、またこれに伴い、初代レギュラー陣との関係も悪化したため、最終的には暫時的な新レギュラー期間を挟んで、談志自身が降板を余儀なくされた[2][4]。


談志は降板後も特別番組の時には何度か出演したが、2000年代以降は完全に距離を置き、そのまま他界した。


一方で、『笑点』の企画自体の思い入れがあったためか、2001年 - 2003年頃には『特冊新鮮組』(竹書房の隔週刊娯楽雑誌)で「大笑点」という投稿コーナーを企画(2006年 - 2008年の元日に日本テレビで放送された『同名番組』とはまったく関係がない。2002年には書籍化)し、2005年10月開始の『談志の遺言』(TBSラジオの番組)には「おれとお前の笑点」という投稿コーナーを設けていた(2006年3月の一時終了まで存在した。同年10月の再開時には消滅)。


政治活動
1969年、第32回衆議院議員総選挙に東京8区から無所属で出馬するも落選。定数3のところ、19,548票で立候補者9人中6位であった。


同年、ニッポン放送にて、月の家圓鏡(現:8代目橘家圓蔵)と木魚を叩きながらナンセンスなやりとりをするラジオ番組『談志・円鏡 歌謡合戦』がスタート。人気番組となり、1973年まで放送された[5](のちに、舞台やテレビ番組などで、何度も「再現」している)。


1971年、第9回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬、初当選。当時の全国区で50人中50位の最下位当選だったが、その際のインタビューで「寄席でも選挙でも、真打は最後に上がるもんだ」という言葉を残す。直後に自由民主党に入党した(本人によれば、談志の自民党入りを要請するために訪れた佐藤栄作が座布団から降りて小さんに頭を下げたため、小さんが談志に自民党入りを促したという)。国会質疑ではNHK受信料問題などを取り上げた。


1975年12月26日、三木内閣の沖縄開発政務次官に就任するが、就任時の会見で議員の選挙資金について「子供の面倒を親分が見るのは当然」と発言したことが問題化。さらに、政務次官初仕事である沖縄海洋博視察では二日酔いのまま記者会見に臨み、地元沖縄メディアの記者から「あなたは公務と酒とどちらが大切なんだ」と咎められる。これに対して「酒に決まってんだろ」と返したことがさらに問題となる。さらに詰問する記者に対し、退席を命じ、会見を打ち切ろうとしたため批判を浴びた。弁明を行うはずの参議院決算委員会を寄席を理由に欠席するに至って、自民党内部からも反発が起こり辞任。在任期間は僅か36日であった。談志自身は、議員になったのは兼職をしてもいいと言われたからであり、自分は大衆との接点を持ち続けるのが信条だとして、自民党も離党した。この時、親交がある石原慎太郎から「謝罪したらどうだ」と説得されたが拒絶している。


参議院議員2期目を目指し、全国区から東京地方区への鞍替え出馬を予定していたが、直前で出馬を取りやめ、議員活動は参議院議員1期6年だけで終わった。本人曰く「政治家としての経歴がマイナスになるのは俺ぐらいだろう」と振り返っていた。


政治思想的には保守寄りであった。在任中は日本共産党議員への野次に力を入れていたことにより、共産党支持者の8代目林家正蔵(後の林家彦六)(ただし、共産党のイデオロギーに共感したわけではなく、本人は判官贔屓としている)と、野次があるたびに喧嘩をしていた模様である(ただし、彦六は談志の選挙を手伝っていた。談志も、国会の決算委員会で国鉄問題の際に「通勤定期を通勤のみに使い、外出など私用な目的には定期を使わずに運賃を払っている人物」の例として彦六を取り上げており、議事録にも残っている[6])。政界を退いた後も自民党を中心とする保守系政治家との親交を深め、保守系議員の選挙応援などにもしばしば動いた。


その反面、元社会党衆議院・参議院議員上田哲の選挙応援に動いたこともある。談志によると「議会には反対派も必要だ」とのことだが、政治レベル以外での個人的な交友関係による支援と思われ、上田も立川流の高座に上がったこともあるほか、医師・作家のなだいなだの提唱した老人党に賛同、談志・西丸震哉と「老人党東京」(3人の共同代表)を旗揚げした。


