酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


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何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

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6491 徳川慶久墓(台東区谷中・谷中霊園)

德川 慶久(とくがわ よしひさ、1884年(明治17年)9月2日 - 1922年(大正11年)1月22日)は、日本の政治家。爵位は公爵。周囲の人々からは有職読みで「けいきゅう様」と呼ばれ親しまれていたという。新字体で徳川 慶久とも表記される。


貴族院議員、第一銀行取締役、華族世襲財産審議会議長などを歴任した。


生涯
1884年(明治17年)9月2日、徳川慶喜の七男として静岡県静岡市紺屋町の屋敷で生まれる。母は側室の新村信。初名は久(ひさし)。徳川慶喜家の継嗣となるにあたって、1902年(明治35年)6月6日に、父の偏諱をとり慶久と改名した[1]。


1908年(明治41年)11月8日、有栖川宮威仁親王の第二王女・實枝子と結婚。實枝子は有栖川宮最後の王女であり、次女・喜久子が有栖川宮の祭祀を継承した高松宮宣仁親王と結婚したのもそのためである。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、同年12月1日に貴族院議員となる。


1922年(大正11年)1月22日10時35分、東京府東京市小石川区第六天町54番地(現・東京都文京区小日向)の本邸で急死。死因は脳溢血とされたが[2]、一部には自殺説も取り沙汰された。元華族の松平幸子(仮名)の証言によると、「眠られぬまま飲んだカルモチンの量を間違えた過失死だった」という[3]。没後、正三位勲三等瑞宝章を追贈される。


人物
柔道二段、碁も素人二段、そのほか撞球、鉄砲、乗馬、ゴルフ、油絵など何をやっても抜きん出ており、頭脳明晰で性格円満だったという。親友の侯爵・細川護立からは、「才気縦横、故慶喜公の好いところを総て受け継いで居た」と評された。ゆくゆくは内閣総理大臣にという声もあがったことがある。
中々の二枚目でもあり、華族の子女から憧れの目で見られた。孫の慶朝は著書で「映画俳優にしてもおかしくないくらい」と評している[4]。


家族
・妻:徳川實枝子(有栖川宮威仁親王第二王女)
 ・長女:慶子(明治43年1月24日 - 明治43年4月2日)
 ・次女:喜久子(高松宮宣仁親王妃、明治44年12月26日 - 平成16年12月18日)
 ・長男:慶光(大正2年2月6日 - 平成5年2月6日)
 ・三女:喜佐子(きさこ、子爵榊原政春夫人(長男は榊原政信)[5]、大正10年10月29日 - 平成25年11月26日[5])
 ・四女:久美子(侯爵松平康昌長男松平康愛夫人、夫の戦死後井手次郎夫人、大正11年9月23日 - )


下の二女に関しては實枝子が里から連れてきたお側女中と慶久との間の子という説がある。また、これに立腹した實枝子も歌舞伎役者との間に子がいたともいう[6]。


脚注
1. 慶喜の「慶」の字は、もともとは江戸幕府第12代将軍徳川家慶から賜ったものである。以降、「慶」の字は子の慶光・孫の慶朝にも付けられている
2. 『大正過去帳―物故人名辞典』
3. 遠藤幸威『女聞き書き 徳川慶喜残照』p.280(朝日文庫、1985年)
4. 『徳川慶喜家にようこそ―わが家に伝わる愛すべき「最後の将軍」の横顔』
5. a b “徳川慶喜の孫、榊原喜佐子さん死去” (日本語). 読売新聞 (2013年11月28日). 2013年11月28日閲覧。
6. 遠藤幸威『女聞き書き 徳川慶喜残照』「慶久さまがお妾にお生ませになった二人のお嬢さまは無事育ってお嫁にいらっしゃいましたけれど、實枝子さまの方は存じません」。ただしこの説の証言者は自称元華族の「松平幸子」という偽名の女性であり、誰なのかは未だ明らかにいなっていない。作家である遠藤幸威の死後はその正体を探る手立てはもはやなくなったため、歴史学的には証言の資料的価値は限りなく低いとみなされている。


参考文献
・徳川慶朝 『徳川慶喜家にようこそ―わが家に伝わる愛すべき「最後の将軍」の横顔』 文藝春秋〈文春文庫〉、2003年。
・稲村徹元編 『大正過去帳―物故人名辞典』 東京美術、1973年。
(wikiより)


関連情報
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 徳川慶久