酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

68 貝賀弥左衛門友信墓

貝賀 友信(かいが とものぶ、慶安3年(1650年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士赤穂浪士四十七士の一人。通称は弥左衛門(やざえもん)。本姓藤原氏家紋は重ね扇。


生涯
慶安3年(1650年)、赤穂藩浅野家家臣・吉田之貫の二男として誕生。母は貝賀左門女。兄に吉田兼亮がいる。


庶子であるため、寛文元年(1661年)頃に母の弟である貝賀新兵衛(同じく浅野家中)の養子となる。赤穂藩では中小姓・蔵奉行、2石10両3人扶持。妻はいなかったが、妾が一人おり、その間に一女(お百)を儲けている。


元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、長矩は切腹、赤穂藩は改易となった。城内論争においては友信は家老大石良雄派として行動し、誓紙血判の義盟にも加わる。赤穂城落去後は、浅野家お出入り商人だった京都高倉通り綿屋善右衛門邸に身を寄せた。


元禄15年(1702年)7月18日、江戸幕府閉門中だった浅野長矩の弟・浅野長広広島浅野宗家への永預けを決定し、浅野家再興は絶望的となった。江戸にいた兄・兼亮は、京都にいた友信へ飛札でこれを知らせ、これを受けた友信が山科の大石良雄へ報告した。また7月28日、大石良雄は京都円山に同志を集めて、吉良義央への仇討ちを決定した(円山会議)。義盟には約120名の元赤穂藩士が加わっていたが、大石は同志の真意を探るために血判状の返却を命じる。その使者となったのが友信と大高忠雄であった。血判状の返還に際して、友信らは、浅野家再興が絶望的となったこと大石は腰抜けであてにならないと伝えて相手の反応を見て、それでも血判状の返還を拒む者に対して仇討ちの真意を伝えたという。


江戸下向後は町人喜八郎として八丁堀湊町の片岡高房借家に入った。同年12月14日の吉良邸討ち入りでは表門隊に属し、門の警戒にあたった。


討ち入り後は松平定直の屋敷へお預けとなる。元禄16年(1703年)2月4日、松平家家臣・大島半平の介錯で切腹して果てた。享年54。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。戒名は刃電石劔信士(にんでんせきけんしんし)。


関連項目
大石神社
本妙寺 ‐ 境内に墓がある。
(wikiより)


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/15.html
12 大石良雄外十六人忠烈の跡(港区高輪1・高輪1丁目アパート)


http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/28.html
25 赤穂浪士ゆかりの寺(台東区谷中5-8・観音寺)


 

 貝賀弥左衛門友信









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