落語立川流創設
1978年、6代目三遊亭圓生ら三遊派が落語協会脱退。落語協会分裂騒動となる。この脱退については諸説あり、落語史としても今なお不透明な部分が多い。談志と5代目圓楽を黒幕とする説が多数説(5代目圓楽は著書で、新協会設立の話を圓生に持ちかけたのは談志であると述べている。志ん朝の香盤を下げるために仕組んだとする見方もある)だが、反響の大きさに慌てる談志の姿が目撃されてもいる。また、参加しないと思われていた志ん朝が参加してしまったため、慌てて参加を取りやめたとの説もある。川柳川柳の著書によると、談志は脱退した三遊派で構成される「三遊協会」の次期会長は自分だと思い込んでおり、圓生に確認したところ、「次は志ん朝だ」と答えられたため、思惑が外れて計画から手を退いたという。金原亭伯楽の著書にも同趣旨が記述されている。


1983年、落語協会真打昇進試験制度運用をめぐり、当時落語協会会長であった師匠・小さんと対立。同年、落語協会を脱会し、落語立川流を創設して家元となる。


1992年、瀬戸内海のホホジロザメが人を襲う事件があり、当時、明治大学替え玉受験疑惑で芸能活動謹慎中であったなべおさみと「シャークハンター必殺隊」を結成、鮫のぬいぐるみのついた野球帽をかぶって現地入りし、現地の人たちから顰蹙を買い罵声を浴びた。1995年、新潟県西蒲原郡岩室村夏井(現:新潟市西蒲区夏井)に田んぼを持つ。「談志の田んぼ」と称し、以降、田植えと稲刈りをほぼ毎年行い、年によっては岩室温泉での落語会も行った。


1997年、食道癌を外科手術により摘出。以降の人生を癌との戦いに費やすことになる。1998年9月、食道癌(一説に喉頭癌とも)の手術を受ける。


1999年、長野県飯田市での高座にて、落語を上演中に居眠りしていた客一人を注意して退場を勧告した。後日、その客がその高座の主催者を相手取り、「落語を聴く権利を侵害された」として民事訴訟を起こすも、請求は棄却された。


メディアへの再登場
2004年、TOKYO MXにて、野末陳平とともにトークバラエティ番組『談志・陳平の言いたい放だい』を開始。番組は2008年まで続いた。同番組は2007年6月からYouTubeでも公式に視聴することが可能となっている。同番組の共演者である吉村作治との交流が深まったためか、吉村が学長を務めるサイバー大学では客員教授を務めた。受け持ち科目は共通科目の「落語と文化・文明論」であった。


2005年4月、NHKラジオ第1放送にて、ラジオ創世記の名番組のリメイク『新・話の泉』(『おしゃべりクイズ疑問の館』の枠で月一回放送)が放送開始され、番組レギュラーを毒蝮三太夫、山藤章二、松尾貴史、その他ゲストとともに務めた。


2007年10月6日、爆笑問題の太田光とともに『立川談志・太田光 今夜はふたりで』に出演。番組は2008年3月30日まで続いた。以前は2005年10月6日から、ナイターオフシーズン(10月 - 3月)に放送されていた『おとなの時間割「談志の遺言」』(TBSラジオ火曜21時 - 22時)に出演していた。また過去に、文化放送で放送された『立川談志 最後のラジオ』にも出演していた。


2007年に入ってからテレビで再びコメントを求められるようになり、『筑紫哲也NEWS23』に出演、「私の多事争論」で病欠の筑紫哲也をサポートしてみせた。『情報プレゼンター とくダネ!』では、直接ではないものの5代目柳家小さんの孫・柳家花緑と共演している(花緑の受け持ちコーナー「温故知人〜天国からのメッセージ」で生前親交のあった横山ノックを取り上げた際、ゆかりの人物としてVTR出演した)。


