酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


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6565 山本周五郎墓(鎌倉市十二所512・鎌倉霊園)

山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)は、日本の小説家。本名、清水 三十六(しみず さとむ)。


年譜
・1903年(明治36年)6月22日、山梨県北都留郡初狩村(現:大月市初狩町下初狩)に生まれる[1]。父は清水逸太郎、母は「とく」(旧姓・坂本)[2]。周五郎は長男(弟の潔、義妹の末子がある。[3])[4]。本籍地は北巨摩郡大草村(韮崎市大草町)で、周五郎は後に自らの出生地を同地と語っている[5]。実家は武田の遺臣で、北多摩の大草村若尾(現韮崎市大草町若尾)に帰農した御蔵奉行清水大隅守政秀の後裔であろうとの言い伝えもある[6]。


・1907年(明治40年)、山梨県では8月21日から降り続いた大雨により明治40年の大水害が発生する。大水害では甲府盆地東部の笛吹川流域を中心に多大な被害を出し、郡内でも初狩村が壊滅的被害を受け、周五郎の一家は大月駅前に転居していたため難を逃れるが、大水害で祖父の伊三郎、祖母の「さく」、叔父の粂次郎、叔母の「せき」を失っている[7]。大水害後、一家は北豊島郡王子町豊島(現:東京都北区豊島)に転居する。


・1910年(明治43年)
7歳で東京府北豊島郡王寺町・豊島の豊島小学校に入学した。8月10日、荒川が氾濫し住居が浸水し大被害を受ける。同年秋から神奈川県横浜市久保町(現・神奈川県横浜市西区久保町)に転居。西戸部小学校に転校した。翌1911年(明治44年)学区の編成替えで横浜市立尋常西前小学校2年に転学した。父は繭の仲買を営んでいた。また、輸入用麻製真田紐の巻き取り、生糸の仲買、小口金融業、小料理店甲子屋の経営、三業組合書記などの職を転々とした[8]。


・1911年(明治44年)
4年生の時、担任の先生から小説家になれと励まされ、志望するようになった。以来、学校新聞の責任を命じられたり、6年生の時には、級友の作文・図画を集めて回覧雑誌を作った。自分で雑誌の表紙を描き、扉絵には詩を付けたりした[9]。


・1916年(大正5年)
横浜市立尋常西前小学校(現横浜市立西前小学校)卒業。卒業と同時に東京木挽町二丁目(現:銀座二丁目)にあった質店の山本周五郎商店に徒弟として住み込む。


・1923年(大正12年)
徴兵検査を受けたが、眼力が問題となり丙種合格で免れる。同年9月1日の関東大震災によって山本周五郎商店も被災しいったん解散となる。その後豊橋、神戸に転居。


・1924年(大正13年)
再び上京。帝国興信所(現:帝国データバンク)に入社。文書部に配属。その後帝国興信所の子会社である日本魂社に転籍。


・1926年(大正15年・昭和元年)
『文藝春秋』4月号に『須磨寺附近』が掲載されこれが文壇出世作となる。
10月20日 - 脳溢血で母・とく死去。


・1928年(昭和3年)
千葉県東葛飾郡浦安町(現:浦安市)に転居。
10月 - 勤務不良により日本魂社から解雇される。


・1929年(昭和4年)
東京虎ノ門に転居。


・1930年(昭和5年)
11月 - 宮城県亘理郡吉田村(現:亘理町)出身の看護婦・土生きよいと結婚。2男2女を儲ける。


・1931年(昭和6年)
東京馬込東に転居。空想部落と称された馬込文士村の住人となる。尾崎士郎、鈴木彦次郎の両人の推輓で講談社の時代小説を書くようになった[10]。


・1932年(昭和7年)
『キング』(講談社)に度々時代小説を執筆するようになった。当時の大衆雑誌『キング』は「1928年(昭和3年)」140万部と雑誌界の首位にあった[11]。
5月 - 「だだら団兵衛」執筆、それまでは博文館の『少年少女 譚海』を中心に少年探偵ものや冒険活劇を書いていた[12]。


・1934年(昭和9年)
6月26日 - 中風で父・逸太郎死去。


・1936年(昭和11年)33歳、講談社からは新進作家としてあつかわれ、講談社発行の『婦人倶楽部』・『少年倶楽部』・『講談倶楽部』・『少女倶楽部』などのほとんどの雑誌に作品が掲載された。当時の周五郎は、むしろまじめで几帳面な、そしてコツコツと鍛練を重ねる、真摯な作家であった[13]。
博文館が、周五郎の「大人向け」作品を掲載しだした。それまではほとんどが少年少女小説であった[14]。


・1942年(昭和17年)39歳
『婦人倶楽部』に各藩の女性を扱う「日本婦道記」(6月から12月までの7回掲載)が企画された。周五郎は3回(「松の花」*「梅咲きぬ」*「箭竹」、全くの創作で架空の女性を描いている)担当し、後の4回(すべて実在の人物で世にほどほどに知られている人物)は他の作家が担当した。『主婦之友』の「日本名婦伝」(吉川英治)に倣っている[15]。


・1943年(昭和18年)40歳
第17回直木賞に『日本婦道記』が選ばれるが辞退[16]。[17]。[18]。周五郎の年間執筆数の約6割~7割が講談社の雑誌に掲載され、その大半が『婦人倶楽部』の「日本婦道記」であった。この執筆が作家的飛躍に繫がったと考えられている[19]。


・1945年(昭和20年)
5月4日 - 膵臓癌で妻・きよい死去(享年36)。


・1946年(昭和21年)
自宅の筋向いに住んでいた吉村きんと再婚。横浜市中区に転居。


・1948年(昭和23年)
春 - 旅館「間門園」(神奈川県横浜市中区本牧間門51付近)を仕事場とする。


・1959年(昭和34年)
『樅の木は残った』が毎日出版文化賞に選ばれるが辞退する。


・1961年(昭和36年)
文藝春秋読者賞に『青べか物語』が選ばれるが辞退。


・1967年(昭和42年)
2月14日 - 間門園別棟で肝炎と心臓衰弱のため死去。享年64(満63歳)。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園。戒名は恵光院周嶽文窓居士。


ペンネームの由来
ペンネーム「山本周五郎」の由来として(他のペンネームとして、俵屋宗八[20]・俵屋宗七・横西五郎・清水清・清水きよし・土生三・佐野喬吉・仁木繁吉・平田晴人・覆面作家・風々亭一迷・黒林騎士・折箸闌亭・酒井松花亭・参々亭五猿を用いた)、自身の出世作となった『須磨寺附近』(『文藝春秋』1926年[昭和元年])を発表する際に本人の住所「山本周五郎方清水三十六」と書いてあったものを見て、文藝春秋が誤って山本周五郎を作者名と発表した説がある[21]が、以前にも山本周五郎をペンネームとして使用していた形跡があり定かではない。しかしながら雇主であった店主の山本周五郎は、自らも酒落斎という雅号を持ち文芸に理解を持っていた。そのため、周五郎を文壇で自立するまで物心両面にわたり支援し、正則英語学校(現正則学園高等学校)、大原簿記学校にも周五郎を通わせている。ペンネームにはそのことに対する深い感謝の念が込められていたと思われる。講談社には時代小説を書くと決めていたらしく、山本周五郎のペンネームだけを使った[22]。


詳しい事は、「山本周五郎ウィキペディア」をご覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%91%A8%E4%BA%94%E9%83%8E
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1607.html
1493 早乙女貢墓(会津若松市東山町石山天寧 208・天寧寺)


 山本周五郎