酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"


記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

チャック・ベリー氏死去

「ジョニー・B・グッド」など世界的なヒット曲で知られるアメリカの歌手で、ロックンロールを作り上げ、その後の音楽界に大きな影響を与えたチャック・ベリーさんが中西部ミズーリ州の自宅で亡くなりました。90歳でした。


チャック・ベリーさんは、1926年にアメリカのミズーリ州に生まれ、バンドのギタリストとして活動したあと、1955年にデビューしました。


R&Bなどの影響を受けたベリーさんは、ギターで繰り返し奏でられるリフと呼ばれるフレーズが印象的な「ロール・オーバー・ベートーヴェン」や、「ジョニー・B・グッド」などをヒットさせ、エルビス・プレスリーやバディ・ホリーとともにロックンロールを作り上げたとされています。


その後、ビートルズが曲をカバーしたほか、ビーチ・ボーイズがベリーさんの「スウィート・リトル・シックスティーン」をもとにした「サーフィン・U.S.A.」を大ヒットさせるなど、1960年代以降の音楽界にも大きな影響を及ぼし、1986年にはロックの殿堂入りを果たしています。


公式のウェブサイトによりますと、90歳のことし、38年ぶりに新しいアルバムを発表する予定だったということです。


地元の警察によりますと、ベリーさんは18日に自宅で倒れ、その後病院で死亡が確認されたということです。


● チャック・ベリー
チャールズ・エドワード・アンダーソン・ベリー(Charles Edward Anderson Berry、1926年10月18日 - 2017年3月18日)はアメリカのミュージシャン・ギタリスト。「チャック・ベリー(Chuck Berry)」の名で知られる。
ロックンロール創始者の1人で「ロックの神様」と敬われ、最初期のギター・ヒーローとして認知されている。
ローリング・ストーン誌選出『歴史上最も偉大な100人のシンガー』第41位[1]。同『歴史上最も偉大な100組のアーティスト』第5位。同『歴史上最も偉大な100人のギタリスト』2003年は第6位、2011年の改訂版では第7位。


概要
特徴的なギターリフを使った音楽スタイルは、後輩ロックミュージシャン達に多大な影響を与えた。また、社会的メッセージが込められた数々の歌は、1950~60年代の若者に共感された。80歳を超えて以降もステージ活動を続けた。
ベリーを敬愛しているジョン・レノンは「ロックンロールに別名を与えるとすれば『チャック・ベリー』だ」と述べている[2]。
1986年の第一回『ロックの殿堂』入りを果たした際に殿堂は「ロックンロールを創造した者を一人に限定することはできないが、最も近い存在はチャック・ベリー」としている[3]。


経歴

 全盛初期のショット (1957年)



1926年、6人兄弟の3人目の子としてミズーリ州セントルイスに生まれる(一部の伝記では、カリフォルニア州サンノゼ生とする説もあり)。父親はバプテスト教会の執事も務める建設請負業者で、母親は教師というセントルイスの中流家庭で育った彼は幼少時から音楽に興味を示した。6歳の頃から聖歌隊に加わり、高校時代には初めて人前で演奏した。一方、不良仲間に影響され様々な悪事に手を染めた。高校卒業直前の1944年に自動車強盗の罪で感化院へ送られるが、1947年に釈放された。


1953年、ピアニストのジョニー・ジョンソン率いるサー・ジョン・トリオにギタリストとして加入する。間もなく、ジョンソンに代わってベリーがこのバンドのリーダーとなった。彼のステージを見たマディ・ウォーターズの口利きによって1955年、チェス・レコードと契約し、シングル「メイベリーン」(全米5位)でデビューした。独特のギター奏法とギターを弾きながら腰を曲げて歩く「ダックウォーク」が話題となった。


1956年にはシングル「ロール・オーバー・ベートーヴェン」(全米29位)等がヒット。1957年、最初のアルバム『アフター・スクール・セッション』を発表した。シングル「スクール・デイズ」(全米3位)、「ロックンロール・ミュージック」(全米8位)等がヒット。翌1958年には2枚目のアルバム『ワン・ダズン・ベリーズ』を発表し、シングル「スウィート・リトル・シックスティーン」(全米2位)、「ジョニー・B.グッド」(全米8位)、「キャロル」(全米18位)等がヒットした。1959年には3枚目のアルバム『ベリー・イズ・オン・トップ』を発表した。


いくつかのヒット曲を発表し、公演旅行を行った後の1959年12月、ベリーはメキシコで出会った14歳のウェイトレスを連れ回し売春を強要した容疑で、マン法(Mann Act, 不道徳な目的のために女性を州境を越えさせることを禁じる)に違反したとして逮捕され「懲役5年と罰金5,000ドル」が下った。


やがて、ロックにとって最初の闇の時代が始まった。エルヴィス・プレスリーの徴兵とリトル・リチャードの引退(1958年)とバディ・ホリーの事故死(1959年)が続き、さらに翌1960年にはイギリスでも、エディ・コクランとジーン・ヴィンセントが交通事故に遭い、コクランが死亡している。ベリーに対する判決・懲役5年は後に3年に減刑されたが、マン法はベリーのようなアーティスト達を狙い打ちするための法律とも言われており、その逮捕と判決には黒人差別意識も少なからず影響していると考えられている。べリーは刑に服した後1963年に釈放された。


3年間の刑務所生活があったにも関わらず、ベリーはデビューからの10年間で30枚以上のシングルを発表し、1960年には4枚目のアルバム『ロッキン・アット・ザ・ホップス』を発表している。しかし、必ずしも全てがヒットとなった訳ではなかった。1964年、ビートルズやローリング・ストーンズ等の人気バンドがベリーの曲をカバーした[4]ため、ベリー自身の人気も再浮上し、シングル「ネイディーン」(全米23位)、「ノー・パティキュラー・プレイス・トゥ・ゴー」(全米10位)、「ユー・ネヴァー・キャン・テル」(全米14位)等がヒットした。


1972年、アルバム『ロンドン・チャック・ベリー・セッションズ』(全米8位)、シングル「マイ・ディンガリング」(全米1位)、「リーリン・アンド・ロッキン」(全米27位)がヒットした。


1979年、脱税の罪で逮捕されるが、年内に釈放された。


1981年に初の日本公演を行っている。


1986年に『ロックの殿堂』入りを果たした際に殿堂は「ロックンロールを創造した者を一人に限定することはできないが最も近い存在はチャック・ベリー」としている[5]。


また同年、キース・リチャーズがオールスターのバンド・メンバーを集め、ベリーの故郷セントルイスで、生誕60周年記念コンサートが行われた。このときの様子は、テイラー・ハックフォード監督によって記録され、翌年映画『ヘイル!ヘイル!ロックンロール』として公開された。ひとりのファンとしてベリーの音楽を記録したいというキース・リチャーズの熱意が感じられるのと同時に、ベリーの破天荒な性格が伝わる興味深い内容となっている。[独自研究?]


2000年、舞台芸術分野における貢献者に与えられるケネディ・センター名誉賞を授与される。


2005年、著作権を侵害されたとしてカラオケ業社3社を訴えた。


2008年には、日本テレビ開局55年のキャンペーン「日テレ55」にて「Johnny B. Goode」の替え歌を自ら披露している[6]。


2017年にはオリジナルアルバム『Chuck Berry』を発表する予定だったが[7]、3月18日に死去した[7]。90歳没。


詳しい事は『チャック・ベリー・ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%BC
(wikiより)



Chuck Berry Performs \"You Can't Catch Me\" in 1956's \"Rock, Rock, Rock!\"


R.I.P. Charles Edward Anderson Berry