2008年3月9日、NHK BShiで『立川談志 きょうはまるごと10時間』放送。以前放送された『わが心の旅』『HV特集 71歳の反逆児・素顔をドキュメント』、毎日放送(MBS)『情熱大陸』を含む、インタビューや密着ドキュメント、『居残り佐平次』の高座などが放送された。


闘病と死
2008年5月、喉にポリープの疑いがあると診断され、検査を受ける。6月3日、自宅からほど近い日本医科大学付属病院に一泊二日の検査入院したが、「20日間は入院が必要」と医師に言われる。6月18日、退院。入院の間は病院から落語会やテレビ収録に行っていたという。この頃以降、高座でもそれ以外でも発声が極端に苦しくなり、力がなくしわがれた聞き取りづらい声に変わっていった。


10月14日、喉頭癌を発病したことを『サライ』大賞授与式で告白。癌の発病箇所は声門であり、声帯摘出以外に完治の見込みはなかった。


2009年8月26日、長期休養を発表。予定されていた出演をすべてキャンセルとする。理由は体力の低下と持病の糖尿病治療であると発表していたが、実際は癌により発声が困難になったためと推測される。当初、本人は事務所に引退を切り出したというが、事務所の説得で休養という形に落ち着いた。同年12月1日、NHKラジオ第1放送公開収録番組『新・話の泉』に別録りのインタビューという形で出演。実際の公開収録舞台には談志の写真ボードが置かれた。その後も体調は好転せず、2010年冒頭に入院することが決定したことなどを受け、12月28日、休養期間を約3か月延長すると発表する。


2010年3月2日、6代目三遊亭円楽襲名披露パーティーに姿を見せ、挨拶する。パーティーで同席した桂歌丸は「生きている談志さんにお会いできたことが嬉しかった」とコメントし、談志との再会を喜んだ[7]。


同年4月13日には8か月ぶりに高座に復帰し『首提灯』を披露するも、11月に声門癌再発を確認。この時は声帯摘出手術を本人が拒否した。12月には『芝浜』ほか3席を熱演したが、「3席もった喉と体に素直に感謝しています」といつもの談志節は鳴りを潜め、落語家としての無上の喜びを打ち明けた。


2011年3月6日、川崎市・麻生市民館麻生文化センターでの「立川談志一門会」にて、咳き込みながら『長屋の花見』『蜘蛛駕籠』を披露。これが談志にとって生涯最後の高座となった。3月21日、入院。ストレス性胃潰瘍と公表していたが、実際には声門癌の進行による呼吸困難症状が発生し、気管切開手術(声帯にメスを入れる)で一命を取り留めたものの、この手術によって、ほとんど声が出せない状態となっていたと推測される。退院後、以降のすべての仕事をキャンセルしたと発表し、現実にその死まで一切仕事は行わなかった。


5月21日の『立川キウイ真打昇進記念パーティー』は演芸関係者だけではなく一般参加者の募集も行われ、事務所の「すべての予定のキャンセル」発表後も談志出席のまま告知が続けられていた。さらにキウイも問い合わせに対し「師匠からは出席の返事をいただいています。」と回答していたため、パーティへの出席の期待は高かった。しかし談志は会場に姿を見せず、「(5月2日に死亡したとされる)ビンラディンの喪に服するため」との欠席理由が発表された。続くキウイの真打披露興行(6月30日・7月19日)にも登場が告知されていたが、会場に足を運ぶことはなく、弟子の真打昇進記念パーティー・興行を欠席した唯一の例外となった。


10月27日、昏睡状態に陥る。この日を最後に、意識が回復することはなかった。11月21日午後2時24分、家族に看取られて死去。死因は喉頭癌[8]。75歳没。


詳しい事は、「立川談志ウィキペディア」をご覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E8%AB%87%E5%BF%97
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/219.html

215 三代目・三遊亭歌笑塚(三ノ輪・浄閑寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/544.html
530 いかりや長介墓(葛飾区小菅4-20-35・蓮昌寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/600.html
569 五代目・三遊亭圓楽墓(足立区東伊興4-5-5・易行院)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1132.html
1047 四代目・桂三木助墓(台東区谷中5-8-28・観音寺)


 立川談志