酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

酔いどれJohnnyで御座います

小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6561 鶴田浩二墓(鎌倉市十二所512・鎌倉霊園)

鶴田 浩二(つるた こうじ、1924年(大正13年)12月6日 - 1987年(昭和62年)6月16日)は、日本の俳優、歌手。本名は小野 榮一(おの えいいち)。兵庫県西宮市出生。静岡県浜松市出身。昭和を代表する映画スターとして数多くの映画やドラマに主演した。また歌手としても多くのヒットを出し、独特の歌唱法でも有名だった。


人物
戦後派として登場し、甘さと翳りを兼ね備えた抜群の風貌で一躍トップスターに躍り出た。初期はその甘い表情でアイドル的人気を博したが、中年期からは任侠映画や戦争ものでみせた渋い魅力で、日本映画を代表する大スターとして長らく君臨した。また、独特の哀愁を帯びた声と歌唱法により、歌手としても人気が高かった。


家族
女優の鶴田さやかは三女。他に7代目清元延寿太夫に嫁いだ娘もおり、清元節三味線方の清元昂洋、歌舞伎役者の二代目尾上右近は実孫である。


また、弟と称していた俳優の北斗学(北十学)は、若い頃の恋人との間に生まれた実子である。


経歴
生い立ち
戸籍上の出身地は、静岡県浜松市。


西宮時代は父と母は結婚しておらず、鶴田の父である大鳥の家が鶴田の母との入籍を許可しなかったためである。鶴田の母は、鶴田を連れて西宮から浜松へと移り住み、別の男性と籍を入れた[注釈 1]。母は、水商売をして生計を立てていたため、幼かった鶴田は目の不自由な祖母と狭い長屋で暮らしていた。祖母は、鶴田の母を産んだ際栄養失調によって失明。祖母との二人暮らしは極貧そのもので、洗面器で米を炊いていたという。


程なく、祖母が他界。家でたった一人の生活となる。母会いたさに遊廓へ一人で向かったが、客商売の仕事中だった母は相手にしてくれなかった。その上、義父は博打好きであった。


こうした幼少期の思い出から、鶴田は嫌いなものに夕日を挙げている。また、鶴田の娘も父が語った自身の少年時代の思い出話について、友達と遊んだとかそういった仄々とした話題が全くなかったと供述している。


少年時代
14歳の時に、俳優に憧れ当時時代劇スターであった高田浩吉の劇団に入団。此花商業学校から19歳で関西大学専門部商科に入学するがその年に学徒出陣令により徴兵[注釈 2]。終戦まで海軍航空隊に所属し、その体験が人生に多く影響を及ぼした。また22歳の時に薬の副作用で、左耳が難聴になってしまう。1951年(昭和26年)公開の松竹映画「地獄の血闘」に出演した際、共演した歌手の田端義夫に、歌唱方法についてのアドバイスを受け、以後、鶴田は「左耳に左手を沿えて歌う」と言う独特の歌唱スタイルになった。他にも右手小指を立て、マイクを白いハンカチで包んで持つ歌唱スタイルでも有名である。


トップスターへ
1948年(昭和23年)、高田浩吉と大曾根辰夫監督の尽力で松竹入り。芸名の「鶴田浩二」は師匠の「高田浩吉」に由来する。映画界へ身を投じたものの、最初は大部屋に入れられた。いくつかの映画に端役で出演したが、すぐに頭角を現し、長谷川一夫主演の松竹『遊侠の群れ』で本格デビュー。1949年(昭和24年)、『フランチェスカの鐘』で初主演。佐田啓二、高橋貞二と共に松竹「青春三羽烏」と謳われヒットを連発。


1950年代に入っても甘い美貌と虚無の匂いを漂わせスター街道を上り続け、芸能雑誌「平凡」の人気投票で、2位の池部良、3位の長谷川一夫を大きく引き離しての第1位になる。マルベル堂のブロマイドの売上も1位となる。甘い二枚目からサラリーマン、侍、軍人、殺し屋、ギャングに至るまで幅広くこなす。


1952年(昭和27年)には戦後の俳優の独立プロ第1号となる新生プロを興した。SKD(松竹歌劇団)のトップスター、ターキーこと水の江瀧子(後に石原裕次郎を発掘しプロデュース)らが所属タレントとなった。恋人と噂された岸惠子と共演した、戦後初の海外ロケ映画『ハワイの夜』(新生プロ制作)も大ヒット。戦後最大のロマンスといわれた二人だが、岸が所属する松竹はそれを許さなかった。鶴田は自殺未遂事件を起こす。同年、「男の夜曲」で歌手デビュー。歌手としてもヒットを飛ばし戦後の日本を代表する大スターとなっていく。


