酔いどれJohnny 『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑

酔いどれJohnnyで御座います

小生の拙ブログに御訪問頂き、誠に有難う御座います。


歴史ドラマが流行っている昨今、身近に有って気が付かなかったりする様な物を取り上げたりしています。


御注意 . 少ないですが生前に建てられた『 生前墓 』の記事も有ります。

その場合は『 生前墓 』の表示が付いていますので御注意下さいませ。


説明も、やたら長いものから あっさりしたものまで 関連リンクが多い記事も有りますが、御付き合いの程 宜しく御願い致します。


何か御話しの『 ネタ 』になれば幸いで御座います。


また『 高知市丹中山・歴史公園 』の記事については案内板を引用していますが、"この案内板の文章転用は、前田秀徳様より御許しを頂きました。"

※  「あの頃は若かった」、「おもしろ画像」、「歴史の時間」の画像については「ネット上の画像」を拾って掲載する場合もあります。

記事中の「オレンジ色の文字」は、クリックして頂くと「リンク記事等」にジャンプ致しますので そちらの記事も読んで頂くと、直一層深くなるかもしれません。


どんな話題が有ったのかについては、カテゴリー・タグの『 ブログ更新情報 』を御覧下さいませ。

6114 斉藤家歴代(斎藤玄昌)墓(栃木県下都賀郡壬生町本丸1-1-30・常楽寺)

斉藤家歴代の墓の中に、齋藤玄昌 ( 玄正 ) の墓は有ったのですが 何代目なのかは判別不可でした。


● 名医 齋藤玄昌
齋藤玄昌は文化 6年 ( 1809 )、梁田郡羽苅村に壬生藩医・齋藤玄正を父に生まれ、天保 5年 ( 1834 )、父と同じ壬生藩の藩医となり、蘭方医として活躍した人物である。


諱を知柔、通称を玄昌 ( 玄正 )、号を一瓢と称し、私塾を開き、門人の育成に当たった。


明治 4年 ( 1871 ) に、明治維新の動揺が収まらないとき、私学校の経営を企画したが、それを果たさぬまま翌 5年に 64歳で亡くなった。墓は壬生町常楽寺にある。


父が初代・玄正を名乗ったことから、知柔は二代目・玄昌と呼ぶ。


玄昌の跡は門人・佐久間玄悦が養子となって継いで、三代目・元昌を名乗った。


● 二宮尊徳への診療


二宮尊徳 ( 1787 ~ 1855 ) は、報徳仕法という独自の方法によって、農村復興事業に取り組んだ農政家である。


安政 2年 ( 1854 )、真岡の東郷から今市報徳役所に移った尊徳は殆ど病床に臥し、翌 3年になると病状は一進一退をくり返し、当代の名医がつぎつぎと駆けつけて治療に当たった。


その一人が壬生藩医の齋藤玄昌である。


玄昌は何度も来診した。


帰ったその日に迎えに行くという状況で、片道九里、一日行程の地から玄昌は不便を押して往来した。


10月に入り病状は重くなり 20日、家族や門人に見守られながら息を引き取った。遺体は如来寺境内に葬られた。


関連情報
http://drunkenjohnny.muragon.com/entry/1095.html

1012 二宮尊徳墓(文京区本駒込3-19-17・吉祥寺)