酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6176 酒井抱一住居跡(台東区根岸5-11-33)

このあたりに、江戸時代後期の俳人、画家・酒井抱一 ( 1761 ~ 1828 ) の晩年の住居・雨華庵 ( うげあん ) があった。


抱一は姫路城主・酒井忠以 ( たださね ) の弟。


少壮より文武両芸に通じ、寛政 9年 ( 1797 ) 京都で出家、文詮暉真 ( ぶんせんきしん ) の名を与えられ江戸に帰った。


画は尾形光琳に私淑して一家をなし、また俳諧等にも秀で、谷文晁・亀田鵬斎の文人と親交があった。


抱一は文化 6年 ( 1809 ) 以来、この雨華庵に閉居し、土地の名物鶯に因んで鶯村 ( おうそん ) と号し、正月 15日には画始 ( えはじめ ) 、10月 5日には報恩講を開き、また文政 9年 ( 1826 ) 6月には、庵で光琳忌を催している。


抱一の後を継いだ画家・鶯蒲もここに住して、雨華庵二世と呼ばれた。
(案内板より)


● 酒井抱一
酒井 抱一(さかい ほういつ、 宝暦11年7月1日(1761年8月1日) - 文政11年11月29日(1829年1月4日))は、江戸時代後期の絵師、俳人。 権大僧都。本名は忠因(ただなお)、幼名は善次、通称は栄八、字は暉真(きしん)。ほか、屠牛、狗禅、鶯村、雨華庵、軽挙道人、庭柏子、溟々居、楓窓とも号する。また俳号は、ごく初期は白鳧・濤花、後に杜陵(綾)[1]。狂歌名は、尻焼猿人[2]。屠龍(とりょう)の号は俳諧・狂歌、さらに浮世絵美人画でも用いている


尾形光琳に私淑し琳派の雅な画風を、俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風に翻案し江戸琳派の祖となった。


電気
生い立ち
神田小川町の姫路藩別邸で、老中や大老にも任じられる名門酒井雅楽頭家、姫路藩世嗣酒井忠仰の次男(第4子)として生まれる。母は大給松平家の出自で松平乗祐の娘里姫(玄桃院)。姫路藩主・酒井忠以の弟。抱一は兄に何かあった場合の保険として、兄が参勤交代で国元に戻る際、留守居としてしばしば仮養子に立てられている。安永6年(1777年)6月1日17歳で元服して1,000石を与えられるが、同年忠以に長男忠道が生まれると、仮養子願いも取り下げられてしまう。古河藩主土井利厚などから養子に行く話も多くあったが、抱一は全て断った(理由は不明)。こうした複雑な環境が抱一を風雅な道へと進ませたと言えるかもしれないが、江戸時代に同じ環境にあった大名子弟は多くいたにもかかわらず、今日文化史に名を残した者は増山雪斎や幕臣出身の浮世絵師鳥文斎栄之、水野廬朝などごくわずかしかおらず、抱一の何かを表現したいという情熱は似た境遇の同輩とは一線を画している。


若き日の遊興


酒井雅楽頭家は代々文雅の理解者が多く、兄・忠以も茶人・俳人として知られ、当時の大手門前の酒井家藩邸は文化サロンのようになっていた。一般に若い頃の抱一は、大名子弟の悪友たちと遊郭に通う放蕩時代と言われるが、兄の庇護のもと若い頃から芸文の世界に接近していく。


絵は武家の倣いで狩野派につき、中橋狩野家の狩野高信(1740-1794年)や狩野惟信に手解きを受けたようだが、酒井家は長崎派の宋紫石・紫山親子を頻繁に屋敷に招いており、兄忠以には南蘋風の作品が残る。また、天明3-4年(1783年-1784年)の頃から浮世絵師の歌川豊春に師事し、師風を忠実に模す一方で、波濤の描き方には長崎派の影響が見える肉筆美人画「松風村雨図」(細見美術館所蔵、豊春の「松風村雨図」(浮世絵太田記念美術館蔵)の模写)なども描いている。抱一の肉筆浮世絵は10点ほど現存するとされ、それらは馴染みの遊女を取り上げながらも気品ある姿で描き、知人の大田南畝が狂詩を加賛している。抱一の美人画は、初期の礒田湖龍斎風の作例や末期の鳥文斎栄之に通じる作品を除けば、豊春作と見紛うばかりの高い完成度を示すが、自分独自の美人画様式を産み出そうとする関心はなく、遊戯的・殿様芸的な姿勢が抜けきれていない。画号も新たに持たず、俳号や狂歌名を落款に使い回す態度もそれを裏付けている[3]。


俳諧は元服と同じ時期ごろ大名の間で流行していた江戸座俳諧の馬場存義に入門。次第に江戸座の遠祖宝井其角を追慕し、其角の都会的で機知に富み難解な句風を、抱一はあっさり解き自在に味読、自身の創作にも軽やかに生かした。書き始めたのは寛政2年だが、それ以前の句も含む句日記『軽挙館句藻』(静嘉堂文庫蔵)を晩年まで記し続け、抱一の芸術を語る上で大きな柱となっている。後の文化9年(1812年)にここから自選した『屠龍之技』を刊行した。狂歌においても、当時全盛期を迎え後に「天明狂歌」と呼ばれる狂歌連に深く交わり、狂歌本に抱一の句や肖像が収録され、並行して戯作の中に抱一の号や変名が少なからず登場する。その歌は必ずしも一流とは言えないが、しばしば狂歌本の冒頭に載せられ、その肖像は御簾越しで美男子として描かれるなど、貴公子としてグループ内で一目も二目も置かれていたことを表している。


詳しい事は『酒井抱一ウィキペディア』を御覧下さいませ。 ⇩

(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/97.html

94 宝井其角「ゆふたちや」の句碑(墨田区向島2-5-17・三囲神社)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/287.html
274 八百善跡(台東区東浅草1-8-12付近)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/294.html
281 亀田鵬斎墓(台東区今戸・称福寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/297.html
284 酒井抱一墓(中央区築地3・築地本願寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/376.html
362 佐原鞠塢墓(墨田区東向島3-23-17・蓮華寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/377.html
363 向島百花園(墨田区東向島3-18-3)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/708.html
665 尾形乾山墓と碑(豊島区西巣鴨4・善養寺)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1145.html
1057 加藤千蔭墓(墨田区両国2-8-10・両国回向院内)

http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/2531.html

2308 八方睨みの亀の絵(江島神社・奥津宮)