襲撃事件
1953年(昭和28年)1月6日午後7時頃、大阪・天王寺で鶴田浩二襲撃事件が発生した。鶴田は美空ひばりの芸能界の兄貴的存在であり、ひばりの後ろ盾である山口組三代目組長の田岡一雄とは旧知の間柄であったにもかかわらず起きた事件であった。後に田岡は鶴田と会う機会があったが、田岡は脅しや暴力に屈しない鶴田の筋を通す生き方を認め和解、親交を深める事になっていく。「三代目の前で堂々としているのは鶴田ぐらいのもの」と周囲が驚くほどであった。


1955年(昭和30年)、マネージャーの兼松廉吉が青酸カリを飲み死亡。1956年(昭和31年)1月15日、元山口組興行部の西本一三は関西汽船「ひかり丸」から海に落ち死亡。いずれも自殺とされているが、原因ははっきりしない。


映画界のトップスターを襲った鶴田浩二襲撃事件は大きく報道され、当時まだ一地方の組織であった山口組が一気に全国的知名度を持つことになった。それと同時に山口組の機嫌を損ねると酷い目に遭うという恐怖を日本の芸能界興行界に定着させることになった。


新境地
凄惨な事件の後も人気は衰えず、1953年(昭和28年)夏、『野戦看護婦』(児井プロ制作・新東宝配給)ではたった1日の拘束で出演料が300万円という日本映画史上最高額のギャラを得る。これまで松竹との契約ギャラが1本につき180万円で45日間拘束であった。因みにこの年の映画館の入場料は80円であった。尤も松竹入社駆け出しの頃は1本が15万円と言う薄給だった苦痛も味わっておりそれが松竹退社と独立プロ設立につながったとマキノ雅弘監督はコメントしている。花道を通る間に真っ白い着物が女性ファンの口紅で真っ赤になるほど浩ちゃん人気は凄まじく、平凡・明星でも人気投票No.1を守り続け、昭和20年代最大のアイドルとして君臨した。裕次郎以前の映画界において抜群の集客力であった。


新生プロは「ハワイの夜」の他「弥太郎笠」等ヒット映画を複数出し、クレインズ・クラブ・プロも主宰したが、信頼していた経理担当者に2000万円を持ち逃げされ鶴田は独立プロの難しさを実感し、フリーとなり、松竹、新東宝、大映、東宝の各映画会社で主演した。が東宝のプロデューサー藤本真澄は稲垣浩監督&三船敏郎主演宮本武蔵三部作で佐々木小次郎を演じさせる為に松竹から引き抜いたとコメントしており真偽は不明である。


1953年には海軍飛行予備学生の手記集を原作とする独立プロ系作品『雲流るる果てに』に主演。レッドパージで浪人中だった家城巳代治監督、木村功ら新劇系の共演陣とは特攻観をめぐって対立することもあったが、夜を徹しての討論などでわだかまりを解き、初期の代表作となった。鶴田は試写で人目もはばからず泣き続け、「天皇陛下にご覧いただきたい」とも発言している。


東宝との契約では、必ずクレジットのトップとすること、専属マネージャーを帯同する等の条項が入っていた。鶴田は東宝のスタジオにも大スターらしく、常に大勢の取り巻きを連れて入った。しかしそれは三船敏郎や戦前から活躍する大御所俳優、大監督でも専属のマネージャーは勿論、付き人、個室もないという民主的な社風の東宝ではスタッフの反発を招いた。1955年の『続宮本武蔵 一乗寺の決闘』では佐々木小次郎役の準主演者鶴田が、宮本武蔵役の主演者三船を差し置いてクレジットのトップとなった。


1955年(昭和30年)、大映で山本富士子と共演した『婦系図 湯島の白梅』(衣笠貞之助監督。泉鏡花の名作『婦系図』の映画化)での美しく哀しい恋愛シーンは今も語り継がれている。しかし、1956年(昭和31年)の作品『日本橋』(市川崑監督。原作は同じく泉鏡花)にも出演予定だったが、撮影所所長と交際していたある女優を寝取る、というスキャンダルを起こし[1]、降板となる。


1958年(昭和33年)、東宝と専属契約を結ぶ。主演作を作り続けるが、専属初主演は「旅姿鼠小僧」で岡本喜八監督「暗黒街の顔役」と「暗黒街の対決」は興行的にも作品評価も高い成功作だがいずれも名コンビだった三船敏郎の方が評価が高く単独主演ではかつてのような大ヒットに恵まれず、初めてのスランプを味わう。


