酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6464 高倉 健墓(神奈川県鎌倉市十二所512・鎌倉霊園)

 こちらに高倉健さんのお骨は納骨されていないようです。






高倉 健[注釈 1](たかくら けん、1931年(昭和6年)2月16日 - 2014年(平成26年)11月10日)は、日本の俳優・歌手。愛称、健さん。福岡県中間市出身、身長180cm、体重71kg、血液型はB型[2]。高倉プロモーション所属。日本を代表する映画スターで、半世紀以上にわたり活躍してきた。代表作は映画『日本侠客伝シリーズ』、『網走番外地シリーズ』、『昭和残侠伝シリーズ』、『新幹線大爆破』、『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』、『野性の証明』、『南極物語』、『ブラック・レイン』、『鉄道員(ぽっぽや)』、『あなたへ』など。2006年に文化功労者、2013年には文化勲章を受章した。


来歴
俳優になるまで
1931年に福岡県中間市の裕福な一家に生まれる。父は旧海軍の軍人で、炭鉱夫の取りまとめ役などをしていた[3]。母は教員だった。幼少期の高倉は、肺を病み、虚弱だった。終戦を迎えた中学生の時、アメリカ文化に触れ、中でもボクシングと英語に興味を持った[3]。学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込み、戦績は6勝1敗だった[3]。英語は小倉の米軍司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行く中で覚え、高校時代にはESS部を創設して英語力に磨きをかけた[3]。旧制東筑中学、福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して明治大学商学部商学科へ進学。在学中は相撲部のマネージャーを1年間務めていた。


大学を卒業したが思ったような就職先がなく一旦帰郷した。家業を手伝っていたが、10か月後に上京[注釈 2]。[要出典]1955年に大学時代の知人のつてで、当時美空ひばりが所属していた新芸プロのマネージャーになるため喫茶店で面接を受けたが、居合わせた東映東京撮影所の所長で映画プロデューサー・マキノ光雄にスカウトされ、東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社。マキノ雅弘は「高倉は山本麟一と同じ、高倉の明大の先輩で東映のプロデューサーだった光川仁朗の口利きで東映入りした」と話している[4]。同期に今井健二・丘さとみ・岡田敏子・五味龍太郎らがいた。


主演スター
ニューフェイスは映画デビューまでに俳優座演技研究所で6か月の基礎レッスン、さらに東映の撮影所で6か月の修行(エキストラ出演など)を経験することが決められていたが、俳優座研究所では「他の人の邪魔になるから見学していてください」と云われる落ちこぼれだったという[5]。しかし採用から1か月半で主役デビューが決定、その際にマキノの知人から「高倉健」と芸名をつけられる。本人はシナリオに書かれてあった主人公の役名「忍勇作」が気に入り、「これを芸名に」と希望したが却下され、嫌々ながらの芸名デビューともなった。演技経験も皆無で、親族に有名人や映画関係者がいるわけでもない無名の新人だったが、翌1956年の映画『電光空手打ち』で主役デビュー。元々俳優を目指していた訳ではなかったことから、初めて顔にドーランを塗り、化粧をした自分を鏡で見た時、情けなくて涙が止まらなかったという。その後、アクション・喜劇・刑事・ギャング・青春もの・戦争・文芸作品・ミステリなど、幅広く現代劇映画に出演し、この頃から主演スターの一人として活躍し、1960年代前半まで時代劇映画をメインにしていた東映では、片岡千恵蔵・中村錦之助・美空ひばりの映画などにも助演していた。また、自らを厳しく律して酒を飲まず、筋力トレーニングを続けていた。


仁侠映画
1963年に出演した『人生劇場 飛車角』以降、仁侠映画を中心に活躍[6][7][8]、耐えに耐えた末、最後は自ら死地に赴くやくざ役を好演し、ストイックなイメージを確立した[9]。本作を切っ掛けに、翌1964年から始まる『日本侠客伝シリーズ』、1965年から始まる『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝シリーズ』などに主演し東映の看板スターとなる[6][9][10][11]。『網走番外地』シリーズの主題歌(同タイトル)は、のちに歌詞の一部が反社会的であるとの理由で一時は放送禁止歌になったが公称200万枚を売り上げ[12]、1966年には『昭和残侠伝』シリーズの主題歌『唐獅子牡丹』も大ヒットし、今も、カラオケなどで歌い継がれている[注釈 3]。


