酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

71 杉野十平次次房墓

杉野 次房(すぎの つぎふさ、延宝4年(1676年) - 元禄15年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は十平次(じゅうへいじ)。


生涯
延宝4年(1676年)、赤穂藩浅野家家臣・杉野平左衛門の四男として赤穂に生まれる。


母は浅野家臣の萩原新左衛門の娘。母方の萩原家は家中随一の資産家の家系で知られた。長兄杉野兵左衛門が杉野家の家督を継ぎ、次兄萩原三右衛門と三兄萩原平七は萩原家の養子に入った。次房は杉野家の分家筋として8両3人扶持を支給され、札座横目に任命された。元禄7年(1694年)2月の備中松山城受け取りの軍にも従軍している。


元禄14年(1701年)3月14日に主君・浅野長矩が江戸城で高家吉良義央に刃傷に及んだとき、杉野は赤穂にあった。4月、赤穂城開城の際に大伯父にあたる萩原兵助は、萩原家伝来の大砲2門を収城軍の脇坂家に売り払い、これが家中から批判されて、萩原一家は赤穂から逃亡した。杉野も親族として肩身が狭かったとみえ、このあと萩原家と絶縁している。


赤穂城開城後はすぐに江戸へ下向し、江戸急進派と一緒に行動した。また杉野は萩原家から莫大な資産を受けていたので、これを使って彼らの生活を助けた。元禄15年(1702年)6月には浅草茶屋において特に親しくしていた前原宗房倉橋武幸勝田武尭不破正種武林隆重らとともにとともに同盟の誓約をする。8月から三ツ目横丁より吉良邸のある本所へ住居を移し、吉良家の動向の監視にあたった。吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属し、三村包常とともに木槌で裏門を打ち壊す役割をになう。


本懐後、長府藩毛利家上屋敷へ預けられ、元禄16年(1703年)2月4日に毛利家家臣榊庄右衛門の介錯で切腹した。享年28。主君・浅野長矩と同じ泉岳寺に葬られた。法名は刃可仁劔信士。


逸話
杉野次房といえば俵星玄蕃との逸話が有名である。杉野次房は「夜泣き蕎麦屋の十助」として吉良邸の動向を探っていたが、この蕎麦屋の常連客俵星玄蕃と親しくなった。かねてより浅野贔屓であった玄蕃は、浅野長矩の遺臣たちが吉良邸へ討ちいったことを知り、すぐに吉良邸前(もしくは両国橋)にはせ参じた。すると赤穂浪士達の中になんと蕎麦屋の十助がおり、2人は今生の別れを交わす。というもの。


この俵星玄蕃と杉野次房の話は文化の頃に講釈師大玄斎蕃格の創作した逸話である。玄蕃の名は自らの「玄」と「蕃」の字の組み合わせ、また「俵」は槍で米俵も突き上げるという意味、さらに「星」の字は『仮名手本忠臣蔵』の主人公大星由良助(大石良雄がモデル)の「星」の字であるという。


関連項目
大石神社
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/15.html
12 大石良雄外十六人忠烈の跡(港区高輪1・高輪1丁目アパート)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/28.html
25 赤穂浪士ゆかりの寺(台東区谷中5-8・観音寺)


 

 杉野十平次次房









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