酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6148 呼出し太郎(戸口家)墓(墨田区両国2-8-10・両国回向院内)

1888年、本所南二葉町 ( 現在の墨田区亀沢 ) の俥屋の長男に生まれた。


本名:戸口貞次郎。


すぐ隣が大関初代・朝汐太郎の家だったこともあり、相撲の盛んな町に育った。


その朝汐の口利きで 1898年、11歳のとき呼出親分の勘太郎の弟子となり、朝汐にあやかって「太郎」の名をもらう。


入門 5年目に小結・源氏山頼五郎以下 40余名の脱走事件があり、そのとき太郎も一緒に飛び出している。


これが苦労の始まりで、いろいろ地方を渡り歩く長い放浪時代もあり、無謀なことも数々やったが、やがて大坂相撲に縁ができ、呼出として再起。


大坂相撲の呼出は満足に太鼓を叩ける者がおらず、太郎はにわかに頭角を現すこととなる。


ここで行司の木村金八 ( 後の木村錦太夫、22代・木村庄之助 ) と知り合い意気投合、生涯の交遊が始まる。


大坂相撲時代、巡業先で太鼓を質に入れたため、宿でカラの醤油樽を借りて叩いたが、仲間の内誰も気がつかなかったという。


その後、昭和時代の幕開けとともに、東京と合併。


太郎は大坂の呼出を全員東京に売り込んで男を上げた。


親分の下地はそのときからで、太鼓も東京の呼出の誰にも負けなかったという。


停年退職した 1960年まで 63年間を貫き、「太鼓の名人」「相撲界の名物男」「呼出の親分」として知られた。


また両国の自宅を長年相撲記者クラブに解放し世話係を務め ( 停年後も続けていた )、確固たる地位を築いた。


この頃はもう櫓に上がることはなかったが、花相撲のおりの「太鼓の打ち分け」はまさに圧巻、独壇場の名人芸だったという。


1952年 1月に行われた巣鴨拘置所、A級戦犯慰問大相撲で「太鼓の打ち分け」を披露し、荒木貞夫、鈴木貞一、畑俊六ら 10人の旧日本軍の重鎮、軍閥の連名からなる礼状が届けられた。


所属が角界一の大部屋出羽海部屋ということも幸いし、出羽海 ( 元横綱常ノ花 )、春日野 ( 元横綱栃木山 ) の両取締とは気軽に口の聞ける立場にあった。


16人の呼出の名前が初めて載った 1949年 5月場所前、太郎は協会で取締に「呼出も番付の隅っこに名前を載っけて欲しい」と請願したのがきっかけで、世話人とともに番付に記載されることになった。


これは 1959年 11月場所、太郎が停年退職する直前まで 10年間続いた。


1969年 11月 3日、秋の叙勲で勲六等単光旭日章を受章。


相撲界では初めて生存者叙勲の光栄に浴した。


1970年 1月 8日には武藏川理事長、春日野審判部長をはじめ 180人が出席し祝賀会が挙行された。


席上、高橋義孝横綱審議委員は「醤油樽叩いてもらう勲六等」の句を披露し祝福した。


1971年 3月 3日、83歳で逝去。
(wikiより)