70年安保をめぐる混乱という当時の社会情勢を背景に、「鍛えられた体の背筋をピンと伸ばし、寡黙であり、不条理な仕打ちに耐え、言い訳をせずに筋を通し、ついには復讐を果たす」という高倉演じる主人公は、サラリーマンや学生運動に身を投じる学生を含め、当時の男性に熱狂的な支持を集め、オールナイト興行にまでファンが溢れ、立ち見が出たほどであった。他のスターとは一線を画した印象を示したことが、大ヒットシリーズ連発の一因であったが[6]、本人は年間10本以上にも及ぶ当時のハードな制作スケジュール、毎回繰り返される同じようなストーリー展開、という中で心身ともに疲弊し、気持ちが入らず不本意な芝居も多かったという。そうした中で、何度か自ら映画館に足を運んだ際、通路まで満員になった観客がスクリーンに向かって喝采し、映画が終わると主人公に自分を投影させて、人が変わったように出ていくさまを目の当たりにし、強い衝撃を受けたという。これについて「これ、何なのかな……と思ったことあるよ。わかりません、僕には。なんでこんなに熱狂するのかな、というのは。だからとっても(映画というのは)怖いメディアだよね。明らかに観終わった後は、人が違ってるもんね。」と、当時の様子を客観視し語っている[注釈 4]。当時の風貌は、劇画『ゴルゴ13』の主人公・デューク東郷のモデルにもなり、同作の実写映画版への出演は、原作者のさいとう・たかをたっての要望であったという[注釈 5]。


独立
映画『カミカゼ野郎 真昼の決斗』 (1966年、にんじんプロダクション / 國光影業) を皮切りに、ハリウッド映画や東映以外の作品にも出演していたが、1970年に「ヤクザ映画にも出演し続けるが、好きな映画を作る自由も認めてほしい」と、東映社長・大川博の了承をもらい、高倉プロを設立する[13][14]。しかし翌1971年8月に大川が死去。社長が岡田茂に代わり、特例は認めないと反故にされた[13][15]。


1972年11月、高倉の海外旅行が「高倉健 蒸発」「仕事を放り出して蒸発することで、高倉プロを認めさせる最後の手段に出た」と報道された[13][16]。帰国した高倉は「僕はそんな手段を使って、会社とやり合うようなケチな根性は持ってない」と説明したものの[13][16]、1973年には『仁義なき戦い』がヒットすると[17]、岡田は「鶴田浩二も高倉健もしばらく止めや」[18]と実録路線に変更したため[16][19]、高倉と岡田の関係は悪化[20][21]。「このまま東映にいたら、ヤクザ役しかできなくなる」という危機感も加わり[22]、東映作品の出演を拒みだすようになってしまう[13]。そんな矢先に当時海外で流行中だったパニック映画に触発され東映が企画していた大作『新幹線大爆破』の台本を手にする。本作の企画の面白さに高倉は新幹線に爆弾を取り付ける犯人グループの主犯・沖田哲男役を希望し本作の主演を務めることとなる。高倉がこれまで演じてきた役柄とは大きく異なるキャラクターではあったが、従来のイメージを一新するステップアップ作となり、また海外にも輸出され本作はヨーロッパで空前の大ヒット作となる。その後、高倉は1976年に東映を退社した[20][21][23]。


フリー転向後、同年の映画『君よ憤怒の河を渉れ』(永田プロ / 大映) にて主演。10年以上、出演し続けた仁侠映画のイメージから脱却した。1977年には『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』の2作品に主演し、第1回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞と、第20回ブルーリボン賞の主演男優賞のダブル受賞に輝いた。これ以後も数々の作品に出演し、合計4度の日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞、2度のブルーリボン賞の主演男優賞に輝いている。これと前後してアメリカ映画や中国映画などの海外作品にも出演しており、1998年には紫綬褒章を受章した。一方でテレビドラマへの出演は1977年の初主演作『あにき』をはじめ、5作品である[24]。その出演理由も「故郷にいる母親に、テレビで毎週自分の顔を見て安心して欲しいから」というものである。CMにも数多く出演しているが、富士通のパソコンFMVのCMでは『幸福の黄色いハンカチ』で夫婦を演じた倍賞千恵子と再び夫婦役で共演、コミカルな演技を見せた。


1994年前後にハリウッド映画『ブラックレイン』で一緒に仕事をしていたヤン・デ・ボンがハリウッド版『ゴジラ』の監督に就任した際に劇中に登場する日本人科学者役を高倉にオファーし快諾、ハリウッドに渡米してスクリーンテスト撮影を行い日本のメディアでも報じられるなど出演する準備を整えていた。しかし当時の制作会社だったトライスター・ピクチャーズが制作予算の懸念からヤン・デ・ボンを監督から降ろす処置を取ったため高倉も出演を取りやめている。


2006年4月2日の『世界遺産』(TBS)で初めてナレーションを務めた。
(wikiより)


 高倉 健


 江利チエミさんとのお子様のお墓になります。