1960年(昭和35年)、東映のゼネラルマネージャー的立場にあった岡田茂(のち、同社社長)が[2]、第二東映の設立による役者不足を補うため、『現代劇も時代劇の出来るいい役者はいないか』と俊藤浩滋に相談し、『それなら鶴田浩二がぴったりや』と俊藤が鶴田を口説き[3][4]、当時は五社協定(この頃は六社協定)があり移籍は難しかったが、東宝の藤本真澄プロデューサーに相談すると『どうぞ、どうぞ』と、東映に円満移籍となった[4]。時代劇ブームを巻き起こした東映京都撮影所に比べヒットがなかった現代劇の東映東京撮影所の救世主となるべくして高待遇で迎えられる。第1回作『砂漠を渡る太陽』で医師役に扮したのを始め、現代劇、時代劇、ギャング物と数々のジャンルの作品に主演し、重厚な演技を見せたが、決定打に欠けていた[4]。


1963年(昭和38年)、『人生劇場 飛車角』に主演し大ヒットさせる[5]。ここから世に言う任侠映画ブームが始まる[6]。時代劇の東映といわれた同社だが時代劇では客が入らなくなっており、多くの俳優、監督、スタッフを解雇せねばならぬほど社は傾いていた。この大ヒットを機にヤクザ映画会社に変貌を遂げ、成功。鶴田も任侠路線のトップスターとして高倉健と共に多くのヤクザ映画に出演。本職も唸らすその男の情念は熱狂的な支持を得た。ヤクザ映画はテレビの普及で他社の映画館に閑古鳥が鳴く中、多くの観衆を集め続けた。「人生劇場シリーズ」、「博徒シリーズ」、『明治侠客伝 三代目襲名』、「関東シリーズ」、「博奕打ちシリーズ」、『人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊』、オールスターの「列伝シリーズ」の主演は特に有名。


1970年代に入って歌「傷だらけの人生」がヒット。同名で映画化もされた。左手を耳に添えて歌う独特のスタイルはよく知られているところである。第二次世界大戦中に海軍軍人として多くの戦友を失ったことから、戦争の悲劇に対する思いは人一倍であり、それが役者人生の原動力にもなっていたと言っていい。


一方、テレビドラマにも黎明期から出演している。中でも1976年(昭和51年) - 1982年(昭和57年)まで放送されたNHKのドラマ「男たちの旅路」シリーズ(山田太一原作)は大ヒットとなった。


ただ鶴田の評判は必ずしも良好なものばかりではなく、好き嫌いが激しく屈折したプライドから周囲との衝突や暴言も多かったとされる[注釈 3]。撮影所において宇野重吉、加藤泰や三國連太郎とは口も利かなかったという。何か伝言しなくてはならない時には人を介し行った。その場合丹波哲郎が多かった[7]。また山城新伍も快く思っていなかった。山城は鶴田存命中からラジオ番組で 「殺したい俳優がいて鶴田浩二と言う」 など実名をあげて非難していた。一例として 「あの人は必ず遅れてくる、それもわざと。あの人が大スターだと言うのは誰でも知っている。それを皆んなの前でやらないと気が済まないんだ。1時間、2時間経っても鶴田さんが来ない。監督も痺れを切らして次の撮影に移行する。そうすると判で押したように鶴田さんが来て監督の横に椅子を置き撮影を見ている。おもむろに 〝監督、俺は誰だ?〟 はい? 〝俺は誰だと聞いているんだ?〟 鶴田浩二さんです。〝鶴田浩二だろう? 俺の撮影を先にやろう!〟 と言って現在の撮影をストップさせ自分の撮影に入らせる。そして悠然と撮影所を後にする。それの繰り返しで、それを皆んなの前でわざとやるんだよ、あの人は!」 山城の憤りは凄く鶴田存命中から批判していたのだから相当なものだったのだろう。また自著で「当時は、新人俳優が楽屋周りを掃除することが慣習的になっていたが、“俺は芝居をやりに来たんだ。掃除しに来たんじゃねぇ!”って突っ張って一切の雑務を行わなかったし、若山先生側にいたこともあって、鶴田さんとか先輩からかなり嫌われた。かなりとんがってたからね」と述懐した。そのため親しい友人は一人もいなかった一方で、寂しがり屋な一面もあり自分の誕生日には役者仲間を自宅に招待して、バースデーパーティーを開いていたという。 反面、頼まれれば引立て役として若手を育てるため助演するのも厭わず、東宝移籍時に助監督だった福田純が監督昇進した第一作「電送人間」に主演したり佐原健二が「空の大怪獣ラドン」撮影中に大怪我をした際に撮影を強行を知った鶴田は“佐原健二を殺す気か!”と撮影所長に怒鳴り込んだ逸話や東映でも松方弘樹や梅宮辰夫などを公私にわたり可愛がり、松方は俳優だけでなく人生の師匠としても鶴田を慕い、葬儀では号泣した。


詳しい事は、「鶴田浩二ウィキペディア」をご覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E7%94%B0%E6%B5%A9%E4%BA%8C
(wikiより)


 鶴田浩二