酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6137 十一代目・振分(鎌田家)墓(墨田区両国2-8-10・両国回向院内)

本名 : 鎌田 健藏


生年月日 : 明治 15年 3月 14日


出身地 : 青森県青森市 ( 旧 青森県南津軽郡 ) 初土俵 明治 31年 1月


所属 高砂[ 1- 2]


新十枚目 明治 38年 1月


改名歴 浪ノ音 → 岩木山 → 浪ノ音 新入幕 明治 39年 1月


最高位 関脇


幕内略歴
浪ノ音 健藏 ( なみのおと けんぞう )
明治 39年 1月 西前 8 3勝 3敗 3分 1休
明治 39年 5月 西前 6 5勝 1敗 2分 1預 1休
明治 40年 1月 西小結 5勝 1敗 1分 1預 2休
明治 40年 5月 西関脇 3勝 4敗 1分 1預 1休
明治 41年 1月 西前 1 5勝 3敗 1分 1休
明治 41年 5月 西小結 3勝 5敗 2休 ( 荒岩の休場 )
明治 42年 1月 東前 3 2勝 3敗 5休
明治 42年 6月 東前 8 3勝 6敗 1休
明治 43年 1月 東前12 4勝 2敗 1預 3休
明治 43年 6月 東前10 6勝 3敗 1預
明治 44年 2月 東前 1 2勝 7敗 1分
明治 44年 6月 東前 5 4勝 5敗 1預
明治 45年 1月 西前 8 6勝 3敗 1分
明治 45年 5月 東前 3 4勝 5敗 1分
大正 2年 1月 東前 8 3敗 1分 6休
大正 2年 5月 西張前 2敗 1預 7休



通算 16場所 55勝 56敗 12分7 預 30休


得意手 右四つ、寄り、巻き落とし、下手投げ、蹴返し 身長 体重 167cm 79kg


年寄名 振分[11] ( 昭和 36年 1月 停年退職 ) 没年月日 昭和 42年 11月 25日 ( 85歳 )


備考 陸奥錦の養父。


子供の時から小兵ながら非常に相撲を好んで土地相撲で取っていたが、明治 30年の夏に高砂の一行が巡業に来た時に志願して入門した。


前捌きが巧く、左筈右差しで一気に寄る速攻から残されれば巻き落としや蹴返しで崩す技能的な取り口。


明治 41年 1月 8日目に、対戦成績が 3戦全敗の梅ヶ谷との対戦を前にして前夜から作戦を練り、足取りを狙う作戦を決めて土俵に上がった。


立ち合いに当たると見せて去なしながら見事に梅ヶ谷の足を取って一気に肩の高さへ持ち上げたが、そのまま静かに下ろすと検査役に自分の負けを申告した。


足を持ち上げた時に、砂が自分の右手中指の爪の間に入っているのに気附いたとの事だったが、行司が確認しようとしても跡は見当たらなかった。


因みに以後も梅ヶ谷には勝てず、対戦成績が 8戦全敗で終わった。


弁論に優れて仲間の信頼も篤く、明治44年 1月の新橋倶楽部事件では力士側の委員として活躍したが、「協会の収支精算に立ち会う」との力士側の要求に反対して両國と共に部屋へ戻ってしまった。


大正 3年の高砂襲名争いでは、温和な性格を見込まれて高砂の婿に成って相続してはと一門の年寄達から勧められたが即座に辞退し、同郷の綾川を担ぎ出したが敗れて出羽ノ海一門に転じた。


部屋を経営しながら宿禰神社の社務を請け負い、昭和 23年には家を建てて住みながら神社を管理し、28年 6月から正式に社務専属で奉仕した。


晩年は角界の生き字引として好角家との交流を好んだ。


右側面には「勇岩才哲信士 明治四十二年十二月七日 岩木野重太郎」とある。


これは幕内を務めた頂専之助の弟で、明治 41年から 42年にかけて幕下に名があるが、42年 12月 7日に現役で亡くなった。