酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

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小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6124 鳥居家累代の墓(栃木県下都賀郡壬生町本丸1-1-30・常楽寺)

鳥居氏 ( とりいし ) は、日本の氏族の一つである。


鳥居氏 ( 徳川氏家臣 )
出自は紀伊国熊野権現の神職の家柄である。


鳥居氏の祖である熊野新宮第 19代別当行範 ( 重氏 ) は平清盛から平氏の姓を賜り平氏と称し、通称「鳥居法眼」と呼ばれた。


承久の乱以降の行忠の代には、三河国矢作庄に移り、土着して忠氏と改名したと伝わる。


その後、松平氏 ( 徳川氏 ) に仕えた。


戦国時代では鳥居伊賀忠吉と彦右衛門元忠の父子が著名である。


忠吉は今川氏の傘下において、主のない岡崎城で松平党を崩壊させずに保ち続けた。


駿府で身柄を預けられている幼主・竹千代には、子息・元忠を付随させた。


その元忠は、家康より 3歳年長ということもあり、家康の生涯にあった大小あらゆる合戦に参戦した。


その集大成は関ヶ原の戦いの前哨戦に当たる伏見城の戦いである。


800人の兵で石田三成率いる数万の大軍と渡り合い、深溝松平家忠らと供に戦死した元忠は、のちに「三河武士の鑑」と称えられた。


徳川政権下では、元忠の子・左京亮忠政、土佐守成次などが大名、旗本となっている。


鳥居宗家 ( 左京亮家 ) は最大で 24万石の大身となるが、元忠の孫・左京亮忠恒の代で無嗣断絶となった。


しかし、元忠の功績を鑑みた公儀の計らいにより、忠恒の異母弟・主膳正忠春が減石ではあったが、改めて大名に認められた。


幕末には、庶流の旗本家から鳥居耀蔵 ( 大給松平氏出身、林述斎の子 ) が出て、目付や南町奉行を務めたが、天保の改革での厳しい取り締まりや捜査手法などから名の耀蔵 ( ようぞう ) から「よう」・官位の甲斐守 ( かいのかみ ) から「かい」を取り「ようかい ( 妖怪 )」と蔑まれた。


現在、鳥居宗家は壬生に存在する。


また、下野国であった栃木県内に散らばる多くの鳥居姓は、この鳥居氏の末裔たちである。愛知県岡崎市には鳥居氏発祥地の碑がある。


壬生藩鳥居氏の側近には斎藤氏・森田氏・井山氏・佐々木氏の 4氏がいた。


その 4氏の中でも、森田氏は鳥居家武芸教授指南役方、井山氏・佐々木氏は壬生城護衛方、斎藤氏は鳥居家台所役を預かる忠実な部下だったとの話がある。


鳥居氏が治めた藩の変遷
・1590年 - 1600年 - 下総矢作藩 ( 4万石 )
・1600年 - 1622年 - 陸奥磐城平藩 ( 10万石)
・1622年 - 1636年 - 出羽山形藩 ( 22万石のち 24万石。断絶 )
・1636年 - 1689年 - 信濃高遠藩 ( 3万 2000石。再興 )
・1689年 - 1695年 - 能登下村藩 ( 1万石 )
・1695年 - 1712年 - 近江水口藩 ( 2万石 )
・1712年 - 1871年 - 下野壬生藩 ( 3万石 )


支族
・1600年 - 1632年 - 甲斐谷村藩 ( 1万 8000石のち 3万 5000石。改易 )


「系図」については、『鳥居氏ウィキペディア』を御覧下さいませ。 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E6%B0%8F
(wikiより)